第73話 老人は国家繁栄の夢を見る。誰よりも死から遠ざかりたいがために
7度目の出撃に向けてGARNETの調整に入る。これまで整備させてもキャンセルが続いたからちょっと気が引けるんで、差し入れをいつもより豪華にしてデザートなんぞも付けることにした。
まあ材料がオーガニックの高級品だ、簡単なモンでも『高級品』の字面だけでうまく感じるだろ。
けどなぁ、どうせ作るなら自分でうまいと思うものにしたい。世間じゃ出来合いのチョコ溶かして形を変えればそれだけで手作りチョコ(笑)だが、自分で食うとなったら物足りないしな。
「という訳でガートーショコラ(笑)を作ります」
《朝も
「それっぽくするだけだからな。ケーキ道を汚すようなオレの手作りなんざ(笑)をつけにゃいかんでしょ」
《低ちゃんのケーキに対する拘りはなんなん……》
うるせえな。ケーキは子供にとって幸せの味なんだよ。これがたまのおやつや誕生日にキャンドル付きで出てくるのが良い家庭なんだって。
「材料の基本はミルクチョコ。これにココアの粉末、バター、薄力粉、食感用のクルミ、新鮮な卵。チョコだけだと甘みが足りないから砂糖と、ちょっとの塩も必要なんだな。最後に見栄え用の粉砂糖……と書いてある」
これはフードパウダーが当たり前になる前の大昔のレシピだ。昔はご家庭でも作れたこんな程度の代物が、今では一部の高級菓子店舗なんかじゃないと閲覧さえ出来ない秘伝のレシピ扱いってんだから、滅びかけのドン詰まり文明は困ったもんだぜ。
オレは商売にしない条件で有料休憩所のケーキ職人からレシピを譲って貰った。
あそこは菓子職人もやってる初老の爺さんがオーナーらしいんだが、その家族がジャスティーン共が暴れて被災した区画にいたとかで、それでも運よく助かったらしい。ただ初動の復旧作業が遅れていたらヤバかったんだと。
その事で礼を言われたときにガメつくレシピを教えてもらったってわけだ。恩につけ込むようでちょいと行儀が悪かったな。
「まず前に買って冷蔵庫に突っ込んだままになってた高級チョコの残りを、今からひたすら刻みまーす」
《はっちゃんたちを助けに行ったときの余りだねー。意外と食べなかったのぅ》
「有料休憩所で甘いもの食っちまうからな――――包丁で刻む昔ながらの方法は手首が死ぬからやらん。めんどくせえからスライサーで削ぐ。他にはビニール被せてブッ叩く方法もあるみたいだな。こっちはバンバンうるせえから今回は削る」
《まだ朝の5時前だものねー。この建物はそこそこ防音はしっかりしてるけど、気配で二人が起きちゃうかもしれない》
「それな。朝っぱらから同居人の騒音で起こされたら殺意が湧くってもんだ。で、湯を沸かしつつ今度は薄力粉とココアを振るいにかける。一見すると意味なくねえ? って工程だが、これが粉の中に空気を含んでふんわりさせるし、粉がダマになるのを防ぐんだそーだ。省略して失敗するのは自分だから高い材料無駄にしたいアホは好きにしろ。ちょっと高い位置からやるのがいい感じに混ざるコツらしい」
《いつのまにか始まった低ちゃんクッキン♪ イントロは3分のアレ》
「オレは3分じゃ無理だなぁ。卵は黄身と白身に分けておくっと……朝に見る新鮮な黄身はいいな、このまま醤油垂らしたいわ」
《醤油臭いガトーショコラとか新しスギ》
「さすがに白飯にかけて食うわい。次に用意していた湯煎用のボウルにお湯をいれて、その中に刻んであるチョコが入ったボウルを浸ける。熱でチョコが軽く溶けてきたらバターも入れて混ぜながら溶かす」
《予めバターは常温にしておくとスムーズ》
「マメ知識センキュー。十分混ざったらいったん放置。別のボウルに入れた砂糖と卵黄をしこたま混ぜる。ハンドミキサー最高」
《デデッデッデデッ、デデッデッデデッ、デデッデッデデッ、デッ、カン♪》
「それは3分じゃなくて日曜の鬱アニメのEDイントロだろ。迫りくる月曜に絶望するヤツ」
《風評被害が熱すぎるw》
「ご長寿番組は置いといて。黄身が混ざって白くなってきたらさっきの溶かしたチョコを少しづつ加える。いっぺんに入れると出来上がりがイマイチになるからチマチマと」
《デンデーンッ、デデデデーンッ……~~~シュウ!》
「それは機動な戦士な。あれの最後ってシュウで合ってるのか?」
《わかんにゃいッ》
「わかんにゃいかー。チョコが均等に混ざったら、置いといたココアIN薄力粉をまた網で振るいながら入れる。この無意味そうな手間がクッソ出来上がりに影響するらしいからしっかりと。これがガトーショコラの生地の素なんだな。薄く伸ばして焼いたらパンケーキみたいにすぐ食えそうだ」
《デケデデッ、デデッテ、デケデデッ!》
「最低野郎か。いつの間にイントロクイズになったんだ?」
《デデデッデデッ! デデデッデッデデッ! ジャーン(余韻)!》
「7つの玉を集める、
《テーレレレェェェエン!》
「クソゲーが有名なロボアニメのアイキャッチ。場面転換の他に二大勢力のどっちパートか、画面にでっかく出てくるシンボルで分かるんだよな。この辺りで予めオーブンを170度に設定してあっためておく。その間にケーキの型にクッキングシートを被せて、そこに生地の素を投入だ」
《全問正解。低ちゃんがアニメオタクに優しいギャルになってた件について》
「ギャルじゃねーしッ。夜長いから動画でも見ないと暇なんだよ。若い脳味噌のせいか時間経つのが遅いしよ」
長官ねーちゃんほどディープじゃねーが、スーパーロボット繋がりで昔のアニメや特撮を見るパイロットは意外と多い。
人型ロボット兵器なんて無駄だらけで現実的じゃない、荒唐無稽なSFだ。そんな風に言われてたジャンルが今じゃリアルの商売になっちまってんだから世の中わっかんねえよな。ちょっとした技術のブレイクスルーで常識なんざ変わっちまうものだとしてもよ。
《若い体を持て余しているとッ》
「じ・か・ん、な。後はオーブン師匠の力を信じて30分くらい焼く。使ってるオーブンと焼く物によって微妙に変わるらしいが5号、15センチくらいのガトーショコラならこんなもんのようだ。5号ならだいたい一切れ4人から6人分になるってよ」
《ところで低ちゃん、ひとついいカニ?》
「どうかしたカニ?」
《クルミは入れないの?》
「…………うーわ、忘れてた。これでうまく行ったらあと二つ焼くし、2個目から入れよう。というか言ってくれよスーツちゃん!」
もうとっくに焼け始めてるよなぁ。今さらクルミをケーキ型にドスドス突っ込むのもみっともねえし、そもそも半端に加熱して外に出したら台無しだ。炊飯器の蓋とオーブンの蓋は決まった時間まで開けないのがセオリーだってのはオレでも分かる。
《はじめはプレーンで焼くのかなぁーって………ん? ガトーショコラってさ、何も入れないのをプレーンって言っていいのかな? チョコ入ってるジャン?》
「チョコがトッピング的にバラで入ってるなら言わないんじゃないか? 逆に生地にガッツリ入ってるならプレーンでいいんじゃね? いやごめん、さすがにわからん」
《ベリーが練り込んであったら?》
「べリー」
《抹茶だったら?》
「抹茶」
《チョコだったら?》
「くっ、何故なんだチョコ。おまえだけはプレーン表記でも微妙に間違いじゃない気がする……」
《確かに菓子店だとチョコもプレーンとして表記があるみたいダナー》
「奥が深いぜケーキ道。まあいいか。ボケッと待ってるのもアレだし、久々にこの体のプロフィールを更新してくれないか?」
《お、やっちゃう? ならせめて椅子に腰かけて倒れないようにするべし》
「エチケット袋もいるかもな。前は吐きそうになっちまったしよ」
《そこにボウルがあるじゃろ?》
「もんじゃ作ってるわけじゃねえよッ」
ダイニングから引っ張ってきた椅子に腰かけ、もしものとき用に袋を準備して覚悟完了。オーケィ、どっからでも来やがれ。
《ほないくでー》
…………やべえ、何の映像も出ないうちからもう気持ち悪い。脳味噌を遠心分離機にかけて、回転の限界から急にふわっと回転を弱めた瞬間って感じ。むしろこのふわっが気持ち悪い。絶叫マシンの緩急って言えば近いか? ロボット操縦で掛かる負荷も近いが、あっちは『さあ戦闘だ』って気合入れてるし自分で動かすから意外と平気なんだよな。あ、ダメだ。頭が――――
《低ちゃん、大丈夫ナリか》
「―――――ええ、大丈夫。少し気持ち悪いだけ」
まだ目の奥がチカチカするわね。思い出すというより
……この人、初めは恐い乱暴者かと思ったけど言動よりずっと真面目だし、根は良い人みたい。殺しに躊躇いが無いのはドン引きだけど、女子供にはそこそこ優しいみたい。それでもあくまで敵対してない場合で、嫌がらせをしてくるような相手にはあんまり容赦しないみたいけどさ。でも、こんな世界じゃ仕方ないのかもね。
それに無意識、なのかしら? 彼なりに
彼とは元の
「ぶっ……」
《身体操作! エチケーット!》
(………た、助かったぜスーツちゃん。いきなり込み上げたから間に合わなかった。手足も重くて動かなかったしよ)
《なんのなんの、少し休んだら『七色キラキラ袋』を捨てに行こうバイ》
(ゲロをアニメ的表現で呼ぶな)
クソ、ちょっと思い出すたびにこれじゃたまんねえな。朝に頭を動かすために軽く食ったバナナと牛乳を全部戻しちまったぜ。
(で、オレはエリート層出身な上に、マジいいトコのお嬢様って設定だったんだな。噴水のある庭とかシャンデリアがぶら下がってるデカい家とかリアルであるもんなのかよ。それに地上は自然いっぱいできれいなもんだなぁ。家がデカいのは人が減って土地も余ってるからか?)
《人が滅亡すれば地球は虫と植物の天下さ。家が大きいのは普通にメチャクチャお金持ちだからだネ。本当のお金持ちっていう上流階級ほどお金なんて腐るほど儲けているよ? そうなるように何代もかけて儲かるシステムを構築し終わっているからのぅ。少なくとも国に税金払ってるうちはポッと出の成金扱いサー》
(ケッ、貧乏人の僻みだが『
《エチケット袋を交換してもういっちょ行く?》
(……なあ、口頭じゃダメなのか? ドラマのストーリーのあらすじを聞くみたいにさ)
この方法なら実体験みたいな感覚は無い代わりに脳への負担は少ないかもしれん。オレは別にこの体が過ごしてきた記憶を回復したいわけじゃねーんだ。口裏合わせに備考程度を思い出せればそれでいいんだからよ。
《それをトリガーにしてとんでもない量を思い出したら吐くじゃすまないゾイ? スーツちゃんが情報をセーブしてるからゲロインで済んでいるノダ》
(ゲロインって……いや、そうか。何が切っ掛けになるか分からんもんな。ありがとうよ)
聞いた直後は平気でも後で思い出して考え込んだ拍子に発狂、って可能性もあるか。不意に昔の黒歴史を思い出して一人で勝手にテンション下がる、なんて話は誰でも一度くらいあるだろう………あるよな? 寝付けない夜とかに嫌なことばっかり思い出したりよ。
《………ウヒョヒョ。低ちゃんはスーツちゃんの大事な
(なんかキモい!)
《キモくねーし!? 愛だよ愛。低ちゃんが何度やり直してもスーツちゃんは付き合う覚悟ナリ》
(そりゃどーも。オレも今さらスーツちゃんがいないんじゃ、一日だってやってけねえよ)
あ゛ー、朝からヒデーめにあった。しゃあねえ、今回はここでお開きだ。朝から吐いてテンション下がっちまったわ。どれ、ボチボチ落ち着いたし口をゆすいでくるか。せっかくのオーブンで焼けるケーキの甘い香りが鼻の奥のゲロの臭いで台無しだぜ。
<放送中>
「朝からケーキの焼ける匂いが漂う家ってすごくない?」
「すごい。玉鍵さんの女子力はどこまで行くんだろう……」
初宮は友人に受け答えしつつも、その目はテーブルに置かれた焼けたばかりのチョコケーキをロックオンして放さない。香り立つ甘い芳香からは、食べ慣れているフードパウダー入りでは決して出せない自然な甘みが鼻腔からさえ感じられるようだった。
元は裕福な学生用として作られた高級寮だったこの家は、驚くべきことに個室すべてにトイレやシャワーを完備している。そのため朝の準備も自室内で完結できるため、今日も通学の準備を済ませた後に部屋を出た二人は、廊下にフワリと漂っているチョコレートの香りに驚いた。
最初は初宮が朝食を作るために起き出し、やや遅れて夏堀も手伝いをすると約束していたので、普段より早い起床時間に目を擦りながらも起きた。
そしてドアを開けたとき一番に感じた甘い香りの正体が、この粗熱を取るために置かれているケーキだった。
「おはよう」
オーブンの横へ移動させていたらしい純木製の高価な椅子を片付けていた玉鍵が挨拶してくる。早く起きていたつもりの二人は、シンプルな水色のエプロンを着込んでケーキが焼けるくらい早朝から起きていた少女に、やや戸惑いながらも挨拶を返した。
「お、おはよう」
「おはよう玉鍵さん、このケーキどうしたの?」
挨拶もそこそこに焼き上がったばかりのケーキの事を聞かれた玉鍵は、整備士たちへ差し入れ用として作ったとごく当たり前のように述べた。
(あの整備士たち、玉鍵さん付きになるってとんでもない幸運だよね…………なんだか無性に腹が立つんですけど?)
焼き上がったケーキはどう見ても素人が作ったとは思えないクオリティ。これまでも整備へ差し入れをしているのは知っている初宮だったが、さすがに手作りケーキはやり過ぎではないかと謎の危機感を持った。
「えーっと、純真な男たちに変な勘違いをさせないようにね。玉鍵さん可愛いんだから」
(そう、それ! マコちゃんナイス!)
女の子側はただの感謝やおすそ分けくらいの気持ちでも、男というのはとかく勘違いを始める生き物である。まして若くて美しい女の子となれば『そうあってほしい』という願望を勝手に信じ込むような男さえいる。
それが男。不潔でダメな生き物だ。初宮はかつて世話をさせられた幼馴染を思い出し、脳内に浮かんだあの男の顔面へグーパンした。
「それにあいつら玉鍵さん付きになったことを周りに自慢してるから軽くシメたほうがいいよ? ううん、むしろ私がシメる……コロス」
「マコちゃんスティ」
これは初宮を始めとした多くの人間の勘違いしている事だが、正確には『玉鍵付きの整備士』などという役職は無い。かの少年整備士たちは書類上あくまで『ブレイガーチーム』に付いている整備グループである。
これまでは乗り手のいないスーパーロボットをフリーのパイロットであった玉鍵が選んでいるため、必然的に彼らも整備士として付いて行っている形だ。ただあまりにも玉鍵の戦果と存在感が大きいため、初宮たちとチームを組んだ後もブレイガーを『玉鍵の乗機』という印象で自然に見てしまっていた。
実際に少年整備士たちは玉鍵が別チームに行けば、それに伴って自分たちも付いていくことになると思い込んでいる状態である。
「…食べるか?」
内心で整備士に苛立ちながらもただ一点を見つめ続けていた初宮に、着慣れたエプロン姿の少女はその優しさを遺憾なく発揮して気を遣った。
「食べる!」
バッと、玉鍵に視線を移した初宮がブンブンと頷く。そんな友人を見てわずかに苦笑した玉鍵は、制服の上から羽織っているエプロンをフワッと翻して包丁を取りに行く。
その姿はまるで甘い青春ドラマに出てくるような、在学中に秘密で結婚した新妻のようで、初宮も夏堀もなぜか頭がクラクラした。
「……お皿、用意しよっか」
せめて何かしていないと玉鍵からずっと目が離せない。ボーッと少女の後姿を見つめ続ける夏堀を促して、初宮も朝食の準備に掛かる。ケーキもあるし、今朝の朝食はいつもより軽めでいいかなと思いながら。
<放送中>
「ここです。お入りください」
2名の屈強な護衛を連れた老人は、顔を隠した身なりの悪い男によって彼には場違いな小汚いプレハブに通された。出来れば使い捨て用に確保している『都市に存在しない車両』の中で話をつけたかったが、先方がどうしても落ち合う場所を譲らなかったため止むを得なかった。
この老人をしても『用があるのは自分側』という弱みをどうしても覆せなかったのである。
「空気の悪いところで失礼。酸素マスクなどご入用でしたら用意します」
壊れた家具がいくつか転がっているだけの手狭な部屋にはそんな用意は見当たらない。身なりの悪い男はおそらく何も用意してはいないだろう。
ただの社交辞令、もしくは皮肉と判断した老人は一度だけ口を結んだあと吐き捨てるように返答した。
「結構だ。呼吸器官のインプラントは最新のものなのでな」
実年齢の上では非常に高齢の老人。しかしその体力は多くの代替え臓器によって50代程度を維持出来ている。代替え臓器の管理の手間や、移植に掛かった肉体的な負担は決して楽なものではないが、機械的な補助なしで自分で動き回ることが出来る体は何物にも代えがたいものだった。
それでも確実に衰えていくのは止められない。特に代替えが不可能なパーツである『脳』は、老人をしてもどうしようもなかった。
―――――ほんの数日前までは。
「無用なやり取りはいらぬ。私があらゆる支援を約束しよう、成功するのなら」
懐から一枚のカードを取り出し、老人は相手と互いを遮る経年劣化し切った樹脂製の机の上に放る。樹脂がボロボロになって毛羽立ったようになった机から、メーカーの説明上混入していないはずの人体に有害な粉塵が舞い、老人は無言で口元を覆った。
彼の呼吸器には吸引方式の毒物なら無効化する高性能のフィルターがあるとはいえ、心理的に気持ちのいいものではなかった。
「承りました」
音も無くカードを拾い上げた男は黒いカードに付着した塵に息を吹きかけ、軽く擦った後で手持ちのカードリーダーに差し込む。老人がそのカードリーダーがどこに繋がっているのかを調べる段階は過ぎている。これ以上調べさせれば男は雲隠れし、報復として敵対している派閥に無用な情報を流されるだけだろう。
「確認しました。これは単なる確認ですが、お身内が亡くなるかもしれませんがよろしいので?」
「聞くまでもない……失礼、部下ではないのだった」
これから手に入る物の価値からすれば、たかが血が繋がっている程度の事実がなんだというのか。用は済んだと顎をしゃくった老人は、軽く頭を振って心の籠らない謝罪をした。人を顎で使い慣れている老人は、つい目の前の男にも普段通りの態度で命じてしまったのだ。
男は何も口にせず、相手に見えることの無い口元を皮肉気に釣り上げる。老人はその見えないはずの口元の動きが見えるようだった。
互いに互いを心の底から軽蔑している。ここでこうして会っているのは利害の一致でしかない。男にとっては商売であり、老人にとっては健康投資のようなもの。男は可能なら利益だけ奪って安全に消えたいし、老人は可能なら要求が達成されたのちにこの男を口封じに殺したかった。
「ではお先に。吉報をお待ちください」
この男の安全は老人によって保障されねばならない。少なくともこの仕事が達成されるまでは。
老人の前を横切る無礼をしようと護衛もまた殴りつけることはしない。だからこそこれ見よがしに優雅に出ていく。こめかみに血が流れるのを感じながら老人は黙って立ち続けた。この場で荒れては有害な埃が舞ってしまう。
この机の素材を売っていたメーカーは、人体に有害な物質が混入した安物を『新素材』と称して使っていた。金銭と票獲得の見返りとして、このメーカーの安全基準査定のいくつかに目隠しをしたのが他ならぬ老人である。この埃がいかに危険なものかは知っていた。
無論、そんな遠い昔の話、今も昔も何の罪悪感も無いが。そして今の彼の関心ごとはひとつだけである。
(どんな物質も作れる装置。あれは生物の完全な臓器まで再現できるという。私の――――脳も)
脳とは記憶の集積回路。ただし、まったく同じDNAで作られた脳でも作り立ての新品では代替えに出来ない。それではただの大人の記憶を流し込まれた赤ん坊。
これまでの数々の実験でこの方法では人格移植は不能であると結論されている。ほとんどは流し込まれた情報に対して脳のシナプス構築が間に合わず脳死するか、発狂するか、それに耐え切ったとしてもごく短命なまったくの別人になるかだった。
正確な人格移植のためには脳自体がある程度まったく同じ月日を重ね、まったく同じにシナプスを構築した完全なコピー脳が必要なのだ。
それを可能にする装置が発表されたとき、世界中の多くの権力者が動いた。これこそまさに自身を死から遠ざける不老不死を可能とする装置であったのだから当然だろう。
(私は生きねばならぬ。この国のために)
老人は、自分こそがこの国を導いている人間だという自負があった。どれだけ汚いことをしようとも、それが国の運営に必要なやむを得ない事だと信じていた。
少々の国民ごときを何人殺そうが、何人の人生を狂わせようが、この国の存続のためなら許される。老人は生者が呼吸するかのように、当たり前の事としてそう信じ切っている。
もしも、もしも利害の無い第三者がこの老人と取り巻きたちを見たのなら、その誰かは確実にこう断じるだろう。
――――――狂っている、と。
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