第8話 秘密の逢引
田舎町から馬車を走らせることおよそ二時間。
オズワルドは久方ぶりに、王都にやってきた。
最奥に白亜の城の聳える、夕暮れに染まるレンガ造りの街並みが美しい城下町、グラン・シャルネル。シャルル十七世の治めるシャルネル王国の首都である。
普段暮らしている村は羊ばかりで何もないとはいえ、自給自足はできているし、衣食住には事足りている。田舎へ引っ込んだ今では、特段の用もなければ王都に足を踏み入れることもない。
だが、今回はその『特段の用』があって来た。
アーサーの通っている士官学校と隣接するように立っている士官学生寮。そこから広大な園庭を挟んだ先に、ローズマリアお嬢様が暮らし、通う、王立学院を望むことができる。
(懐かしいな……)
かつては自分も、よくお坊ちゃまをお見送りとお迎えに来たものだ。
「寮ってやつで暮らしてみたい!」とわがままを言う坊っちゃまに、週の何日かを寮で寝泊まりする自由をお許しする代わりに、せめてお夕飯はご両親と一緒に食べること、と説得をしたこと。
まるで昨日のことのように思い出してしまう。
行き交う人々は皆、思い思いの品を手に家路を急ぎ、夕飯どきを前にして、いい匂いを漂わせる窓たち。
『じぃや、今日の夕飯は何だ? 俺は、この匂いのやつが食べたいぞ!』
『……仔牛の赤ワイン煮込みシチューですか。残念ながら、これは二日三日かけて肉をじっくりと煮込まなければなりません。今から支度したのでは、どんなに腕のいいコックでも間に合いませんよ』
『え~!!』
『そんな顔をしないで。香りの端々から、上等なお肉を丹念に仕込んでいたことが伺えます。きっと、どこかの家がお祝いなのでしょう。このような平和な日々も、御父上のご尽力の賜物です。坊ちゃまも、シチューは三日後の楽しみに、今はこの良き日を胸の内で祝福してあげてください』
『う~ん、うむ! 十年後も二十年後もその家がお祝いできるよう、俺も邁進せねばということだな!』
瞼の裏に浮かぶセピア色の思い出に口を綻ばせつつ、オズワルドは街外れにある仕立て屋に足を運んだ。
◇
「ごめんください」
木製の古びた扉の鈴を鳴らし、色とりどり布地の囲まれながら店内で待つ。
しばらくすると、奥から品の良い老齢の淑女が顔を出した。
脚が悪いのだろう、杖をつきながらも、丁寧な所作で客を出迎える。
「はい、お待たせいたしま――」
落ちくぼんだその瞳が、驚きに見開かれた。
「オズワルド様!?」
「お久しぶりです、マダム。お変わりありませんか?」
「あらあら、何年――いや、何十年ぶりでしょう。お恥ずかしながら、この通り足腰を悪くしておりまして。なにせもう歳ですもの、こればっかりはねぇ……」
「はは、私もですよ。先日は息子の稽古に少し付き合っただけで、二日は腰が痛くて。しかし、マダムの審美眼は未だ御健在なようだ。相変わらずこの仕立て屋は、どの生地もよどみなく美しい。加えて上質。水晶のようなマダムの瞳も、変わりなくお美しくて何よりです」
困ったように言葉を濁らせていたマダムは、年甲斐もなく褒められたことに驚き、恥ずかしそうに目尻の皺を深くさせた。
「もう、やだわぁ。オズワルド様はお上手で。今日はどういったご入り用ですの?」
「『裏庭』を少々使わせていただいても?」
その言葉に、マダムは「まぁ!」と口元に手を当てる。ほんのり頬を染め、オズワルドに尋ねた。
「まさか、今のヘンリー殿下も庶民の方と逢引きを?」
「いいえ。そうではありません。ヘンリーお坊ちゃまの恋のお噂は、引退してしまった私にはわかりかねますが、今回は私用であの隠し通路を使わせていただきたいのです」
「ああ、そういうことでしたの。もちろんですわ、オズワルド様の頼みとあらば」
そう言って、マダムは私室から鍵束を持ってきては、オズワルドを奥へと通した。
店の間裏にある、裏庭へ繋がる扉の鍵だ。
この庭を超えた先にある森の奥に、王立学院の寮へと繋がる隠し通路がある。
その存在を知っているのは、現王妃の実母であるマダムと、現王たるシャルル十七世――元・坊ちゃま、そしてオズワルドだけだ。
錆びついた鍵束を手に、マダムが嬉しそうに目を細めた。
「懐かしいわねぇ。あの頃は思ってもみなかったわ。ときおり寝室を抜け出す娘の逢引きの相手が、まさか王太子様だったなんて」
「私も、思ってもみませんでしたよ。いくら坊ちゃまがやんちゃで奇想天外なお方とはいえ、王立学院寮の窓枠と外壁を人知れず改造して、抜け出す為の足場と隠し通路を作り出していたなんて」
「うふふっ。愛の力かしら?」
「そうですねぇ」
「驚きはしたけれど、同時に、そのエネルギーと愛情を、羨ましく、眩しく感じたものだわ」
「私もです」
「オズワルド様が逢引きを知って、そうおっしゃってくださったのにも、私ども母子は大変感謝しております。一生、忘れることはありませんわ。庶民の出である娘が、王宮でつらい立場にも関わらずやってこれたのも、シャルル様――ひいてはオズワルド様のお力添えがあってのもの。私のような老婆にできることがあれば、いつでも頼ってくださいな」
「お気遣いありがとうございます、マダム。しかし、ひとつ訂正を。坊ちゃまが坊ちゃまでなく、一人の王であろうと心を決めることができたのは、私ではなく王妃様のおかげです。私も、あなた方おふたりには感謝してもしきれません。ありがとうございます」
心からの言葉だったが、マダムは「まぁまぁ、そんなご謙遜を!」と嬉しそうに笑った。
オズワルドは案内された裏庭を抜け、手土産に綺麗な紅いビロードの布地をいただいて、仕立て屋を後にした。
かつて坊っちゃまが人知れず作った隠し通路、もといお粗末な獣道は、今や鬱蒼と緑が生い茂って形を失っている。
しかし、世間知らずな坊っちゃまや、か弱い町娘であった王妃様ですら通り抜けることができたということは、この道周辺には毒や棘のある危ない草木が一切生えてこないという証拠だ。
オズワルドは生い茂る緑をかきわけながら森を進み、錠前のついた柵に囲まれた王立学院寮前までやってきた。
坊っちゃまに聞いていた錠前の番号は、十数年経った今も変わっていないらしい。
王立学院の警備の緩さに疑問を抱くと同時に、抜け出そうとする者がめったにいない、王立学院の生徒の真面目さに感心する。
そうしてオズワルドは、王立学院寮内に、難なく侵入を果たしたのだった。
おっさん老騎士の隠居再婚スローライフ 南川 佐久 @saku-higashinimori
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