『シブヤで目覚めて』 アンナ・ツィマ 

『シブヤで目覚めて』

 アンナ・ツィマ  阿部賢一 須藤輝彦 訳



 チェコ出身の若手作家による小説。

 2017年のプラハで川下清丸という夭折の作家について調べる日本語文学研究者のヤナとヴィクトル二人の周辺に起きたできごと、2010年の渋谷から一歩も出られなくなったチェコ人少女・ヤナの身に起きたことが交互に語られる。

 そこに不遇の作家、川下清丸の私小説が挟まるという構成になっている。


 日本語文学を研究するチェコの大学生、精神だけの存在になった上に渋谷の外へは一歩も出られなくなった外国人の少女、そして遺された作品数の少なさから殆ど名前も知られていない日本人作家の私小説。

 この三つのパートがどういう風に関わってくるのか……と、主人公、ヤナの一人称(かなり辛辣な口を叩くので笑ってしまうが、あまり一般的でない趣味を愛好する人に見られがちな鼻につく感じも随所で匂わせる)に乗せられて読み進めるうちに、バラバラに思えたパートが一つにまとまりだしてあれよあれよという間に各パートの登場人物や関係者が顔を合わせて、謎を解いたり活劇を演じたりと多彩なドラマを繰り広げるのだった。とにかく読んでいる時は大変楽しい。

 時間の流れが一定で無かったり、劇中劇や作中作を挟んでいる構成の小説が大変好みなところもあるので、満足度も極めて高めの小説だった。


 それにしても、詳細な生い立ちや作中作まで用意している川下清丸という架空の作家の存在感である。

 横光利一や菊池寛らと交流があったとされ出生地や家族まで詳細に語られているので、本国で出版された際には実在する作家だと誤解する人もいたらしいがまあ仕方ない。

 この川下清丸の作り込みに、特に楽しいものを感じた。現実の文学史に架空の作家を一人混ぜ込むという行為にはイタズラめいた所がありつつも、憧れるものたちの世界に身を置いてみたいというような愛や祈りめいたものがあると思う。そういえば私は実在する小説や本のタイトルにしれっと架空のタイトルを混ぜている作品が無性に好きなのだった(高原英理『不機嫌な姫とブルックナー団』など)。



 そんなわけで、自分にとっては何から何まで楽しくて面白い小説だったけれど、川下清丸の私小説に登場する女は可哀想すぎやしないかい? と思わんでもない。その辺は作者からの、愛する対象の中にあっても目をつぶれない、受け入れられない箇所への疑問、問題提起なのかもしれない。



 ・あらすじ……

 村上春樹がきっかけで日本文化にハマりこみ、三船敏郎や仲代達矢がアイドルで、アジア系の目の細い恋人がほしくて仕方がなかったギムナジウム時代を過ごしたプラハの女子大生、ヤナ。

 2017年、日本語文学の研究をしている彼女は、ほとんど名前を知られていない作家、川下清丸のことを知る。横光利一や菊池寛、芥川龍之介らとも交流していたのに、わずかな私小説だけ遺して夭折した川下のことを調べるうちにヤナは彼の短い生涯や作品にのめり込む。文学に対する造詣が深く、川下研究にも力を貸してくれた青年、ヴィクトルに次第に惹かれてゆくのだが、ヴィクトルは留学生として東京へ経つことが決まる──。

 2010年の東京、念願の東京滞在を果たしたヤナは何故か渋谷から一歩も外へ出られなくなっていた。その上どうやら幽霊のような存在になってしまい、誰にも感知されないという有様。どうやら「このまま東京にいたい」という強い念から生じた精神体のようなものだと結論づけはしたが、何にせよどこを目指してもハチ公周辺に戻ってしまう状況にうんざりしながら、日本語の習得と人間観察で時間を潰すより他にないという暮らしをしていた。そんなある日、仲代達矢にちょっと似ているので気になっていたバンドマンにストーキングしていた為に彼と恋人の修羅場を目撃してしまう。その後、彼は事故でビルの地下室に閉じ込められるという不運に見舞われるのだが、幽霊も同然なヤナにはどうすることもできず──。

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