第3話 息子と親父


 夕焼けが橙から紫になり陽がとっぷりと暮れた後、村の羊たちが丸まって眠るのを横目にアーサーは帰宅する。相変わらずこの村には何も無いなぁ、とため息を吐きながら。


「ただいま」


 幼い頃はあんなに大きいと感じた木造二階建ての家屋も今となっては物足りない。

 アーサーの為に、と用意された裏庭の稽古場は木人が円を描くように三体並んでいるだけで、士官学校のそれとは比べ物にならないのだ。部屋だってそこまで広くなく、戸建てなのに寮で暮らしている友人のものと大差ない。壁だって十分に厚いとは言えないし……年頃の男子としては不満がいっぱいだった。それに何より――


「ああ、おかえりアーサー」


 出迎えるのは穏やかな笑み。

 そう――穏やかすぎるのだ。


 アーサーは父が嫌いだった。いや、嫌いは言い過ぎた。苦手だった。

 具体的には、他の子の父親に比べて老けすぎているのだ。母はあんなに綺麗で若々しくて、隣を歩けば彼女と勘違いされるのに。

 それに比べて親父は――アーサーはそれが悔しく、恥ずかしかった。


 母は父を盲目的に愛しているので「雪のような白銀、素敵でしょ?」となどと言うが、なんなんだアレは。ただの白髪じゃねーか。

 それにあの、草食動物田舎のひつじを彷彿とさせる枯れきった笑み――歳の差二十だと? ふざけんな。何がどう転べばそういうことになるんだよ。


「今日は帰りが一段と遅かったね。何かあったのかい?」


 開口一番説教か? だが、知っているから口に出せない。あの父親は帰りが遅いことに小言を言いたいわけではない。ただ心配しているだけなのだ。それがまたアーサーを苛立たせる。そう、親父は過保護が過ぎるんだ。

 質問を無視して部屋に荷を置いたアーサーは、テーブルで新聞を広げて夕飯を待つ父の斜め向かいに座ると言葉を投げた。


「あのさぁ、俺はもうそんな子どもじゃないんだけど?」


「ん? そうか。気に障ったなら謝るよ」


「簡単に謝んじゃねーよ……」


 これだ。親父はいつもこうなんだ。いくら突っかかっても肩透かしを食らう。それがまた気に食わない。アーサーは気を取り直し、気になっていたことを口にする。


「親父はさ、どうして母さんと結婚したの?」


 ――しかも再婚で。とまでは言わない。再婚、前妻――それらの言葉を耳にすると、母さんがほんのりしゅん、と落ち込むからだ。

 問われた父は驚いたように新聞から顔をあげ、目を丸くする。そして、先程よりも一層穏やかな笑みを浮かべて呟いた。


「人にまだ必要とされることが、嬉しかったからかな……」


「なんだそれ」


 アーサーはいまいち要領を得ない。


「年を取るとね、それが如何に幸せなことか気づくんだよ」


「相変わらずジジ臭ぇな」


「実際、もう五十五だからな。ジジイだよ」


「認めんのかよ」


「事実は事実さ、変わらない」


 その澄ました顔がアーサーはやはり気に食わなかった。


「……ったく、なんで母さんはこんな老いぼれ……」


 その点は申し訳なかったと、オズワルドは自覚していた。父親が若くない――それは子どもであれば気にしてしまうのも仕方ないだろう。アーサーが十ニで士官学校に通い出してからはそれが特に顕著だ。

 無理もない。アーサーの通う学校は国で一、二を争う名門で、周りは有名な騎士の家系の出身者ばかりなのだから。同級生の父親はさぞ頼もしく輝いて見えるのだろう。


 それに、この村から学校までは片道二時間。普通に考えれば寮に入るべき距離だ。それでもアーサーが自宅から通い続けるのには理由がある。本人は「早起きして自分を鍛えるには丁度いい」なんて言い張っているが、本当は――


「アーサー。もうすぐ十五歳だ。来年、四年生からは遠征実習も始まり、日の昇る前から集合することもある。いい加減寮に入らないのか?」


 尋ねると、息子はぶっきらぼうに吐き捨てる。


「別に。」


(ああ、反抗期がここまでとは。寂しいな。せめて「大丈夫だよ」とか「できれば行きたい」とか、もっと会話らしい会話をしたい。三文字以内で終わらない会話を……)


 それもこれも、自分が枯れたおっさんだからか――

 オズワルドは反省した。いくら定年後は田舎でスローライフすると決めていたとはいえ、ちょっと悠々自適が過ぎたかと。読んでいた新聞をたたみ、背筋を伸ばして席を立つ。


「アーサー、夕飯まではもう少しかかる。一緒に裏庭に来なさい」


「……なんだよ、急に」


 裏庭といえば剣の稽古だ。幼い頃は朝早くから日が暮れるまで親父にせがんで没頭したものだ。強くなるのが心地よかった、上達するのが楽しかった、母さんに褒められるのが嬉しかった……

 しかし、基礎と護身術を習得すると、父はそれ以上を教えてくれなくなってしまった。理由はわからない。ただ、「私の剣術は由緒正しいものじゃない。我流だからね。あとは学校で習いなさい」と言っただけで――今でも疑っている。本当に、それだけなのかと。


 懐かしい思い出を振り払うようにして、アーサーは剣を手に裏庭に出た。学年でも五つの指に入る実力者の彼に、あの老いた父親から教わることなど今更無い。いつもなら一蹴する父の誘いだが、今夜はどこか違って見える。そして、まだ若いが戦士としての直感が『行くべきだ』と告げていた。

 上着を羽織って出かけようとするオズワルドに、エプロン姿のリリィが声をかける。


「あら、裏庭に? 珍しいわね。どういう風の吹き回しなの?」


 きょとんと傾げるリリィにオズワルドは、


「いやぁ、たまにはカッコイイところを見せないとな、と思ってね」


 と。いつもと変わらない穏やかな笑みを見せた。

裏庭に着くや、剣を構えて素振りしているアーサーに言ってのける。


「とりあえず、斬り込んでみなさい。ここを戦場だと思って」


 隣国とは形式上停戦状態にあるが、国境付近では未だ小競り合いが絶えない。士官学校では再び戦争が始まるのでは、とまことしやかに囁かれているし、アーサー達の住むシャルネル王国と隣のルイヴィ帝国が停戦してからというもの、三十八年前に魔王を倒され沈静化していた魔族の動きもここぞとばかりに活発化している。「戦場だと思って」というのは、騎士を志す者であれば言われるまでもなく理解している大前提だ。


 アーサーは入学当初より欠かさずに手入れしている愛刀を構え、木人と向き合った。冬の澄んだ空気と、近づいてきた春を報せる夜風。そのいずれもが完全に沈黙した刹那。渾身の一刀を繰り出す。


(よし……!)


 これ以上ない手ごたえを感じた。構え、踏み込み、そして一閃。どれも完璧なものだった。木人は首筋から胸にかけてをすっぱりと斬り裂かれ、深い傷を刻んでいる。「どうだ!」と言わんばかりに大きく振り返ると、父親は腕を組んで顎に手を添え、「ふむふむ」と頷くだけだった。いつもと変わらぬ、老爺のような穏やかさで。


「頸動脈から心臓までを綺麗に斬り込んだね。寸分違わず、最短で一直線に。十四でこれができれば見事なものだよ。だが、少し詰めが甘いかな」


「なっ――!」


「貸してご覧なさい」


 オズワルドは上着の裾を夜風に靡かせ、呆然と立ち尽くすアーサーから剣をさらりとひったくる。そして、姿勢を低く構えた、刹那――

 木人は一刀のもとに斬り捨てられ、乾いた音をカランと響かせ地に落ちた。


 ――意味が分からない。


 一瞬の出来事に、アーサーは夢でも見ているのかと疑う。もしくはこの狸親父に化かされているのか。

 だって、斬れているんだよ。


「死に瀕した人間は、ときに驚くべき力を発揮する。こうしないと。戦場ではね」


「親父……あんたは一体、何者なんだ……?」


「ただのおっさん――元執事だよ」


「嘘つけ! だって今のは、人間業じゃあ――」


「言っていなかったっけ? 執事をする前は騎士団にいたんだ」


「違ぇだろ!? そういうレベルの話じゃねぇ。その太刀筋、一閃は……! 入学式典で一度だけ見た、王都騎士団団長の、伝説の――」


 息を荒げながら糾弾するアーサーの熱がオズワルドには伝わっていないのか。彼は、いつもと変わらぬ穏やかさで、


「ほう、今のが見えていたのかい? 大したものだ、良い目を持っている。やはりお前は自慢の息子だよ」


 そう、微笑んだ。


 アーサーは真っ白になった頭の中で今しがた目にした光景を断片的に整理する。

 踏み込み、抜刀、手の動き――それらは何一つとして目で捕えることができなかった。見えたのはただ、光が一閃。瞬間的に瞬いたのが映っただけだ。

 だが、あの技はそれで十分なんだ。その刃の瞬きで相手が何者なのかがわかる。その力量と、

 光速の剣技――あんな芸当ができるのは、世界に三人いるかいないかなんだから。


「どうして親父が、その技を――」


「興味があるのかい? やれやれ、仕方ないな。もう一度するからよく見ておくんだよ。なにせ木人は三体しかない。あと二回しか見せてあげられないからね」

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