Day16 水の

 昔はぼく液体だったんだよ。だからいつか液体に戻るんだよ。酔っぱらうと彼が決まってそう言うのを、私は適当に笑いながら聞き流していた。今は普通の人間と変わらないね、固体になってよかったねって言いながら抱きついたりして、要するにただ、お気に入りのジョークなんだと思っていた。

 だからある日、アパートに帰ったらいるはずの彼がいなくて、お湯を抜いて洗っておいたはずのバスタブに半分くらい水が溜まっていたときだって、まさか液体に戻ったんじゃないよね、なんて思ったりしなかった。第一そんなこと起こるわけがないのだ。

 だけど三和土とシューズボックスには彼の靴が全部あったし、テーブルの上にはスマホと財布が置きっぱなしだし、その他の私物もなくなっていなかった。そんな状態で全然連絡もとれなくて、そのまま一週間が経った。

 彼は出勤もしていなくて、友達のところにも行っていなくて、実家もない。どこに行ったか全然わからない。本当に忽然と消えてしまった、という感じだった。


 彼がいなくなってから、私はバスタブの栓をまだ一度も抜いていない。蓋をして、なるべく汚さないように気をつけながら、ずっとそのままになっている。

 いつか液体に戻るなんて絶対に与太話だと思っていたのに、彼がいなくなって代わりに何か液体が残っている、そういう状況になると、与太だと思っていた言葉がぐるぐると頭を回って、私はどうしてもバスタブの中身を流してしまうことができない。

 彼、もしも液体に戻ったら私にどうしてほしいって言っていたっけ。特に何も言っていなかったっけ。

 ただの水にしか見えないその液体をじっと見つめて私は考える。きっと、何も言っていなかった。ただ液体に戻るんだよ、ということだけ。私はバスタブの中身をコップに汲んで、光に透かして、匂いをかぎ、ほんのちょっぴり口に含んでみる。無色透明かつ無味無臭。本当に水にしか思えない。

 ああ、早く彼が見つからないかな。液体なんかじゃない、人間の姿のままで戻ってこないかな。そしたら大笑いして、バカめって自分につっこみながら栓を抜くのに。そしたらどんなにスッキリするだろうかと思うと、それだけで胸がいっぱいになってしまう。

 何も言わずにいなくなるような人じゃなかったと思っていたのに。出かけるときも帰るときも、必ず私に知らせてくれたのに。

 やっぱり急に液体になってしまったのかもしれない。


 なんて。

 ばかばかしい。ありえない。

 頭ではそう思っているのに、やっぱり私は、どうしてもバスタブの栓を抜くことができない。


 何日経っても彼は帰ってこない。連絡すらない。私はひとりでアパートに帰って、ひとりぼっちで夜を過ごす。

 さびしさで体中がいっぱいになると、私は服を脱いでバスタブに入り、しっかり浸かるには少し浅い水の中に、せいいっぱい体を沈めてみる。こうやっているうちに私も液体になってしまえばいいのに、と思いながら、体が冷えきってしまうまでじっとしている。

 バスタブの水は不思議と濁ったりせず、いつ見ても透明できれいなままだ。私はまだそれを流してしまうことができないし、新しく誰かを好きになることもできない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る