私を襲ってみて
「あっくん、飲み物は紅茶にする? それともハーブティー?」
「んーじゃあハーブティーにしようかな」
麻由香さんが怪我(?)から回復した後、彼女がおすそ分けに持って来てくれたチーズケーキで、お茶をすることになった。
休日の昼下がりに二人きりでティータイムなんて、まるで仲睦まじいカップルか夫婦のようだと思ったけど、実際に法律上の夫婦であることを思い出した。
結婚する前と後とで、あまりに日常に変化がなさすぎて感覚が麻痺しているようだ。
「あっくん、チーズケーキ美味しい?」
「ああ、特にこのメープルシロップがいけるね。大量にかけすぎて、チーズケーキじゃなくてメープルケーキって感じになってるけど」
「嬉しい! 実は職場の近くに新しくオープンした店で買ったんだぁ」
「へえ、前に行きつけにしていたケーキ屋よりこっちのほうが美味しいんじゃない?」
甘すぎて糖尿病になりそうだけど。
「ふふふ……」
「ん、どうしたの麻由香さん?」
ケーキの甘さに耐えていると、ふいに麻由香さんが静かな含み笑いをもらした。
「なんかこうやってあっくんとお話するの久しぶりだなー、って思って。あっくんが彼女さんと付き合い始めてからこういう機会なくなっちゃったじゃない?」
「ああ、そういえばそうだね」
「だからまたこうして二人きりで話せるようになって嬉しくて」
「そうなんだ、でも話し相手なら他にいくらでもいただろう?」
「ううん、そんなことないよ。だって私が傍にいたいと思う人はあっくんしかいないから。やっぱり好きな人は特別だもん……」
「そ、そう……」
頬を紅潮させながら呟く麻由香さんに、自然と胸の鼓動が早くなる。
以前はただのお隣さんとしか見ていなかったのに、間違いで結婚してから急檄に異性として意識するようになった。
なんか自分で言ってて順序がおかしい気がするけど。
確かに麻由香さんの言う通り、彼女と談笑するのは楽しい。
しかしそろそろ法律上の夫婦である件について、麻由香さんと今後のことを話し合う必要がある。
このまま現実逃避して有耶無耶にするわけにはいかない。
「ね、ねえ麻由香さん?」
「ん?」
麻由香さんが食べ終わったのを見計らって、俺は思い切って質問してみた。
「その……いつ頃から好きだったの? 俺のこと」
「んー二年くらい前かな? 私が就職したてで大変だった時、色々と悩みを聞いてくれたじゃない? 多分あの頃からあっくんのことを意識するようになったんだと思う」
「そっか……」
まったく気づいてなかった。
思い返しても、そんな素振りは見せていなかったはずなのに。
「ごめん、気づくべきだった。そうとは知らずに他の女の子と付き合っちゃって、麻由香さんには辛い思いをさせたよね」
「いいの、誰と付き合おうとそれはあっくんの自由だから。それに別に辛くはなかったよ。あっくんが幸せなら私も嬉しいから。ただ……本音を言うとね、彼女さんが凄く羨ましかった。もしもあっくんの隣にいるのが彼女さんじゃなく私だったら、ってどうしても考えちゃって」
「…………」
その言葉を聞いて、麻由香さんがどれほど俺のことを想ってくれていたかひしひしと伝わって来た。
この先、麻由香さんより俺のことを好きになってくれる女性にはもう出会えないかもしれない。
そう考えると、婚姻無効にするのが本当に最善の策なのか、わからなくなってきた。
他の女性と恋人関係になった時、彼女はどういう気持ちだったのだろう。
以前、家族だと言われた時から、あえて恋愛対象として見ないようにしていたのに、まさかこんなことになるとは。
別に俺に非があることではないのかもしれないが、好きな人を他人に奪われる辛さを知っている者としては、麻由香さんの気持ちは痛いほどわかった。
「ねえ覚えてる? 前に私が知らない男の人にナンパされそうになった時、あっくんが体を張って助けてくれたこと。まるで本物のヒーローみたいだったよ」
「ははは……まああの場に居合わせたのは偶然だけどね」
「けど、これからは私も守られるだけの存在じゃないからね。こう見えて最近は護身術を習い始めたんだから、変な人が襲ってきてもへっちゃらだよ」
「へえ、初耳だけど」
「本当だよ。じゃあ試しにあっくん、私を襲ってみて」
「……え」
突拍子もない提案に、一瞬言葉を詰まらせてしまった。
「……それどういう意味?」
「どういう意味って、そのままの意味だよ。護身術の実践をするの。大丈夫、痛くしないから」
「そう言われても……」
「遠慮しないでホラ、後ろから羽交い締めにして――」
「い、いや……さすがに襲うのはまずいでしょ」
だが奥さんならそれも構わないのか? ……いや、相手が誰であれ、まずいことには変わりないか。
しかしそれでも結局、麻由香さんに強く懇願されて暴漢役を演じるハメになった。
本気で襲うワケじゃないとは言え、相手の身体を掴んだり押し倒そうとしたりするのはいかがなものか。
「そうそう、そのまま腰に手を回してガシッと掴んで」
「あ、あの……麻由香さん? この体勢は色々と危険な感じがするんですが……」
互いの身体が密着して、かなり際どい姿勢で組み合っている。ちょっと手を動かせば、本当に襲ってしまいそうな状態だ。
「あっくん、もうちょっと強く掴んでいいよ」
「いや……このままだと別のところを掴んでしまいそうな感じがして動けないんです……」
これで暴漢を撃退出来るかは不明だが、俺は今すぐにでも逃げ出したい気分になった。
この後、二人の足がもつれて、倒れた拍子にうっかり麻由香さんの胸を掴んでしまった――などといったラブコメ展開は起こらなかった。
護身術の講座が終わってしばらく経っても、まだ麻由香さんの肌の感触や柔らかさが頭から離れなかった。
この興奮が冷めるまでは、麻由香さんの顔を直視しないほうがいいかもしれない。
――と思っていたら、夕食を食べ終えた頃に再び麻由香さんが家にやって来た。
「ねえあっくん、実はうちのバスルームが壊れちゃったみたいで、修理が終わるまでそっちのお風呂に入れてもらえないかな?」
……マジで勘弁してください。
そういえば婚姻無効の件を話しそびれてしまったな。
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