第92話 医の神 アスクレピオス

「この杖は恐らく……」


 蛇が巻き付いた意匠の杖を見ながら、ナイチンゲールが口を開く。どうやら彼女には心当たりがあるようだ。


「蛇杖。医の象徴として、医療に携わる者にとっては比較的ポピュラーなものです。そして、この杖の所持者が……」


 ナイチンゲールが手にした杖が光る。彼女の注射器から照射される癒しの光と同じように、柔らかくて暖かく、そして優しい光だ。

 その光が徐々に形作るのは人の姿。


「お初にお目にかかる。貴方がミト様か。私はアスクレピオス。神話の時代、医の道を志した者だ」


 ナイチンゲールの杖から発せられた光は、端正なマスクの青年の姿になった。短めの栗色の巻き毛と青い瞳。彫りの深い顔は西欧風。身に纏うのは古代ローマや古代ギリシアの神話の挿絵でよく見るような、長く白い布を巻きつけただけのような簡素なものだが、それが逆に神聖さを醸し出している。

 そして、『アスクレピオス』とは聞き慣れない名だ。三戸を始め、全員がそう思った。


「アスクレピオスとは、ギリシア神話における医術の神なのです。死者すら蘇らせたと言われています。そのような存在が、なぜ私のような者の相棒に……」

 

 ナイチンゲールのこの言葉を聞いて、三戸達はなぜ彼女が困惑していたのかを理解した。医療に従事するナイチンゲールにとって、彼は医療の象徴であり、しかもギリシア神話の一柱。彼女からすれば、彼はむしろ崇めるべき存在である。それが今や、自分が『主』で彼が『従』になってしまった。


「……まあ、死者を大量に蘇生させたおかげで冥界の神からクレームが来てね。私は殺されてしまった。神と崇められたのは死後の事だ。そんな事は私は知らないよ。私はただの腕の良い医者さ。それよりも、私よりも遥か後世に、同じような志を持つ者がいた事を嬉しく思うよ」


 イケメンがそう言いながら快活に笑う。どうやら死後に神として祭り上げられた事に関しては興味がないらしく、自分と同じように、患者を救う事に生涯をかけたナイチンゲールには敬意を抱いているらしい。


「えっと、それでだ。アスクレprprp……」

「あはは! 言い辛いかね? ならば私の事はアスキーとでも呼びたまえ!」


 呼び慣れない名を噛んでしまった三戸に、白い歯を輝かせながら愛称で呼べというイケメン。


「それではアスキー。貴方がナイチンゲールの相棒としてここに顕現しているという事は、彼女は覚醒したという事でいいのか?」

「そういう事になるかな? ハハハ!」


 三戸としてもそう思っている。覚醒の切っ掛けなど大した問題ではないだろう。ナイチンゲールの中では硫酸を大量に精製した事が原因だと思っているようだが、痛い思いをせずに覚醒できたのであればそれに越したことはない。


「それで、我が主ナイチンゲールが持つあの杖だが……」


 アスキーが言うには、あれが『ドクター』の真の姿であるらしい。今まで覚醒後に得物の姿が変わった例はないため、その点を見てもやはり特殊なケースだ。

 基本的には蛇の口から出ている聴診器で診断、背中に刺さっている注射器で治療。それをナイチンゲールが行う事という事で、パワーアップはしているらしいが出来る事は変わらない。

 それでは、彼女が覚醒してアスキーが顕現できるようになった事で、何が変わったのか。


「いいかい? 彼女は看護する者。患者を支えるのが仕事であって、治療行為そのものが仕事じゃあない」


 白い歯を輝かせ、イケメンスマイルを浮かべながらアスキーは続ける。


「私が顕現した事で彼女が得る最大のメリットは、直接的な敵の『破壊』だ」


 今度の言葉には白い歯の輝きも爽やかなスマイルもない。発せられたのは凄み。


「医師であるお主が敵を壊すと言われるか?」

「そうさな。医術を嗜む者とは真逆の行為に思えるが」


 顎鬚を撫でつけている関羽と、腕組みをしているリチャードが問う。しかし、三戸には分かる気がした。怪我や病気を治すという事は、人体を熟知しているという事だ。


「ハハハ! 私は医者だ。どこをどう弄れば人の身体が壊れるか熟知しているのだよ。だが、私は君達ほど体術に自信があるわけではないのでね。主との共同作業になってしまう。ハハハ!」


 これはつまり、ナイチンゲールによるデバフが必要という事だろう。


「まあ、いいんじゃないかしら? こればっかりは敵が現れないと分からないし……」

「あっ、ジャンヌ! ダメだ! そんな事を言うとフラグが――」

「マスター! 敵です!」


 迂闊な事を口走ったジャンヌを窘めようとした三戸だが、時すでに遅し。アンジーのレーダーは敵を捕捉しており、そのデータが三戸にも共有された。

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