『蕭々館日録』 久世光彦
『蕭々館日録』 久世光彦
大正末期、作家の児島蕭々の書斎には夜ごと作家仲間の九鬼や蒲池、謎の美学者の迷々、精神科医に金貸しに編集者といった大人たちが訪れては、酒を飲みつつああでもないこうでもないと語って過ごす。蕭々の娘で五歳の麗子は、大人たちの給仕を務めながら彼らの言動を観察してあれこれと思いを巡らせていた。中でも麗子は大好きな九鬼の様子が、日ごとに翳ってゆく様子を気にかけていた。九鬼の精神が病んでいくのを、蕭々や蒲池たちもただ案じながら見つめることしかできず、まして五歳の麗子にはどうすることもできない。死に向かってゆく九鬼を皆が気に掛ける中、大正は終わり昭和が始まるのだった。
随分久しぶりに読んだ久世光彦の小説。正月に読むのならこういう一冊がいいだろう、という理由で手に取った。
久世版の『吾輩は猫である』といった趣で、一部実在した作家をモデルにしているらしい。児島蕭々は小島政二郎で、九鬼は芥川龍之介、蒲池は菊池寛とのこと。
以前、著者の別の小説を読んだときには、文章の美しさをぼんやり感じたりノスタルジーの匂いを嗅ぐぐらいの関係で終わったのだけど、歳をとった分ようやく面白さが分かってきた気がする。暇そうな大人たちが語る、近代文学や大正末期から昭和初期にかけての風俗蘊蓄を読むだけで楽しいし、やたら色気のある人として描かれる九鬼のコッテリした描写を愉しむのも良い。五歳なのにままごとよりも大人たちの会話に耳を傾ける方が好きだという、麗子のモノローグに時に鼻白んだりしつつも、ゆっくり文字を追うのも心地のよい。
将来ファムファタルになりそうな麗子が放つ、時々人間なのか神霊の類なのか判らないようなあやふやな存在感が特に面白かったように思う。酒見賢一の『語り手の事情』という小説が思い出された。
影響されて、実はあまり親しんでいない日本の近代文学を読んでみたくなる。大昔に買ったきりになっている文学全集を開いてみる気になったものの、未だに触れもしていないまま二〇二三年の一月が終わろうとしているのだった。
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