お誕生日おめでとう

 翌日、昼頃に姉が家にやって来た。

 昨日、結婚の件を誰かに相談したかった俺は、都内で精神科医を営んでいる姉の紗月さつきに電話をかけた。

 両親にはまだ知らせたくなかったのと、日頃から患者の悩みごとを聞いている姉ならば相談相手として適役だと思ったからだ。


「やあ姉さん。よく来てくれたね」

「久し振りね浅夫。恋人に捨てられて落ち込んでるって聞いたけど、元気そうでなによりだわ」


 姉は医者らしく理路整然とした口調で挨拶する。

 理知的な顔立ちにナイロール型メガネが良く似合っている。


「忙しいのに来てくれてありがとう。姉さんがそこまで俺のことを心配してくれるとは思わなかったよ」


 昔から秀才だった姉は、凡人である俺に対して常に辛辣な態度をとることが多かった。

 俺の為になにかしてくれることなんて一度もなかったし、ある時は誕生日を忘れられたことすらあった。

 だからまさか電話をかけたその翌日に、直接駆けつけてくれているとは思いもしなかった。


「ええ、今まで色んな患者を診てきたけど、恋人にフラれたショックで結婚する人なんて初めてのケースだからね。中々興味深い研究対象だわ」

「え、俺を心配して来てくれたんじゃあ……」

「もちろん心配しているわよ。泥酔していたとはいえ、本当に婚姻届を出してしまう、愚かな弟の精神状態とか。あるいはあなたのような平凡な人間が麻由香さんのような優秀な女性と結婚して、果たして釣り合いが取れるのかどうか、とかね。まあ私の義理の妹としては申し分ない相手だけど」

「…………」


 心配してくれていると思っていた俺が馬鹿だった。

 姉は俺のことを研究対象としか思っていないのだ。

 やっぱり姉に相談したのは間違いだったかも、と早くも後悔し始めていた。


「それより立ち話もなんだし、早くリビングに行きましょう。私の義理の妹にも会いたいし」

「ハイハイ……」




 リビングに行くと、麻由香さんが待ち受けていた。


「お久しぶりです紗月さん、来てくださって本当に嬉しいです!」

「ありがとう麻由香さん。あなたのような素晴らしい人が義妹になってくれて、私も嬉しいわ」


 姉はにこやかに麻由香さんと握手を交わす。


「一緒に婚姻届を出したのに、俺の場合は“愚か”で麻由香さんは『素晴らしい人』なのか……」


 あからさまな態度の差に、俺は思わず不満を漏らしてしまう。


「申し訳ないけれど、名門大学出身で大企業に勤めている麻由香さんと、ただのどこにでもいる大学生のあなたとでは、評価に差が出るのは仕方のないことよ。それに優しい言葉をかけて欲しければ奥さんにお願いすればいいでしょう。私は弟が間違った行動をしないよう厳しく律する義務がある。まあ残念ながら、今の状況を見るにあまり効果は出ていないみたいだけど……」


 遠回しに俺が酔っ払って結婚したことを皮肉る姉。

 確かに麻由香さんは年収も平均的なサラリーマンの倍以上を稼いでいる、言ってしまえばエリートだ。

 加えて姉も国内有数の一流大学卒で、なんと博士号まで取得している超秀才。

 俺の通っている大学も、決して悪くはないのだが、どうしても二人に比べるといくらか見劣りしてしまう。

 そんなんだから、姉は昔から麻由香さんを高く評価していて、ことあるごとに「こんな妹が欲しかった」と言っていた。

 実の弟の俺とは扱いが雲泥の差である。


「……なあ今日は俺の相談に乗ってくれる為に来たんだよな? 嫌味を言いに来たんならもう帰ってくれないか?」

「そんなに急かさなくても話はしてあげるわよ。でもその前にお茶を一杯貰えるかしら?」

「あ、はい。じゃあ私が淹れて来ますね」


 麻由香さんがキッチンへ向かおうとする。


「……大丈夫。誰がなんと言おうとあっくんは素敵な人だよ」


 俺の横を通り過ぎる際、励まそうとしてか耳元で優しく囁きながら小さくウインクして見せた。

 その顔は“奥さん”と言われたことで、微かに紅潮してうに見えた。


「よく出来た奥さんね」


 麻由香さんの囁きが耳に入ったようだ、姉が冷やかすように言う。




「さてと……それで、浅夫は麻由香さんとのことをどうするつもりなの?」


 麻由香さんがいなくなるのを見計らって、ソファーに座りながら姉が本題に入る。

 その話をする為に、わざと麻由香さんがキッチンに行くよう仕向けたのか。

 これで麻由香さんの前ではやりにくいような話も、気兼ねなく話せるわけだ。

 ちなみに電話でも話したが、どうも姉は麻由香さんが俺を好きなことを前々から知っていたようで、それどころか両親もすでに姉から知らされていたらしい。

 知らなかったのは俺だけというわけか。


「ああ、色々と考えたんだけど、やっぱりいきなり結婚ってのは色々とまずいと思うんだよ」

「それはつまり婚姻を無効にしたいと言うこと?」

「まあ平たく言えばそうだな。誤解しないで欲しいんだが、麻由香さんと結婚するのが嫌ってわけじゃないんだ。むしろ俺は麻由香さんと真剣に付き合いたいと思っている」


 あんなに俺のことを好きでいてくれる人は初めてだ。だからちゃんとその気持ちに応えられるようにしたい。

 だからこそ一旦、関係をリセットして、まずは恋人からやり直したほうがいいのではないか、と思ったのだ。

 吊り橋効果ではないが、異常な状況下で結ばれたカップルが長続きするとは思えない。

 前の彼女の失敗を繰り返さない為にも、麻由香さんのことは大切にしたい。

 もちろん、一方的に俺が婚姻無効を宣言するのではなく、ちゃんと麻由香さんと、どうすればお互いの為に最善なのか話し合って決めるつもりだ。


「――というのが俺の考えなんだけど、姉さんはどう思う?」


 一通り説明し終えると、俺は姉に意見を求めた。


「……それが本当に正しい選択だと思うのなら、あなたがまたお酒に酔って正常な判断が下せなくなっているとしか言いようがないわね」

「酷い言い草だな……。そこまで言うならどこがダメなのか教えてくれよ」

「冷静に考えてみなさい浅夫。『ジャックと豆の木』の話は知っているでしょう。その昔、家畜の牛を売ろうとして、魔法の豆とかいう得体の知れない物体と交換してしまったジャックというアホなイギリス人がいたけど、おかげで彼は巨人の家に忍び込んで金の卵を産む鶏を手に入れることが出来た。言うなれば、あなたはその鶏を巨人の家に戻そうとしているのよ。ジャック以上のお馬鹿さんと言われても仕方がないでしょう」

「……それって麻由香さんを鶏に例えてるのか?」


 控えめに言って物凄く失礼だと思う。


「それに、女性との交際経験に乏しいあなたが、一旦リセットして果たして上手く麻由香さんと交際出来るのかしら。21年生きてて初めて付き合った彼女は他の男に盗られてしまったんでしょう。まずは女性をきちんとエスコート出来るよう勉強したほうがいいんじゃない?」

「それは確かに俺もそう思うけどさ。でも具体的にどうしろと?」

「そうね、確認の為に質問するけど、あなた生殖能力に自信はある?」

「うわ……噓だろ? 実の弟にそんなこと訊くか普通?」


 生殖能力って要するに子作りのことだよな。


「私は精神科医よ。夫婦やカップルの性生活について相談を受けることも当然ある。あなたも悩みがあれば恥ずかしがっていないで包み隠さず話してごらんなさい」

「お断りします」


 診察の為であれば医者の前で服を脱ぐことも構わないが、姉の前ではゴメン被りたい。


「まあなんにせよ、婚姻無効の件を話したら麻由香さんはさぞかしガッカリするでしょうね。彼女は明らかにあなたとの結婚を望んでいる。なのにあなたは一時的にとは言え、それを解消しようとしてるのだから」

「ああ、俺もそれを心配してるんだよな。なんとか麻由香さんを傷つけないよう、出来るだけ丁寧に説明しようと思ってる。あとタイミングの悪い時には話さないようにしないとな」

「そう、だとしたら今日は最悪のタイミングね」

「ん、なんで?」


 しかし答えを聞く直前に、麻由香さんがティーカップを乗せたお盆を持って戻って来た。


「はい、お待たせしました」

「ああそうそう麻由香さん、そういえば最初に言いそびれてしまったけど、

「……は?」


 いきなりなにを言い出すんだこの姉は?

 なんの前触れもなく、話が明後日の方向に転換して、思わず首を傾げる。


「あ、どうもありがとうございます。今日が私の誕生日ってこと、覚えていてくれてたんですね」

「……え?」

「なにを驚いているの浅夫? まさか麻由香さんの誕生日を忘れたワケじゃないでしょうね?」


 姉に言われて、咄嗟に壁にかけてあるカレンダーを確認してみる。

 見ると確かに、今日の日付のところに印がしてあって、「麻由香さんの誕生日」と書かれてある。

 それに去年のこの日は、麻由香さんの誕生日パーティーを開いた覚えがある。


「ほ、本当だ。今日は麻由香さんの誕生日じゃないか! ここ何日か色んなことがあり過ぎて完全に忘れてた。ゴメン麻由香さん!」

「ううん、いいの。私も紗月さんに言われるまで忘れてたし」


 しかしほぼ毎年のようにお祝いしていたのに、今回に限って失念するとは。


「でもせっかくの誕生日なのに、俺なにもプレゼント用意してないんだよな……」

「プレゼントならあるじゃない。ほら例の話が――」


 姉が示唆する“あの話”とは、恐らく婚姻無効の話のことだろう。

 ってかアレのどこがプレゼントなんだ。誕生日にその話をするとか不謹慎でしかない。

 今日は最悪のタイミングという姉の言葉がようやく理解出来た。


「例の話ってなんのことですか?」

「とっても刺激的な話よ。刺激的過ぎて思わず飛び上がっちゃうほどのね」


 なにも知らない麻由香さんに、姉が含みのある言い方をする。

 その表情はどこか楽しんでいるように見えた。

 性格悪いなこの姉は。

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