あっくんがいなきゃダメなの……
あれから二人で話し合い、婚姻届を出してしまったのは泥酔していて正気じゃなかったのを説明した。
正直あれだけ酒を飲んだのは生まれて初めての経験で、自分があんなに酒癖が悪いとは思いもしなかった。
こんな説明で納得してくれるとは思えないが、意外にも麻由香さんは冷静な面持ちで耳を傾けてくれた。
「そういうことなら婚姻無効の手続きをすれば結婚はなかったことに出来るよ。でも私としては、このままあっくんの奥さんでいさせて欲しいなっていうのが本音だけど。どっちにしてもあっくんの好きにしていいよ」
「…………」
まあいい。直ちに結論を出す必要はない。
ちょうど昨日から連休で大学に行かなくてもいいし、ゆっくりとこれからどうするか考えるとしよう。
それにしても自分で言うのもなんだが、結婚という人生を左右する経験をしたにもかかわらず、あまり深刻さを感じていないのはどうしてだろう。
元から俺が物事を深く考えない性格だからか、あるいは現代社会では結婚という概念は、昔ほど神聖視されなくなっているからかもしれない。
ただの現実逃避という可能性も、なきにしもあらずだが。
とりあえず親になんて報告しようか考えないと。
午後になった。
人生が一変するような大事件の直後だが、意外にも日常に大した変化はなかった。
「あっくぅーん、お昼ご飯できたよー!」
――ただ一つ、麻由香さんが俺の家にずっと入り浸っていること以外は。
「今日はパスタにしてみたよ。さあ召し上がれ!」
「へー美味しそうだね」
「あっくんはアラビアータが好きだったよね。で、私がボロネーゼね」
「ありがとう。でも俺がコレ好きなのよく覚えてたね。教えたのずいぶん前のことだったはずなのに」
「もちろん、あっくんに喜んで欲しくて、好物は全部覚えてるもん」
それを聞いて、彼女はいつから俺のことが好きになったのだろう、という考えが頭をよぎった。
なのに俺は他の女性と恋人同士になって、なんだか少し申し訳ない気持ちになる。
彼女と付き合っていた頃、麻由香さんはどんな気持ちだったのだろう。
「ねえあっくん、アラビアータ美味しい?」
「ああ、麻由香さんの作る料理はどれも上手だよな」
「ホント? じゃあ試しに私のボロネーゼも一口食べてみて?」
「え、いやいいよ」
「遠慮しないで。食べて感想を聞かせて欲しいの。はい、あーん」
そう言って麻由香さんは、半ば強引にパスタを巻きつけたフォークを俺の口元に近づけてくる。
なんだかさっきから彼女の距離感が近過ぎる気がする。
やはり言葉では俺の好きにしていいと言いつつも、なんだかんだで結婚を無効にしたくないのではないか。
その根拠に、一旦自宅に新しい着替えを取りに戻った時は、ノースリーブの縦セーターという、胸をやたら強調した服装で現れたし、心なしさっきから頻繫にアプローチするような視線をこちらに向けている。
俺に婚姻無効を思いとどまらせる作戦なのではないかと疑ってしまう。
こんな素敵な奥さんがいれば毎日が楽しいよ、とアピールしているようだ。
なによりの証拠は、俺が渡した婚約指輪を、まだ左手の薬指に着けていることだ。
「どうしたのあっくん? ホラお口開けて?」
そんなことを考えている間にも、麻由香さんはこちらにフォークを向けてくる。
「そ、そう。感想を聞きたいなら一口だけ……」
どう考えても間接キスになるが、断れる状況ではなかった。
「どう、美味しい?」
「うん、イケるよ」
「良かったぁ! 今度は私があっくんのアラビアータを食べたいな。食べさせてくれる?」
「それより自分で取ったほうが楽だよ。ホラ、皿を近づけるからさ」
「でも、あっくんに食べさせて欲しいの。ね、お願い、いいでしょう?」
「…………」
首をコテンと傾けて懇願するように見つめられて、返答に困ってしまう。
「ホラ、あーん」
俺の沈黙を肯定と受け取ったのか、麻由香さんは目を瞑って物欲しそうに小さく口を開ける。
うわ、この光景はヤバい……思わず変な想像してしまいそうだ。
「じゃあ……ハイどうぞ麻由香さん」
もはやどうにでもなれと開き直り、俺は恐る恐るフォークを麻由香さんの口に運ぶ。
「んむ……ぁん、はむぅ……」
麻由香さん……頼むから食べながら変な声で喘ぐのはやめてくれ……理性が息をしてない。
口をすぼめて一生懸命、俺のフォークに食いつく姿が妙に
「んふふっ、美味しい。あっくんって食べさせるの上手だね♪」
これを狙ってやっていないのだとしたら凄い天然だ。
麻由香さんの誘惑に振り回されて気が休まる暇がない。
まあ一応、法律上は夫婦なのだから、いっそのこと誘惑に負けてしまうのもアリかもしれないが。
でもそうなったら完全に麻由香さんの思惑通りになってしまう。
出来れば婚姻をどうするか決めるまでは、それは避けたいところだった。
まったくなぜこんな面倒なことになったのだろう……はい、俺が馬鹿だからです。
誘惑はまだ終わりではなかった。
「ねえあっくん。今からピラティスをやりたいんだけど、私の家、散らかってるからここでやってもいいかな?」
食後にリビングのテレビでサッカー観戦をしていたら、いきなり麻由香さんがそんなことを言い出した。
珍しいなと思いつつも、試合に夢中だったからよく考えずに「ああ別にいいよー」と返事する。
すると麻由香さんは「ありがとう。じゃあちょっと着替えてくるね」と言って再び自宅に着替えに行った。
ところが戻って来た時の彼女の服装は、身体にピッタリと密着したタンクトップにスパッツという非常に露出度の高い出で立ちで、胸や尻のラインがはっきりと強調されていた。
どうやらお色気作戦で俺の気を引くつもりのようだ。
試合が終わるまで俺が動けないのをいいことに、麻由香さんはわざと視界に入る場所で、艶めかしい肢体をくねらせ、時折、「ん……」とか「ふぅ……」とかいう吐息を漏ら始める。
おかげで全然テレビに集中出来ない。
「どうしたのあっくん、さっきからこっちをチラチラ見てるけど、なにかあったの?」
「…………」
これ絶対わかってて言ってるだろ。
「なあ、訊きたいんだけど、どうしてわざわざここでやるの?」
「あ、ゴメン。やっぱり邪魔だった?」
「いや別にそういうわけじゃないんだけどさ……」
果たして本当に家が散らかっているのだろうか。
前に何度か麻由香さんの自宅を訪れたことがあるけど、毎回塵一つなかった記憶がある。
単に俺の前でピラティスをやる為の口実ではないのか。
まあいい。向こうがその気なら、こちらも適当な理由をでっち上げて自分の部屋に逃れよう。
どうせ試合は前半で片方のチームが4点リードという一方的な展開で、勝敗は決まったも同然だし、もう見なくていいや。
「アーソウダ。忘れてたけど俺、部屋でやることがあったんだ。麻由香さんは気にせずピラティスを続けていいからね」
「……あ」
呼び止めようとする麻由香さんの声を無視して、俺はそそくさとリビングを出ようとする。
彼女が夫婦関係を続けたいのはわかるが、俺だっていい大人なのだ。
自分のことは自分の意思で決断を下したい。
と、そんなことを考えていた次の瞬間――
「ああっ、大変! あっくぅん!」
背後からただならぬ叫び声と、ガタンというなにかが倒れる音がした。咄嗟に振り向くと、麻由香さんが横向きになって倒れていた。
「ど、どうしたの?」
「イタタ……無茶なポーズをとったせいで足首をくじいちゃったみたい。ごめんなさい、こんなこと言うのは迷惑だってわかってるんだけど……ちょっとだけ手を貸してくれないかな?」
「……本当に自分で歩けないの?」
噓臭い。絶対に怪しい。
俺を逃がさない為の演技である可能性が極めて高い。
「本当だよ。お願い助けて。あっくんがいなきゃダメなの……」
「……ッ!」
仰向けになりながら、潤んだ眼差しでこちらに両手を伸ばしてくる麻由香さんがあまりにも煽情的で、思わず息を飲んだ。
よくイメージビデオで、グラビアアイドルがカメラに向かって艶っぽい目つきをするシーンがあるが、それを直接見ているような感じだ。
結局、俺はその眼差しに負けてしまった。
「……わかったよ。ほら掴まって」
なるべく変なところに触れないようにして、ゆっくりと麻由香さんを抱き起す。
しっとりと汗ばんだ肢体がこちらにしなだれかかってきて、動悸が激しくなる。
「ありがと。やっぱりあっくんは優しいね。そんなところも大好きだよ……」
「ああ、もう何度も聞いてるよ」
さっきから怪しげな言動が多い麻由香さんだが、今の言葉が嘘じゃないのはわかった。
「もし良かったら、あっくんのベッドで寝かせてくれない?」
……でもこれはさすがに冗談かどうかわからなかった。
麻由香さんを運び終えた後、ピラティスをやった彼女より俺のほうが汗だくになっていたのは内緒である。
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