第5話 東の昇り龍


 コンコン、という控えめなノックでアーサーは身体を起こす。灯りをつけてドアを開けると、そこには少女のような笑みを浮かべた母が立っていた。


「アーサー、ちょっといい?」


 楽しそうなその顔は……何かいたずらでも仕掛けるつもりか? それとも好きな子について根ほり葉ほり……


「アーサーの好きな子について教えて欲しいの! ダンスレッスンの参考に」


 ……予想通りだ。うわ、めんどくせぇ。

 これが親父だったら適当にシカトしてやり過ごすだけだが、母さんはなぁ、あからさまにしょんぼりな顔するからなぁ、やりづれぇんだよ。

 アーサーはそれとなしに母を追い出そうと、開けた扉を音もなく狭めつつ呟く。


「別にいないよ、そんなん……」


「じゃあ舞踏会、誰と踊るの? ひとりじゃ参加できないわよ?」


「う。それは……」


 視線が泳ぐ。左上から右上に。そして、左下。


「適当に……なんとかするって……」


 オズワルドに教わったことがある。人は、視覚的映像を思い出す際は左上、映像を新たに創造しているときは右上、思考を整理し考え事をするときは左下を見るのだと。

 リリィは確信する。今、アーサーは好きな子を思い出し、舞踏会で一緒に踊る姿を想像し、やっぱり無理だと諦めた。間違いない。


 ――させるものか。


 挑戦する前から諦める奴なんて。ニ十歳差の恋を実らせたこのリリィが許さない。

 狭まる扉に足を突っ込み、リリィは部屋に押し入った。


「息子の恋路に口出しなんてお節介だとは思うわ。正直私なら余計なお世話って思う。でもね、アーサー。お母さんは、あなたを挑戦する前から諦めるような子に育てた覚えはありません。それがどれだけ怖くても、踏みださなければ夢は叶わないのよ?」


「……!」


「恋はある日突然やって来る。それが、声をかけづらい相手でも。身分の違い、歳の差、境遇、色んな要因があるでしょう。でも、それで簡単に諦めるような意気地なし――王都騎士団に居場所があると思って?」


「それ、は――」


 反論のしようもないことはわかっている。浴びせられる事実と正論の嵐。でも、それはリリィが本気でアーサーを心配しているからだ。かつて母が自分にしたように、ときには厳しく教えることも必要なのだと。

 でも、それじゃあ可哀想なこともわかっている。リリィは、ほんの少しでいい――幼いあのとき自分の欲しかった言葉を付け加えた。


「何があっても、どんな結末になろうとも。お母さんは絶対、あなたの味方だから」


「……!」


「――ね?」


 全てを包み込むような優しい笑みに絆されて、アーサーは全て暴露した。この笑みにはどう足掻いても逆らえない。だから自分はマザコンなんだろうなぁ……


      ◇


 明くる朝。リビングは鼻腔をくすぐる香ばしい香りに包まれていた。たんたん、と階を下りるリリィの胸はそれだけでもう踊りだしそう。


 テーブルには彩り鮮やかなグリーンサラダ、厚切りにしたワイルドボアのベーコンに、卵がふたつの目玉焼き。隣に置かれた華奢な小瓶には、畑で採れた野菜で作った自家製ソースが入っている。

 湯気を吐き出す温かなマグ――今日はえんどう豆のポタージュのようだ。カリカリに焼いたクルトンが入っていると尚嬉しい。


 メニューとしてはいわゆる普通の家庭的なラインナップだが、見た目も味もどんな王宮シェフにだって負けない。リリィは、オズワルドの作るご飯が好きだった。


「相変わらずいい匂い!」


「おはようリリィ。そう言ってもらえると作り甲斐があるね」


 うきうきと席に着いたリリィの向かいに、焼き立てのパンを皿に盛ったオズワルドが腰かける。


 午前九時。ふたりの朝は今日もスロースタート。ちなみにアーサーは鶏の鳴き声と共に起床し家を出るのでもうそろそろ学校だろう。

 若い者は大変だねぇ。まぁ、それもその時期だけの良い経験さ。


(今日のお弁当はこっそり私が作ったものだけど、アーサーは気が付くかな?)


 『うげ。親父の』みたいな顔されなければいいけど……まぁいいか。味は保証する。


 そんなことを考えていると「待ちきれない!」と言わんばかりのリリィと目が合って――

 ふたりは同時に「いただきます」と声をそろえた。木目調のリビングにはあたたかい木漏れ日がさしこみ、心地の良い銀食器の音が響く。


「あ、これ。ウチで採れた赤カブ? へぇ、こうやってスライスすると綺麗なのね。赤と白のコントラストが緑に映えて……」


「新鮮だから、生でサラダに添えられる。厚切りにしてソテーにしても美味しいよ」


「素敵! 今度お魚のソテーに添えようかしら。そうだ、ここのところ暖かい日が続いているから、午後は一緒に釣りに行かない?」


「いいね。この時期だったらマスかヤマメか……そういえば、湖にドラゴンフィッシュが出没したらしいとか、商店で耳にしたっけ」


 なんとなしに口にすると、リリィは怪訝そうに首をかしげる。


「ドラゴンフィッシュ? あの、大きくてこわいやつ? そもそも食べられるの?」


「顎と牙には毒があるけど、きちんと捌けば食べられる。淡白で鳥と魚の間のような味だよ。ソテーにするにはうってつけだ」


「……捌けるの?」


「もちろん」


「でもあれ、小型でも体長三メートルはあるでしょう? おまけに気性は荒くって、まさに『湖の暴れん坊』。ソテーは素敵だけど、わざわざその為に冒険者を雇うのは……」


 言いかけて、リリィはまさかと口を噤んだ。恐る恐る、正面を伺う。


「……倒せるの?」


 その問いに、オズワルドは丁寧な所作で口元を拭き、いつもと同じ笑みを浮かべた。


「もちろん」


      ◇


 『あいつの肝吸いが美味いんだ』。そう言って、オズワルドは手に釣り竿を、腰には剣をさして湖を訪れた。

 ふたりして湖畔に佇み、鳥の声に耳を傾けながら釣り竿を垂らす。もし湖にドラゴンフィッシュがいるのなら、きっと鳥たちがその居場所を教えてくれるはずだ。


「本当に釣れるのかしら? ドラゴンフィッシュなんて、私食べたことないわ」


「王都の市場にはまず出回らない下魚だからね。通称『東の昇り龍』。元は東に生息していた長刀種の魚が、養殖の失敗や飼育放棄などの要因で外来種として居着いてしまった悪い例だよ。繁殖力こそ控えめだが、気性も荒いし、放っておくとモンスター級の大きさになってしまう厄介者さ。ここら西では比較的珍しい。私も食べるのは何十年ぶりだろう。東の知り合いが『食べきれない』と差し入れに持ってきてくれて以来かな」


 懐かしさに目を細めるオズワルド。すると、リリィは怪訝そうに首を傾げる。


「下魚を差し入れに……? それって失礼なんじゃないの?」


 それを聞いて、オズワルドは愉快そうに笑った。


「普通ならね。でも、先も言ったとおりドラゴンフィッシュは東では『昇り龍』と呼ばれる程縁起の良い魚なんだ。兵の必勝祈願や文官の出世を願う席で振る舞われたりするんだよ。それを知っていれば、元来入手しづらいこの魚を差し入れられて、喜びこそすれ嫌な気分にはなったりしないさ。文化が違えば認識も違う。でも、味は変わらない。美味しいよ」


「へぇ、知らなかった。そう聞くと俄然食べたくなるわ! オズワルドは相変わらず博学ね」


「坊ちゃまのところにいた家庭教師の先生は皆一流の方ばかりだったからね。横で聞いていれば自ずと詳しくなるものさ」


「十年も?」


「そう、十年も」


 楽しそうに釣り竿を垂らすリリィの横でオズワルドもゆったりと糸を垂らす。午後の陽気が湖面を照らし、水面はキラキラと輝いている。世の喧騒とはかけ離れた緩慢なこの時間がいかに贅沢なものか。オズワルドは釣り竿を手に噛み締めていた。


「そういえば、アーサーは何か言っていた?」


 その問いに、湖畔の空気がひやりと止まる。森の静寂のせいではない。隣から放たれる圧が、心境が。辺りを冷え込ませたのだ。

 しばしの間を置いて、リリィが意を決したように口を開いた。


「隣国の、宰相さんの子だったわ」


「え?」


 思わず耳を疑うも、現実は現実のまま。


「アーサーの好きな子、国策の交換留学制度で来ているルイスヴィ帝国の宰相さんの娘だったの」


「交換留学制度って、あの、停戦の証として双方の要職の子息を半ば人質同然に相手国へ留学させるっていう、アレかい?」


 それはまた、なんと。

 思わず言葉が口を突く。


「ヘビーだなぁ......」

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