ほ、ホイッ!?

 その日はなんだか麻由香さんの様子がおかしかった。

 全体的にどことなく挙動が不自然だし、こちらが話しかけてもぎこちない返事をするだけ。

 一体どうしたのだろう。まるでなにか重大な隠し事でも抱えているかのようだ。

 これから姉に教わった手法を実践しようと思っていたところなのに、気になって仕方がない。


「あの……麻由香さん?」

「ほ、ホイッ!?」


 普段の彼女からは想像出来ないような素っ頓狂な声。


「どどど、どうしたのあっくん?」


 いや、それはこっちの台詞なんですが。まるで怯えた子犬のように妙にオドオドしている。

 とりあえず姉のアドバイスを試してみよう。


「その……この前クライミングのジムに通ってるって言ってたよね。実は俺もちょっと興味がわいたから、どうやるのか教えて欲しいんだけど」

「う、うん。いいよ」


 姉曰く、恋人との距離を縮める秘訣その一は、まず相手の趣味に興味を持つこと。どうしても興味を持てない場合は演技でも構わないとのこと。

 正直、本当にそんなことで上手くいくのか疑問だったが、取りあえず麻由香さんの趣味の中で、俺でも出来そうなものを選択して試してみることにした。


「私は駅の近くにあるジムでクライミングしてるんだけど、今度あっくんも一緒に行ってみる? ……あ、でも大丈夫かな、あっくんって高所恐怖症じゃなかったっけ?」

「ま、まあちょっとね、でも少しくらいなら平気だよ」

「うーん……でもあそこの壁は初心者にはちょっと厳しいんじゃないかな。一番低いところで10mはあるし」

「え……そ、そんなに?」

「うん、もちろん安全ロープがあるから落ちる心配はないけど、助けられるまでは変な格好でぶら下がったままになっちゃうよ」

「そ、そうなんだ……」


 10mもの高さで宙吊りになるところを想像したら、背筋に悪寒が走った。

 色々と惜しい気もするが、俺にとっては想像以上にハードらしいので、麻由香さんと一緒にジムに行くのは断念することにしよう。


「それで、どうするあっくん? 挑戦してみる?」

「えっと……そ、そうだ。そういえば少し前に階段で転んで手首を痛めちゃったんだよね。それで医者から激しい運動は禁止されているんだった」

「え、そうなんだ」

「ああ、だからクライミングは出来ないんだよ。それがなかったら是非やりたいんだけどね。いやぁ残念ダナー」

「そっか、じゃあ仕方ないね」


 なんとか仮病で誤魔化せた。


「あ、そうだ。ねえ紗月さんから聞いたんだけど、あっくんってマッサージが得意なんだって?」

「……え」


 唐突な話題転換に、一瞬なんのことを言っているのか理解できなかった。

 確かに一年ほど前、肩こりが酷かった時期に、そういった本を読み漁ったことはあったが、別に得意というほどでもない。俺が本を読んでるところを目撃した姉が、勝手に勘違いしただけだろう。

 しかし、せっかく麻由香さんが興味を示してくれているのだから、ここは話を合わせたほうが得策かもしれない。姉も相手が興味してくれたら、こちらも興味があるフリをしろとアドバイスしている。


「ま、まあ得意ってほどでもないけど、少しくらいなら経験あるよ」

「そう。じゃあもしよかったら私にもマッサージしてくれないかな?」

「え」

「原因はよくわからないんだけど私、昔から肩こりしやすい体質で、マッサージ屋さんに行こうかとも考えているんだけど、やっぱり知らない人に身体を触られるのは抵抗があって……あっくんがしてくれたら嬉しいんだよね」


 “原因はよくわからない”という部分で、俺の視線が麻由香さんの胸元に集中したのは内緒である。

 あの麻由香さんの肩を揉みしだくのか……。まだ恋人らしいスキンシップもほとんどしていないのに、いきなりそんな頼みごとをされるとは、戸惑いを禁じ得ない。

 しかしまあ肩揉みくらいなら素人でもよくやるし、別にいかがわしいことでもないからいいか。

 たとえ素人に毛が生えた程度の腕しかない俺でも、十分に麻由香さんを気持ち良くさせることが可能なはず。……なんか自分で言ってていかがわしい台詞のように思えてきた。

 とりあえず頼まれたからには、麻由香さんをカウチに座らせてマッサージを開始した。


「麻由香さん、痛かったら遠慮せず言ってね」

「うん、大丈夫」


 実際にやってみると、マッサージは思ったほどいかがわしい感じにはならずに済んだ。

 麻由香さんがまたピラティスの時のように艶めかしい声で喘いだりするのを恐れていたが、代わりに「ふにゃあ……」とか「ほへぇ……」とか、まるで時計型麻酔銃で撃たれた某名探偵のような力の抜けた声を発するだけで、どちらかというと非常に微笑ましい雰囲気に包まれた。

 ところがマッサージを終える頃に、状況は一変した。


「ねえあっくん。新しく買ったキャリアオイルを塗りたいんだけど、自分じゃ背中に手が届かないから代わりに塗ってくれないかな?」

「え」




 マッサージであれば、する側とされる側がいるから、共通の趣味を見つけなくても、同じ時間を過ごせる。

 そういう紗月さんのアドバイスに従ってみた結果、まさにその通りの展開になった。

 ただ当然ながら肩揉みはそれほど長時間かけてやるものではないので、二人でいられる時間はあっという間に過ぎていく。

 なので紗月さんは、時間を長引かせる為にある提案をしてくれた。

 正直、いくら好きな相手でも、人前で肌をさらすのがどれだけ恥ずかしいことか、ましてや身体の隅々まで撫で回されるなんて、想像しただけで顔から火が噴き出しそうになるほど熱くなる。

 しかし言ってしまったからには、今更撤回するわけにもいかない。


「ほ、本気で言ってるの麻由香さん?」

「や、やっぱりダメかな。嫌ならやらなくてもいいんだけど?」


 彼は肩揉みを頼まれた時以上に戸惑っている様子で、どうすればいいか迷っている。

 いくらなんでもこんな突拍子もないお願いをされたら、戸惑うのは当然のことだ。あっくんの性格ならきっと「さすがにそれは出来ない」と言うはず……。私は内心では、あっくんが断ってくれることを期待していた。


「……わかった! そこまで言うならやってあげるよ!」

「ええっ!?」


 ところが返ってきたのは思いも寄らない答えだった。


「あ、あの……あっくん、別に無理しなくていいんだよ?」

「いや、せっかく麻由香さんが俺の趣味に興味を持ってくれたのに、恥ずかしがってたら申し訳ないよ。それに付き合ってるんならこれくらいやらないと」


 彼らしい素敵な思いやりに、思わず胸の奥が熱くなる。けれどこの状況では必ずしも相手の為になるとは限らない。

 下手をすればこのまま行くところまで行ってしまうのでは――


「さあ麻由香さん。今から始めるからすぐに服を脱いで……」

「ああわわわ……あ、あの……私……心の準備が……」


 あっくんの顔が間近まで迫り、その表情から本気度がひしひしと伝わってきて、私は完全に取り乱してしまう。

 ……いや、もうこうなったからには後戻りは出来ない。勢いで結婚した二人なのだ。

 ここまで来たからには後は野となれ山となれ、の覚悟で行かないと。


「どうしたの麻由香さん?」

「わ、わかった……じゃあ、お願いしようかな……」


 と、決意を固めたその直後――


「くしゅんっ!」


 突然、なんの前触れもなく鼻がムズムズし始めて、小さなクシャミが出た。


「あれ、麻由香さん風邪ひいてるの?」

「あ、いや……実は朝からちょっと鼻の調子が悪かったんだけど、なんかまたぶり返してきたのかな?」

「そう、じゃあマッサージ出来る状態じゃないかもしれないね」

「え、えっと……」


 確かにこの状態で服を脱ぐのは、本格的に風邪をひく可能性があるから得策ではないかもしれない。

 しかしそうなると、あっくんの好意を無にすることに……。


「無理しなくていいよ。風邪が悪化するよりは安静にしてたほうがいいだろう?」

「そ、そうだね……」


 結局、その日はあっくんの言われるままに自宅で療養することになった。

 でも結果的にあっくんを騙すような形になってしまって申し訳なく感じる。今度お詫びにあっくんの好きな料理を作ってあげよう。

 



「それは残念だったわね。まだそこまでいくには早すぎたのかしら」


 後日、紗月さんに電話で結果を報告すると、そんなコメントが返ってきた。


「ええ、せっかく紗月さんに良いアドバイスをして頂いたのにすいません」

「別にいいのよ。カップルのペースは人それぞれなんだし。無理に関係を進めようとすれば逆効果になる可能性もあるわ」

「そ、そうですよね」


 そうだ、無理せず自分のペースで進めれば問題ないのだ。

 あっくんと共通の趣味を見つけられず、焦って冷静さを失っていた。


「それに、おかげで面白いサンプルが手に入ったしね……」

「はい?」


 最後の一言は小声で聞き取れなかった。


「いえ、こっちの話よ。用事があるからそろそろ失礼させてもらうわ。早く浅夫のほうの報告も聞かないと……」

「…………」


 また何事か呟いて、紗月さんは一方的に通話を打ち切った。

 電話ではあえて訊ねなかったが、なんとなく紗月さんに操られたような気がする。気のせいだろうか。




 今度こそ大丈夫だ。

 あれから数日後。俺は二人で出来る趣味がなにかないかと探し続けて、ようやく見つけ出した。

 実は俺の趣味の一つに漫画を読む、ということがあるのだが、前に麻由香さんに貸した漫画の中で、唯一好きだと言っていた作品を思い出したのだ。

 主人公がチェンソーと一体化して敵と戦う話なのだが、漫画をあまり読まない麻由香さんが珍しく気に入っていた。

 この作品なら、麻由香さんと共に魅力を語り合えるに違いないと思い、夕食の席で話題にあげてみた。


「麻由香さん、この前貸したチェンソー○○のことだけどね」

「ああ、アレ面白いよねー」

「そうそう、いやーあのラストには本当に驚いたよね。まさか○○○が○○○○になるなんてね」

「あ、あの……私まだそこまで読んでないんだけど……」

「え」


 その後、俺は土下座して謝った。

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