Day13 うろこ雲
うちにお金がなくなると、父はわたしに「マリさんとこ行っておいで」と命じたものです。わたしはいやだったのですが、仕方なくマリさんの棲む廃工場の裏の、黒々とした池に向かうのでした。そうしないと父に殴られたのです。
マリさんというのは人魚のおばあさんです。もう長いこと生きていたのですっかりぼけていたのですが、わたしのことは友だちと思ってくれていたようです。池に訪ねていくと大喜びして、べとべとした奇形の小魚などを並べてくれました。
わたしはそれをむりやりの笑顔で受け取って、ご機嫌をとっておいて、マリさんに「うろこをください」とたのみます。するとマリさんはニコニコしながら、長いながい魚の尾から一枚か二枚、わたしのてのひらほどもあるうろこを剥いでくれるのでした。
マリさんのうろこを父に渡すと、父はそれを骨董屋に持っていきます。人魚がみずから剥ぐうろこは傷もなく、またマリさんのものは珍しい黒色でしたから、骨董屋はいい値段で買ってくれるのです。でもこんなに大きなうろこを剥ぐのはどんなに痛かろうと思うと、わたしは自分のしたことがおそろしくなって、池からの帰り路はいつも泣いていたものでした。もらった魚は庭に穴をほって埋めました。
そうやってわたしのうちは何とか食いつないでいたのです。でもとうとう、その池のある場所に新しく工場が建てられることになりまして、マリさんの棲む池も、埋め立てられることが決まりました。わたしはその報せを小学校で先生から聞いたのですが、足元からぞくぞくするものが上がってきて、なんとも言えない気持ちになりました。
その日の放課後に池にいきますと、もう埋め立て工事は始まっていて、作業着を着たひとたちが池の水を掻き出していました。マリさんはどうしただろうと見ると、近くに軽トラックが停まっておりまして、荷台の大きな水槽にマリさんが入っていました。どうもどこかの大学のトラックのようでした。
マリさんはぼんやりした顔で空を見つめていました。長いこと棲んでいた池から離されて、かなしくはなかったのでしょうか。ぼけてしまって何もわからなかったのかもしれません。それとも、顔には出さずにかなしんでいたのでしょうか。
わたしも空を見上げました。夕方で、桃色になりかけた空に、うろこ雲が浮かんでいました。マリさんのうろことは似ても似つかない、真っ白いうろこ雲でした。
やがて軽トラにひとが乗り込み、ゆっくりと走り始めました。遠巻きに見つめていたわたしの前を、軽トラが通り過ぎるとき、マリさんがわたしを見つけました。ぼんやりしていた顔が、ぱっと明るく笑顔になりました。でも、すぐに遠ざかっていってしまいました。
それからマリさんに会ったことはありません。
いいえ、わたしはマリさんを、友だちとは思っていませんでした。友だちならどうして、会うたびにあんなに重苦しい気持ちになるでしょうか。もらった魚を平気で捨ててしまえるものでしょうか。
大人になった今も、うろこ雲を見ると胸をしめつけられるような思いがするのは、きっと罪悪感のせいでしょう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます