世の中には本音と建前というものがあってね
最悪の事態が起きた。
それまでひた隠しにしていたあっくんの存在が、篤子に知られてしまった。
数時間前に篤子から『相談したいことがあるから今日会えないか?』というSMSが来た時には、風邪をひいたので無理だと断ったはずなのに、なぜか今ここにいる。
篤子によると一旦は諦めたものの、その後たまたま私の家の近所まで来る用事があり、お見舞いがてら訪問することにしたらしい。
「いやあ、アンタも人が悪いわねえ。どうして今まで隠してたのよ。こーんな素敵な彼氏がいたなんて。しかも年下の。アンタって意外と肉食系なのね」
お見舞い用のリンゴの皮を向きながら、篤子が茶化すように笑う。
「だからただのお隣さんだって言ってるでじゃないの」
「アーハイハイそうよね。確かに最近のお隣さんは一人暮らしの女の家にも自由に出入り出来るもんねー」
あからさまな皮肉。
自分でも苦しい言い訳だと思っている。
あっくんと対面した時、昔から交流のあるお隣さんで、幼馴染のようなものだと紹介したのだけれど、篤子が信じていないのは一目瞭然だった。
さすがに結婚のことまでは見抜かれていないけど。
そのあっくんはキッチンで篤子の為のお茶を用意していて、現在、寝室には私と篤子の二人きり。
「それで、あんた達どこまでやってんの?」
「凄い直球な言い方……違うって言ってるじゃない」
「否定しても全然説得力ないわよ。うら若い男女が家に二人きりでいて、やることと言えば愛の肉体行動しかないでしょうが」
「発想がだいぶ偏ってると思うんだけど……だいたいさっきスマホでお見舞いには来なくていいって言ったのにどうして来たの?」
「だって麻由香には妊娠の件で色々とお世話になったし、恩返ししたくて。一人暮らしの女が風邪ひいたら生活とか大変でしょう? まあその必要はなかったみたいだけど」
あっくんがいるキッチンの方角を見ながら、篤子は揶揄するように笑う。
「『来なくていい』って言ったのは『来て欲しくない』って意味だったんだけど……」
「そうなの? ならハッキリとそう言ってくれればよかったのに。そしたらすっぱり諦めたから」
「世の中には本音と建前というものがあってね……」
でも確かに篤子の言うように、本音を言わないと伝わらない相手もいる。
やっぱり返信を打った時に、ちゃんと「来なくていい」と言うべきだったのだろう。
「じゃあ今すぐ帰って欲しいって言ったら帰ってくれる?」
「いいわよ。でもその前にあんたの彼氏との関係について詳しく教えてくれたらね」
そう来ると思った。
「そう言われても本当にただのお隣さんだってこと以外、説明のしようがないよ」
「……本当にい? なにか私に隠してない?」
篤子は訝しげな視線を私に向けてきた。
探るような眼差しに見つめられ、思わず萎縮しそうになるが、なんとか堪える。
と、そこへあっくんが湯吞み茶碗を載せたお盆を持って戻って来た。
「お茶を淹れてきましたのでどうぞ」
「あら、ご親切にどうも」
丁寧にお辞儀をして茶碗を受け取る篤子。
「渕崎君だったわよね。アナタ、実際のところ麻由香とどういう関係なの?」
「さっきも言いましたけど本当にただのご近所さんですよ。子供の頃から交流があるから姉みたいに思ってるんです」
あっくんには予め事情を説明しておいたので、私に話を合わせてくれている。
私達が結婚する前はあっくんが言った通りの関係だったので、嘘は言っていない。
「そう、なら今度私と二人きりでお茶でもどう? もちろんあなたに恋人とかいなかったらの話だけど」
「え、えーと……たった今飲んでるのもお茶だと思うんですけど。というか妊娠されているんですよね?」
ところが私の予想に反して、篤子は妊娠中にも拘らず、あっくんに思わせ振りな態度を取り始めた。
篤子があっくんの腕に触れるのを見て、私は非常にやきもきした気持ちになる。
慌てて注意しようとしたが、その寸前で私はふと気がついた。
これはわざとあっくんを誘惑するふりをして、私の反応を確かめる作戦だ。本当に私達が恋人関係じゃないかどうか。
ここで私がちょっとでも動揺する素振りを見せたら、篤子の思う壺になる。
「……篤子、妊娠中してるのにナンパなんて非常識でしょう」
篤子に怪しまれないよう、私はことさら自然体を装ってさり気なく注意する。
常識的な人間なら、妊娠中の女性が他の男性を誘惑するのは誰もがおかしいと思うはず。
しかし篤子は意に介した様子もなく――
「いやー、実を言うとこの前、彼氏の親に挨拶をしに行ったら色々と揉めちゃってね、『金目当てで息子に近づいたんだろう』って言われちゃって。だからもし私が捨てられたらお腹の子には頼りになる父親が必要でしょう?」
なるほど、今日相談したいと言っていたのはその件だったのか。
でもだからってここで相手を探すのはどうなの。
「それに別に彼は恋人でもなんでもないんでしょう? それともやっぱり違ったの?」
「そ、それは……」
いや、恐らく篤子は本気であっくんを誘惑しようなどとは考えていないだろう。
これも私の動揺を誘う作戦なのだ。乗せられてはいけない。
「あ、あのぉ……お話し中申し訳ないんですけどそろそろ麻由香さんはやらなきゃいけないことがあるのでお引き取り願えませんか?」
と、そこへ見かねたあっくんが会話に入り込んでくる。
「やらなきゃいけないことってなに?」
「あーそれは……まあアレですよ。ね、麻由香さん?」
そう言って意味ありげに私に目配せする。実際はやらなきゃいけないことなんてない。
きっとあっくんが私を助ける為に咄嗟に考えた作り話だろう。
ここは話を合わせておくことにする。
「そ、そうそう、そういえば今度の仕事で使う資料のチェックをしなきゃいけなかったんだ。だから悪いけど今日のところは帰ってもらえないかな?」
「ふーん……」
篤子は最初は訝しんでいたが、彼女にはあっくんの嘘を本当かどうか確かめるすべはない。
いずれ諦めて帰らざるを得なくなるだろうと思ったその直後――
「あーっといっけなーい。お茶が零れてズボンが濡れちゃったぁ」
篤子はあからさまに不自然な動作で、自分のズボンにお茶を零すと、わざとらしくそう言った。
「あちゃー、これじゃあ外を出歩けないわねえー。悪いけど洗濯機貸してくれないかしら? ついでにシャワーも浴びさせて欲しいなぁ」
そういうことか。どうやら作戦を変えてきたようだ。
そうやって服をわざと汚せば、洗濯する為に私の家に長く居座り続けることが出来るという寸法だ。
よもや濡れたズボンのまま追い出すなんてこと、私には出来ないだろうと見越して。
「ああ、申し訳ないんですが麻由香さん
と、そこへあっくんが咄嗟の機転でさらにもっともらしい話を作り上げる。
「あら、どうして君がそんなこと知ってるの? 付き合ってるわけでもないのに」
「いやそれは……この前、俺ん家の洗濯機を借りに来たからですよ。俺達、昔からお互いに家電とかが壊れたら相手のを使わせてもらったりしてるんです」
「はあ」
今のは上手い切り替えしだと思った。
実際に家電のやり取りをしているのは本当だから、彼の言葉には非常に説得力がある。
篤子はまだ腑に落ちない様子だけれど、もはや反論する材料が尽きたのか、なにか言いたそうに沈黙するだけだった。
そしてやっとのことで、この一言を絞り出した。
「でも私この格好じゃあ外に出られないんだけど……」
「そ、それなら私の服を貸してあげるから大丈夫! それでいいでしょ?」
こう言えば、これ以上この家にいる口実もなくなって、帰らざるを得なくなるはず。
篤子はそれでもしばらく粘っていたが、やがて観念して大人しく帰ることにした。
ようやく嵐が過ぎ去ったような気分だった。
「なんかずいぶん変わった人だったね」
篤子を玄関まで送った後、あっくんが戻って来てそう言った。
「本当にありがとね。あっくんがああ言ってくれなきゃ面倒なことになってたかも」
「いや、俺も前に同じようなことで助けてもらったし、その恩返しってことで」
同じようなこととは富安という人のことを指しているのだろう。
確かにあの人もかなり変わった人だという印象を持っている。
けれど、まだ問題は完全に解決したわけではない。
篤子にあっくんのことを知られてしまったのだから。
これからどうなることやら。
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