増田朋美

やっと晴れていても涼しいと感じられるようになってきた。そういう気持ち良い気候の日は、本当にわずかしか無い。そのうちに、寒くなって、外に居づらくなる日がやってくるのだ。もしかしたら、夏と冬しか季節がなくなってしまう日も近いのかもしれない。そんな時、人間というのは、良いこともひらめくものだけど、実はそればかりでは無いのであった。

その日、杉ちゃんと、蘭が、ちょっと用事があって、静岡にでかけたときのこと。その日杉ちゃんたちは、静岡駅ではなくて、ちょっと離れたところにある用宗駅で電車を降りた。静岡の街というか、都会的な雰囲気があるのは、静岡駅の前程度で、用宗駅に来てしまえば、もう田舎町になってしまう。蘭たちを手伝ってくれた駅員たちは、なんでこんな田舎駅で降りるんだろうという顔をしている。杉ちゃんと蘭は、申し訳ありませんねと言って二時間後の電車で、帰るとお願いして、用宗駅を出ていった。

杉ちゃんと蘭が、用宗駅近くの公民館で、蘭が支援する政治家の講演会を聞いて、用宗駅に戻って来ようとしたところ、一人の可愛らしい感じの女性が、蘭に声をかけてきた。蘭もなんとなく見たことの有るその女性。蘭が名前を思い出そうとしていると、

「こんにちは。彫たつ先生ですね。私、もう先生は覚えていないかもしれないけど、先生に、腕にあじさいをほってもらった、小森宮子です。ほら、これで覚えていませんか?」

そう言って、彼女は上着の袖をめくった。腕に紫色のあじさいが、しっかり彫られていた。

「覚えていますよ。小森宮子さん。確か、彫ったのは、去年の夏でしたね。あのときは、なんだかやたらおどおどしていて、私は仕事をしていないから、何もできないんだとか言って泣いてましたよね。あれからどうなりましたか。気になっています。」

と、蘭がそう言うと、小森さんは、にこやかに笑った。

「何を言ってるんですか。名前を忘れているはずなのに、気になっていますなんていわなくても結構ですよ。先生も、香西さんのファンだったんですね。ああいう硬派な政治家を好きになるなんて、先生らしいですね。」

「あ、はい。」

蘭は、逆に客にからかわれているようで恥ずかしく思った。

「いいんですよ。私の事を忘れても。私は、先生に大事な印を入れてもらったけど、先生は仕事の一部としてやったんでしょうし。どうせ、みんなそういうものですよね。本人は、仕事をしているだけだからなんとも思わないんでしょうけど、あたしだけただ一人大事なものにしているんです。」

確かにそうかも知れない。だれでも、本人がすることは、そういうことで有る。どんなに旨い料理ができて感動しても、どんなに良いコンサートで演奏しても、やっている本人はただ演奏をしたり料理を作るという仕事をしているだけである。それを、受け取った人が、重大なメッセージだと感じることは多いが、やった人には、いつもと同じ事をしているだけであるのだ。

「いえ。そう思ってくださるんだったら、何よりも嬉しいことです。それは、僕達仕事をする人間には気付け無いことですから。僕は、そう思っている事が、嬉しいことですよ。」

蘭は、急いで彼女、小森宮子さんに言った。

「良かった。きっと一生懸命やったとしても、何も得るものが無いのが今の時代なんだろうし。だから私、生きていてもしょうがないって思っちゃうんですけど。先生、今も、私、何もしてないんです。今回、香西さんの講演会に来たのは、彼女が、公約の中に、家事労働者の地位向上のための法律を作ろうという発言をしていたからなんです。」

「ああ、たしかにそういうこと言ってましたよね。ちょっと、女性議員らしい夢物語に終わってしまうかもしないけど。家庭労働が、職業として扱える時代になったら、もしかしたら、また仕事意識も変わるかもしれませんね。」

宮子さんに、蘭は、そう同調した。

「早く働ける場所を見つけたいんですけど、ちっとも何も得られる場所がなくて。なにか、資格試験の講座とか、そういうものを受けられたら、いいんですけど。でも、それを受けに行くには、車がないと何もダメだし。静岡の駅前の文化センターでやってないかとか思ったことも有るんですけど、ちょっとそこへ行くまでの朝の通勤ラッシュとかがだめで。恥ずかしいですよね。もう35歳になるのに、何もしていないなんて。」

宮子さんは、申し訳無さそうに言う。

「じゃあ、今、何をしているんですか?何もしないのは、あなたの性格上、苦痛でしょうがないということは、知っていますし。」

と、蘭が言うと、

「ええ、今は、家で掃除したり、料理したりしています。買い物は、歩いていけるところに、スーパーマーケットが無いので、親と一緒ですけど、できるだけ、レトルト食品に頼らず、自分で作ることを目標にしています。」

と、彼女は、無理やり自分を当てはめるような気持ちで、そういったのであった。

「そうですか。あなたは、学校に行っていたときは、すごい優等生だったって、聞いたけど、日本の社会では、もう一度やり直すことは、難しいことで。一度外れると、戻ってくることは二度とできないんですよね。あなたは、何も悪いわけじゃないんですけどね。ただ、ちょっと疲れてしまって、休みたくなっただけでしょう。それなのに、なんでそうなってしまうのかな。そういうところを、もう少し、法整備してくれればいいんですけどね。」

蘭は、優しい顔をして、彼女に言った。もしかしたら彼女、小森さんは、もう何回もそういう言葉をかけておきながら、お前はだめな人間だ、親に迷惑をかけるのはためて早く自立しなさい、と偉そうな言葉を掛ける人の被害にあっているかもしれない。そういう人は、自分が偉いと思って言っているという、変にきざなところがあるから困るのだ。そして、そういう人を、間違って尊敬してしまうという、日本の社会も困ったものである。

「ええ。ありがとうございます。彫たつ先生。先生は、そういう、上辺だけの事をいう人じゃないのはよく知ってますよ。じゃあ、私はこれで失礼します。あの、先生、もし都合が良ければ、うちへ遊びに来てください。なにかごちそうします。」

と、小森さんは言った。

「おい、お前さんさ、何も、できないとか、何もやってないとか、そういう事を言っちゃいけないぜ。お前さんが今やっていることを数えて生きていけばいいだろう。まあ確かに、優等生ということは、失ったかもしれないけどさ。それはいらなかったから、失ったかもしれないし。」

蘭と小森さんが話していると、杉ちゃんが急いでそういう事を言った。杉ちゃんの言い方は、内容は確かに優しいのであるが、ちょっと乱暴な言い方をするので、小森さんはちょっと怖いという表情をした。

「ああ、気にしないでください。杉ちゃんは、悪いやつじゃありません。ただ言い方が乱暴では有るけれど、決して怖い人ではありませんから。」

蘭が急いで訂正すると、杉ちゃんは、

「訂正なんかしなくてもいいと思うんだがな。僕は影山杉三。職業は和裁屋。杉ちゃんって言ってね。よろしくね。」

と、にこやかに笑って言った。

「まあ、お前さんはさ、何も無いと、嘆いて生きるよりも、できることに自信が持てるようにやってみることだ。もし、今、食事作ることしか生きがいが無いんだったらな。それを伸ばしていくしか、無いよなあ。だったら話は簡単だ。一人、メイドがほしいと言っているやつが居るので、そいつの世話をしてくれ。」

「杉ちゃん、まさかと思うんだが、彼女を製鉄所まで連れて行くつもりでは無いだろうね。彼女は、富士に来るのだってやっとだったんだ。電車に乗る時、彼女は、大勢の人が乗っている電車を怖がって、施術時間をずらしてくれと連絡をよこした事もあったんだぞ。」

蘭は急いでそう言うが、杉ちゃんは平気だった。

「それなら、通勤時間に当たらない時間で富士に来てもらえばいいじゃないか、とにかくな、一人か二人、手伝い人を付けたいわけ。水穂さんの畳の張替え代は、バカにならないから。とにかくそういうわけだ。明日くらいから、こっちに来てもらえない?家族の食事作るよりも、ずっとやりがいが出ると思うよ。」

「そうですね。確かに、家にいても大したことはないし、2時間程度なら外ヘ出られると思いますので、私やらせていただきます。」

そういう彼女に、蘭は大丈夫かなあと言ったが、杉ちゃんは、細かいことは気にするなといった。まあ確かにそれはそうなのであるが、杉ちゃんの言うことは、ちょっとのんきすぎるような気がする。

「それなら良かった。じゃあ、明日、お前さんが来られる時間でいいからさ。ぜひ、こっちへ来てくれよ。住所は、富士市の大渕だ。富士駅からタクシーで来るやつも居るが、あまり金をかけたくないだろうから、身延線の富士根駅から、タクシーで行けば、すぐ来られる。まあ最も、あんまり詳しく教えなくても、すぐに、わかっちまうのが今の世の中だと思うけど。グーグルで製鉄所と検索しても、出てくることは無いと思うけど、製鉄所にまつわるエッセイなんかを投稿している例は、数多くあるから、それを辿ってくればすぐわかる。あ、ちなみに、工場では無いよ。そういうことではなく、ただ、勉強する場所を借りるだけの施設だよ。」

杉ちゃんは、製鉄所の事を説明した。小森宮子さんは、わかりましたと頷いた。

「とにかく、富士根駅に行って、タクシーをお願いしてきます。」

と、彼女は、きっぱりといった。

「まあ、幸いなんでもありの世の中だからさ。移動手段は、車に乗れなくてもいっぱいあるな。」

杉ちゃんは、カラカラと笑った。蘭は、なんだか心配になった。果たして彼女が、用宗駅から、静岡駅を経て、富士駅に来て、それから身延線に乗って、富士根まで来ることはできるだろうか?

「もし、よろしければ、富士駅まで迎えにいきましょうか?」

と、蘭はいうが、

「大丈夫だよ。富士駅なんて田舎駅で、静岡駅に比べたらなにもないよ。心配するな。」

と、杉ちゃんは平気な顔をして言うのだった。

「それに、いずれは、だれの助けも借りないで、全部やらなきゃならない日が来るんだ。それの予行練習だと思っておけばいいのさ。」

蘭は、製鉄所の住所を手帳に書き、それを破って彼女に渡した。彼女はありがとうございますと言って受け取った。

「じゃあ、明日来てくれるのを楽しみにしているからね。新しいメイドが来てくれたら、水穂さん喜ぶぞ。これまでに、何人もの使用人を雇ったけど、みんな水穂さんに音をあげてやめちまうからな。長くても一月も持たなかった。お前さんも、覚悟して、臨んでくれよ。」

杉ちゃんにいわれて、彼女は嬉しそうな顔をしているが、蘭はきっと不安な気持ちもあるんだろうなと思った。二人はそれから、介護タクシーで用宗駅に戻って、富士へ電車で帰った。二時間後には戻ってくると言っていたのに、大幅に遅れてやってきたのを、嫌味っぽく言っている駅員の態度も気にならないほど、蘭は彼女の事が心配だった。

翌日の、お昼前。杉ちゃんは、製鉄所の縁側で着物を縫っていた。水穂さんは、相変わらず食事をせずに、睡眠薬のはいった薬で眠っているだけだった。其時、玄関の引き戸を叩く音がする。

「おう、いいぞ、入れ!」

と、杉ちゃんのでかい声で、水穂さんも目が覚めた。杉ちゃん一体どうしたのと聞くと、昨日言った議員の立会演説会の会場で、蘭の昔のお客さんだった女性と知り合ったと杉ちゃんは答えた。なんでも、新しくこの製鉄所でメイドとして働いてもらうと杉ちゃんは説明した。水穂さんは、ちょっと驚いたという顔をしていたが、それも長続きしないほど、体力がなくて、何もできなかった。

「あの、ここでいいんですよね。昨日お会いした、小森宮子ですが、はいってもよろしいでしょうか?」

「ああいいよ。ここはインターフォンが無いから、勝手に入ってくれてもいいことになっている。」

と、杉ちゃんがいうと、お邪魔します、と彼女は言いながら、製鉄所の中にはいってきた。

「へえ、お部屋がいっぱいあるんですね。まるで旅館みたい。」

と言いながら、彼女は鶯張りの廊下を歩いて、四畳半にやってきた。きゅきゅ、となる廊下に、彼女は、びっくりしているようだ。

「まあ、鶯張りにそんなに驚かないでくれ。それより、お前さんの奉公口はこいつだ。もうすぐお昼の時間だからさ。お前さんは、お昼を作って食べさせてやってくれ。頼むよ。」

と、杉ちゃんは水穂さんを顎で示した。水穂さんが、急いで布団から起きて、よいしょと布団の上に正座で座った。これだって、不自由になるのではないかと思うほどげっそり痩せていた。でも、水穂さんは、やっぱり、きれいな人で、どこかの外国の俳優にでも負けないほど、きれいな人であった。

「はじめまして、磯野水穂と申します。よろしくおねがいします。」

そう、丁寧に挨拶する水穂さんに、小森宮子は、そんな挨拶をしなくてもいいのにと言おうとしたが、

「じゃあ、こいつにさ、お昼を作って食べさせてもらえ。僕は、急ぎで着物を縫わなければならないので。」

と、杉ちゃんがそういったため、それはいえなかった。

「じゃあ、水穂さんでしたね。なにか食べたいものはありますか?ハンバーグとか、そういうものですか?」

「馬鹿だなあ、介護食も知らないのかよ。」

と、杉ちゃんにいわれて、

「わかりました。じゃあ、おかゆでも作って差し上げます。」

と、宮子は言った。そして、四畳半の隣りにある台所に言った。台所の調理台に炊飯器があったのを見つけて、開けてみると、まだ朝食の残りがあったのだろうか。白いご飯が少し残っていた。よし、これで炊きがゆを作ろうと思った宮子は、調理台に置いてあった小さなお鍋をとって水を入れ、そこにご飯を入れて火にかける。強火で一気に煮てしまったら、うまくならないことは、宮子も知っていた。弱火で静かに10分くらい煮た。宮子は一体あのきれいな顔の人は、なんで寝たきりになったのか、よくわからなかった。少なくとも、寝たきりになってしまいそうな年寄ではなさそうだ。

10分煮ると、おかゆは、ドロドロの全粥になった。宮子は、火を泊めて、小皿におかゆを移し、それをお盆の上に乗せた。そして、茶箪笥からお匙を出して、一緒に乗せる。お茶を出してやりたいと思ったが、緑茶はなく、ほうじ茶しかなかった。これはきっと、刺激が強いものは飲ませない様にしているのだと思った。一体あの人は、なぜ、寝たきりになってしまったのかなと考えながら、宮子は、お盆を持って四畳半に戻った。

四畳半に戻ると、杉ちゃんはどこかに行ってしまったらしく姿はなかった。居るのは、水穂さんだけだ。宮子は、お食事ができましたと言って中にはいったが、水穂さんがひどく咳き込んで居るのが見えた。急いでお盆を床に置き、水穂さんのところに駆け寄った。こうなった時どうしたらいいのかわからなかったが、水穂さんが、咳き込みながら、枕元に置いてある水のみを取ろうと手を伸ばしたので、これですねと言って、中身を水穂さんに飲ませた。

「どうも。申し訳ありません。」

中身を飲んで少し落ち着いた水穂さんは、宮子にそういう事を言った。宮子は、食事を食べさせていいものかどうか迷ってしまった。水穂さんは、すみませんとだけ言ったが、ここで咳き込んで出てくるものの本体が、ぐわっと姿を現した。宮子は本体を見てぎょっとしてしまう。本体は、布団に敷いてあった、タオルを朱肉みたいに赤く染めた。宮子はそれを見てさらに面食らった。自分はもしかしたら明治とか大正時代にタイムスリップしてしまったのではないかと思ったが、スマートフォンがあるのだしここは現代。それで、ここまでひどくなるほどなんだから、もしかしたら、この人、余計に貧しい人だったのではないかと、感づいてしまった。そんな、私が、そんな人を看病するために雇われるなんて、と感じてしまったけれど、それは言っては行けないと思った。

「いえ、もし、そう感じているのなら、やめていただいて構いません。だって僕がそれを続けてくれと頼める立場ではありませんから。」

細い声で水穂さんがそう言っているのが聞こえる。

「そんな事、いわないでください。水穂さんのような方に、頼める立場ではないといわれてしまったら、何もいいようが無いです。」

とだけ、彼女はそういう事を言った。

「そうかも知れないけど、普通の人に、看病してもらうなんて、ありえない話ですから。」

宮子は、水穂さんがなぜ、こういう事を言うのか不思議だった。実を言うと、宮子は、ここで雇い主からお金を取ろうという気持ちにもなってしまっていたのだ。それしか家族に恩返しできることは無いと思っていたのだ。もし大屋敷に雇われたならそうしようと思っていたのに、宮子のほうが逆に謝られてしまうなんて、想定外も想定外だ。部屋の中にはピアノがあって、隣には、着物を吊るして掛けるタンスもあった。本当に、大正時代の若い男性の部屋といった感じだった。それに、病気になって、みんなから見捨てられてしまっているというのも、宮子と共通している。宮子は、この人は、悪い人ではないと思った。ピアノの上に、レオポルト・ゴドフスキーと書いてある楽譜があった。宮子はクラシックには詳しくないけど、この作曲家は、世界で一番難しい曲を書いたことは知っている。だから、この人も、ゴドフスキーを弾くことを強いられたのかな。と感じ取った。時々、理論もなしに、真実がわかってしまうことは、人間にはある。

宮子は、もう疲れ切って眠ってしまった水穂さんに、してやれることは、鮮血でしっかり汚れてしまったタオルを変えてやることだと思った。宮子は、海綿のように軽い水穂さんの体を持ち上げて汚れたタオルをとって、まず体を布団の端においた。新しいタオルを敷いてやって、水穂さんの体をもとの位置に戻した。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る