五、共用トイレにて
記者会見の後、リアムルはカピバラ警部補が率いる数名の警察官と一緒に応接室に戻った。
クリスラは「後片づけがまだ済んでいない」と言って、部下に作業指示を出すために大広間に残った。
蚊柱放火は記者会見の最中は会場に出たり入ったりしていたが、いつの間にか姿が見えなくなった。探偵だからきっと、関係者に聞き込みでもしているのだろう。
次男坊はソファに腰かける。顔を上げると、げっ歯類が腕組みをしながら思案顔で壁際に立っていた。一見すると事件のことを考えているようだが、実際には何も考えていないのだろう。
部屋のドアが開き、新米刑事が入ってきた。若者は現場責任者に敬礼をすると元気に報告する。
「指示された通り、今回の密室レイプ事件について検死官に電話で相談してきました」
「うむ。それで何と言っていたかね?」
「『本件には死人はいねーだろ』とのことです。他には『こんな夜更けにそんなしょーもないことでいちいち電話をかけてくるんじゃねえ。ボケェ!』とも言っていました」
時刻はすでに午前三時を回っていた。検死官はきっと熟睡していたところを叩き起こされたのだろう。死体もないのに事件の相談を受けた専門家が気の毒すぎた。
大ネズミは深く溜め息をつくと「……やはりそうか」と呟く。彼が下がるように言うと新米刑事は再び敬礼をして部屋から出て行った。
傴僂は口をモゴモゴとさせながらまた物思いに耽る。今度は口を動かしているので、心のなかで思っていることが美少年にも読めてしまう。
(ワシも本件には死体はないと思うとったのじゃ。だって、密室レイプ事件だし、誰も死んどらんからな。でも、ちょっとぐらいはヒントになるのではないかなあと思って検死官に電話をかけたのじゃよ。その辺りの空気を読んで欲しかったなあ。『本件には死人はいねーだろ』では事件解決のために何の足しにもならないじゃないか。それに、『そんなしょーもないこと』とは何ごとじゃ。それではまるでしょーもない事件があるようではないか。たとえ、ホモによる痴漢犯罪であっても男性被害者にとっては重大事件なのじゃぞ。警察官たる者がそんな心構えでどうする。死体があってもなくても事件被害者の思いに応えるのが検死官というものじゃろが。最近の若いヤツらはその辺りのことがよく分かっていないようなのじゃよな。何でもかんでも一から十まで説明してやらないと理解しないのじゃよ。もうちょっと想像力を働かせて仕事をして欲しいものじゃな)
童貞はそれを見ながら「居もしない死人について検死官に相談するくらいなら、僕の心の声にもっと耳を傾けて欲しいなあ」と思った。
しかし、カピバラ警部補はそんな被害者の思いとは裏腹に「ちょっとトイレ」と言うと他のお巡りさんを残して退室してしまった。
少し間を空けてから、リアムルも離席するとげっ歯類の後を追った。
応接室を出て廊下を少し歩くと、共用トイレがある。
ブルーグレーに統一された男性用トイレは一〇畳ほどの広さがあり、入り口を入った右手側に手洗い場がある。その奥は右手側の壁に沿って小便器が並んでおり、左手側には大便器を備えた個室が並んでいる。
トイレ業者であれば、「広々とした空間で快適なひとときを。あなたのプライバシーに配慮したくつろぎの場」というポエムを書くだろう。
美少年がなかに入ると小用を終えた現場責任者がちょうど手を洗っているところだった。
そのまま、大ネズミは手を洗ったまま、大鏡を覗き込むと目と口を大きく開いて犬歯を剥き出しにした鬼の形相で静止する。
次男坊が思わず問いかけた。
「何をしているのですか?」
傴僂は被害者に気づくと表情を変えずに答えた。
「『我が子を食らうサトゥルヌス』の顔真似じゃよ。どうじゃ、似ておるかのう?」
童貞はカピバラ警部補に話したいことがあったのでとりあえず肯定形で返事する。
「はい、とてもよく似ていますよ」
「ムンクの『叫び』と間違われないじゃろか?」
「大丈夫です。誰が見てもサトゥルヌスです」
サトゥルヌスはローマ神話に登場する農耕神であり、ギリシャ神話のクロノスと同一視される。彼は「お前は自分の子どもの一人に殺されるだろう」という予言を恐れて我が子が生まれる度に食べ殺したと伝えられている。
画家フランシスコ・デ・ゴヤはギリシャ・ローマ神話のこの一節をモチーフにして名画『我が子を食らうサトゥルヌス』を作ったのだった。
絵のなかのサトゥルヌスは狂った老人として描かれているが、死に怯え、生に執着しつつ、必死に赤ん坊を貪り喰らう姿はどことなくコミカルであり、一度、見ると忘れられない表情をしていた。
げっ歯類はその顔を物真似していたのだった。
現場責任者はリアムルの回答を聞いて気分をよくする。いつもの表情に戻った。
「そうかそうか、それはよかった。『地獄への道は善意で敷き詰められている』というがな、トイレへの道はカーペットが敷き詰めてあるものじゃ。トイレにはサトゥルヌスがよく似合うよな。
……実はな、週末にある、忘年会で余興を披露しなくてはならないのじゃ。それで、隙間の時間を利用して宴会芸を秘かに練習しておったのじゃよ。他には一人膝カックンも披露しようと思うとるのじゃがの。見てくれるかのう?」
美少年はうっかり問い返してしまう。
「一人膝カックン? 何ですか、それは?」
すると、大ネズミは真っ直ぐに立つとやおら左足をくの字に曲げて左足首で右膝裏を叩いた。右膝がカックンと折れ曲がる。傴僂は思わずよろめいてたたらを踏むが、何とか体勢を立て直した。
カピバラ警部補が説明する。
「膝カックンという悪戯があるじゃろ。他人の膝裏に衝撃を与えることで膝折れを狙うヤツじゃ。あれをな、一人でやろうというのが一人膝カックンじゃ。ここはトイレじゃから、床には転ばないがの、本番ではちゃんと転倒するつもりなのじゃよ」
「……」
次男坊はそれよりも本題に入るために早く話を切り替えたかった。しかし、被害者が口を開くよりも先に、げっ歯類が言葉を続けてしまう。
「後は第二次世界大戦の物真似もしようと思うとる」
童貞はまたしても聞き返してしまう。
「第二次世界大戦の物真似? 何ですか、それは?」
すると、現場責任者は口を尖らせると身振り手振りを交えながら物真似を始めた。
「ドギューン、ドギューン、ドッドド、ドッドド、ズギューン、ズギューン、ドドド、ドドド、ドガガ、ドガガ、ズギューン、ズギューン。
うわーっ、来たぞーっ、やれーっ! ガガガ、ガガガ、ドッドド、ドッドド、ドガーン、ドガーン、ヒューンドガーン、ヒューンドガーン。
ままままー、ままままー、ままままー、ままままー、ままままー。
やれーっ、突撃だーっ! ズギューン、ズギューン、ガッガガ、ガッガガ、ドドーン、ドドーン、パガーン、パガーン、ゴゴゴ、ゴゴゴ。
やられたーっ! 逃げろーっ! ズガーン、ズガーン、ドゴゴ、ドゴゴ、ドッドド、ドッドド、ダダダ、ダダダ。
ダガーン、ダガーン、ヒューッドーン、ヒューッドーン。
ままままー、ままままー 。
突撃だーっ! うわーっ! ドッドド、ドッドド、ガガガ、ガガガ、ガゴーン、ガゴーン、ビューン、ビューン、ドゴーン、ドゴーン。
ガガガ、ガガガ、ズダーン、ズダーン、ブーン、ブーン、ブーンドガーン、ブーンドガーン、ドゴゴ、ドゴゴ、タッタタ、タッタタ、ズギューン、ズギューン、ズザザーッ、ズザザーッ」
そこには虚無しかなかった。それは第二次世界大戦における、とある戦場の様子を物真似したものらしかったが、リアムルは「僕は一体、何を見せられているのだろか?」と思った。しかし、気になったことを聞いてしまう。
「途中の『ままままー』というのは何ですか?」
そのくだりだけが他と抑揚が違ったのだ。
大ネズミは事もなげに答える。
「アメリカのミュージシャン、レディー・ガガの『ポーカー・フェイス』じゃよ。余興の際のBGMに使おうと思うておってな。それで間に挿入したのじゃ。
『テレフォン』とどちらにするかで迷ったのじゃがな、『ポーカー・フェイス』に決めたのじゃ。ちなみに、もしも、『テレフォン』を選んでいたとしたら、『てててててててててて』になっておったじゃろな」
「第二次世界大戦の物真似なのに、なぜ、レディー・ガガなのですか?」
「ガガが好きだからじゃよ。そんなことも分からんのか?」
傴僂はヤレヤレといった風に肩をすくめるが、正直、分からなかった。「世の中には分からないことがたくさんあるなあ」と美少年は思った。
カピバラ警部補が言葉を続ける。
「後はバイオハザードシリーズに出てくるゾンビの物真似もしようと思うておるのじゃがのう。ワシに似合うかのう?」
「ええ、ええ。見なくても分かりますよ。とてもよくお似合いです」
次男坊は早く本題に入りたかったのでテキトーに相槌を打つ。しかし、被害者が「実は折り入って話があります」と言って口火を切ろうとするとげっ歯類はそれを遮り、自分語りを始めてしまう。
「リアムルくんは優しい子じゃな。君が優しい子だということはワシにはよーく分かる。しかし、今回の件は災難じゃったな。『落ちつけとはケツを落ちつかせることだ』というじゃろ。まずは落ちつくことじゃな。人生はな、思わぬ災難が降りかかることがあるものじゃ。そう、思い返せば、大学生の頃のワシもそうじゃった……」
現場責任者は遠い目をすると言葉を紡いだ。
「あれはワシが大学三回生のときじゃった。ある朝、下宿のトイレで大きなウンコをしたのじゃ。そしたらな、大便が真っ赤な血で濡れていたのじゃよ。ワシはそれを目撃すると血の気が引いてな、逆に真っ青になってしまったな。『何か恐ろしい病気にでも罹患したのではないか』と思って体が震えたよ。
ワシは急いで大学の保健室に行ったのじゃ。もしかしたら、病院に行った方がよかったかも知れんがな、何分、学生じゃったからな、『お金がもったいない』と思うてしまってな、無料で診察を受けられる保健室に行ったのじゃ。
朝、早かったから、保健室にはワシの他には患者はいなかった。ワシはな、病名に怯えながらも年増の看護婦に涙目で症状を訴えたよ。そしたらな、看護婦は何と言ったと思う? 彼女は冷ややかな目で『最近、海外に行かれたことはありますか?』と聞くのじゃ。ワシが『ないです』と答えると『それでは赤痢でなければ、切れ痔ですね』と平然と言うのじゃ。そこでワシは初めて己が痔ろうだということに気づいたよ。ワシの肛門はな、大きなウンコをしたせいで破れてしまったのじゃな」
「そうですか」育ちがよいのでついつい相槌を打ってしまう。
「しかし、それにしてもな、お尻から血が出ると赤痢か切れ痔の二択しかないというのは恐ろしい話じゃな。ワシはその後、羞恥で顔を真っ赤にしながら小走りで下宿に帰ったよ。あの看護婦の冷たい目は今でも忘れられんな」
「なるほど」
「インターネットを見ているとな、『初潮を迎えた少女はきっとパニックに陥るに違いない』と思うとるオッサンがたくさんいるじゃろ。ワシはな、彼らの気持ちがよーく分かるのじゃ。ワシもな、切れ痔でウンコが血まみれになったのを発見したときはパニックになったからな。他のオッサンもきっと同じ経験をしたのじゃ。男はな、人生に一度は大きなウンコをひり出したせいで痔ろうになり、血まみれの大便を前に怯えるものなのじゃよ。そして、冷たい目をした看護婦に『切れ痔ですね』と言われて赤面するのじゃよ。じゃからな、『初めて生理が来た少女もきっと同じ気持ちになるに違いない』とオッサンは思うてしまうのじゃな。リアムルくんも分かるかね?」
「すみません。あまり詳しくないので、そんなインターネットは知りません」
「うむ、そうかそうか。要するに、ワシが言いたいことはだな、『女の子の日はバファリン、男の子の日はボラギノール』ということなのじゃよ。どちらも穴から血が出ることに違いはないからな。それだけを覚えておいてくれればいいのじゃ。
リアムルくんも今回の事件では色々あったみたいじゃけどな、ワシのお尻は最初から傷物なのじゃよ」
「……」
童貞は「鼻血も穴から血が出ますよね」と思ったが、発言すると話がややこしくなるので黙っておいた。
大ネズミはどうやら被害者を慰めようとしているらしかった。
美少年は傴僂の話を聞いている内に己が何を言いたかったのかを忘れてしまった。しかし、しばらく思案すると思い出した。
「ええっと……実は折り入って頼みがあります。詳細はまだ言えませんが、真犯人が分かったのです!」
「な、何だってーっ! どうしてそれを早く言わないのじゃ。第二次世界大戦の物真似なぞ、やっとる暇ではないではないか!」
次男坊はジト目でげっ歯類を睨む。「あなたが邪魔をするから言い出せなかったのでしょう。それに、物真似や痔ろうの話をしたのはあなたでしょうが」と言い返したかったが、話がまた脱線すると困るのでじっと耐えた。
現場責任者が問いかけた。
「それで、ワシはどうすればよいのじゃ?」
「僕はこの事件を戒めるためにも準備が必要です。だから、僕が用意をしている間に、カピバラ警部補は事件当時、館内にいた人をすべて食堂に呼び集めて欲しいのです」
「うむ、分かった!」
大ネズミが力強くそう応えると勢いよく水が流れる音がして、個室トイレのドアが開いた。
二人が振り向くとお腹に手を当てた蚊柱放火が土色の顔でよろめきながらなかから出てきた。
迷探偵はお腹を下していたのだ。
童貞は「みんな、たくさん食べすぎてお腹を壊せばいいんだ」と言って蟄居部屋で願を掛けたが、多浪生だけが見事に被害に遭ったのだ。
記者会見の最中に、ナルシストが大広間を出たり入ったりしていたのは関係者に聞き込みをするためではなくてトイレに行くためだったのだ。
二人が「こいつは大丈夫か?」という顔で見ていると蚊柱放火は震える声で気丈にも言い放った。
「リアムルくんの言う通りだ! みなさんを食堂に呼び集めてください。俺も真犯人が誰なのかが分かりましたよ!」
しかし、その発言はどことなく被害者に対抗して虚勢を張っているだけのようにも聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます