二、応接室にて

 一階の応接室は二〇畳ほどの広さがあった。扉を開けてなかに入ると、正面が大きな窓となっており、海景を眺めることができる。部屋の中央にはカーペット敷きの床にローテーブルとソファが置いてある。来客にお茶を入れられるように、小さな冷蔵庫やポット、コーヒーセットも隅に備えていた。

 不動産業者であれば、「広さ二〇畳という格式。相模湾を望む眺望。心憎いまでのおもてなし――」というポエムを書くだろう。

 普段は家長とそのお客さまぐらいしか使わないが、今日は家令をはじめとする執事と警察官がそれぞれ数名ずつ室内にいた。

 十三月兄弟は入室するとクリスラが上座、リアムルはその左隣に着席した。

 美青年はさすがに朝食時とは違い、外部者と会うために服を着ている。上は弟と同じく白のオーダーメイドシャツだが、下はベージュのズボンを穿いていた。

 慣れた様子で来客を待つ十三月家当主代行とは異なり、美少年はちょこんとソファに腰かける。思春期を迎えたばかりの童貞によくあるように人見知りする性格なのだ。見知らぬ人の前ではあまり己を出さずに大人しくしていた。

 間もなく、警察の現場責任者がやってきた。二人が立ち上がり、名刺交換をすると名刺には「警視庁刑事部捜査第一課 カピバラ警部補」と書いてあった。

 カピバラ警部補は名前の通り、毛深いげっ歯類によく似た傴僂の四十路男だ。身長は一六〇センチメートルもない。東京の警察官だが、怪姦!我慢汁男優を長年、追ってきた功績を買われて名家、十三月家のために、政府がわざわざ熱海まで派遣したのだった。

 彼はクリスラの向かいに着席するとしきりに手をこすり合わせながら、あたふたと喋り始める。性格もまるでネズミのようだった。

「この度は災難でしたなあ。まさか例の強姦魔に御次男が狙われるとは……。しかし、心配は御無用です。政府の協力を仰ぎ、館には多数の精鋭を配備しました。これでネズミ一匹、逃さないでしょう」

 目の前にいるげっ歯類が「ネズミ一匹、逃さない」と言うのは悪いジョークでしかない。しかし、邸宅には捜査第一課特殊犯捜査係(SIT)や特殊急襲部隊(SAT)、警視庁警備部警備課(SP)も警護にあたっており、確かに、犯人がつけ入る隙はないように思われた。

 兄が謝意を述べる。

「管轄でもないのにわざわざすみません」

「いえいえ。ワシが生まれた関西では東京近郊は東京みたいなものです。ワシも学生の頃は『東京に遊びに行ってくる!』と両親に言って出かけては新幹線の新横浜駅でよく下車していました。警視庁の者が熱海で警護していても関西人にはバレません。黙っていれば、誰も違和感を抱きません。何も問題はありませんよ」

 童貞が「いや、関西人でも違和感しかないだろ」と心のなかで突っ込むとそれを知ってか知らずか、現場責任者が話を変えた。

「それでは本題に入りましょう。ヤツから、犯行予告が送られてきたとのことですが、まずはそれを見せてもらいましょうか」

 十三月家当主代行が指示するとセバスチャンが懐から封筒を取り出す。美青年が申し訳なさそうに言葉を足した。

「すみません。私が目を通した際に怒りのあまり素手でグチャグチャに丸めた後、紙の皺を伸ばすために、何度も平手でさすってしまいました。そのせいで、調べても私の指紋しか出てこないかも知れません。犯人につながる唯一の手がかりだというのに本当に申し訳ありませんでした!」

 白手袋をはめた大ネズミが封筒を受け取ると中身を一読した。

「いやいや。こんな手紙を受け取ったら、怒るのも無理はないことです。思わず手でもみくちゃにしてしまうのも仕方がありませんな。……なるほど、確かに、これは怪姦!我慢汁男優からの犯行予告文です。ワシは若い頃からヤツの犯罪捜査にあたっているので間違いはないでしょう。しかし、万が一ということもあります。模倣犯の可能性も頭に入れておくべきでしょうな。どちらにしても、手紙に指紋を残すようなヘマを、犯人がやらかすとは思われませんが……念のため、鑑識には回しておきます。ですが、御当主代行の指紋しか検出されなかったからといって責任を感じることはありませんよ」

 傴僂は封筒と手紙を証拠品袋に入れると後ろで起立していた警察官に手渡して「鑑識課へ回すように」と指示する。向き直ると再び口を開いた。

「ところで、御次男が襲われるような心当たりは何かありますか?」

「いいえ、何も……」

 クリスラが首を振る。カピバラ警部補も思案顔だ。

「本件はあまりにも謎が多い。あの強姦魔が男を狙う基準にはまるで規則性がないのが常でしたが、それにしても、なぜ、ここへ来て初めて未成年を襲うつもりになったのかがさっぱり分からない。これがまず第一の謎ですな。第二の謎は犯行日がクリスマス・イブだということです。聖夜は日本ではセックスをする日になっていますが、本来はキリストの誕生日です。一二月二四日に赤ちゃんが生まれるためには、性交日はその十月十日前でなくてはなりません」

「ほう……。それでは犯行日は二月中旬でないとおかしいということですか?」

「そうです、その通りです。二月中旬にはバレンタインデーがあります。想いを伝える日に恋愛が成就したら、そのままセックスをするのが人の性です。キリスト教は本来、バレンタインデーに告白すると同時に妊娠をしてクリスマス・イブに出産をするものなのです」

 げっ歯類が腕組みをしてウンウンと頷く。

 リアムルは「いや、そんなキリスト教はないだろ。というか、二月中旬に犯行日がある方が変だろ」と思うが、話の腰を折らないように大人しく静観する。

 現場責任者がポンと手を打った。

「そこでです。これらの謎を解くためにも本件では特別に名探偵について来てもらいました。紹介しましょう。蚊柱放火くんです」

 名前を呼ばれて、壁際に立っていた私服姿の若者が前へ進み出た。名探偵はそのまま大ネズミの隣、美少年の向かいの席に座った。

 蚊柱放火はシャーロック・ホームズのように鹿撃ち帽をかぶり、ケープコートを羽織っていた。どちらもブラウンを基調としたチェック柄だ。彼は傴僂が入室した際に一緒に入ってきた男だった。他の人はみんな警察服なのに一人だけ私服なので、てっきり私服警察なのかと思っていたが、実は探偵だったのだ。

 カピバラ警部補が力強く言う。

「彼はまだ学生ですが、とても優秀なヤングマンです。それに蚊柱家も十三月家と同じように日本を代表する名家です。きっと皆さんの力になってくれるでしょう。さあ、蚊柱くんも挨拶しなさい」

 名探偵は帽子を脱ぐと頭を下げた。

 蚊柱放火はウェーブパーマをあてた髪を茶色く染めていた。彫りが深いソース顔をしており、目鼻は整っているのだが、傍から見ても自己愛に溢れた表情をしていた。

 名家といわれて発奮したのか、ナルシストが開口一番、大声で叫んだ。

「蚊柱家の来歴を知っているか!?」

「?」

 兄弟は顔を見合わすと「知らない」といった風に顔を振った。名探偵はそれを見て取るとさらに声を張り上げた。二人よりも年上だからか、タメ口だった。

「蚊柱家の歴史は明治八年の平民苗字必称義務令にまで遡る!」

 平民苗字必称義務令は一八七五年に公布された、すべての国民に苗字を名乗ることを義務づけた法令だ。

 次男坊はそれを聞くと「あ、わりと最近なんだ」と思わず呟く。無理もないのだ。奈良時代より前から続く十三月家の歴史と比べたら、明治時代などはごく最近の出来事なのだ。

 しかし、蚊柱放火はツッコミを無視して話を続ける。

「五世の祖は役所からの帰りに畦道を歩いていて蚊柱を見つけたのだ。そうやって名づけられたのが蚊柱家の由来だ。ちなみに、父は蚊柱蛙之餌食という」

 美青年が能面のような顔で相槌を打つ。

「なるほど。『蚊柱は蛙の餌にするとおいしそう』という意味ですね」

「そうだ。そして、父もまた近所の電柱に群がる蚊柱を見ている内に『火をつけるとよく燃えそうだな』と思ったのだ。だから、俺の名前は蚊柱放火だ」

 名探偵は髪を掻き上げると名刺を差し出す。

「いかんいかん。俺としたことが、蚊柱家のことをいわれたせいでつい熱くなってしまった。許してくれたまえ。少し自慢しただけだ」

 兄弟は「こいつはアホだ」と思いながらも表情を変えずに名刺交換をする。しかし、名刺には「東京大学教養学部一年生 蚊柱放火」と書いてあった。

 十三月家当主代行は目を見開くとお世辞を言う。

「ほう、東大生ですか。これはこれは優秀な頭脳をしておられる」

 ナルシストは前髪を軽く指で弾くとフフッと鼻で笑った。

「そうだ。来春からは東京大学の一年生だ」

「はい?」

「今は二年目の浪人生だ」

 得意顔の名探偵を横目で見ながら、童貞は「学生ではなくて無職だろ」と心のなかで突っ込むが、やはり顔には出さない。

 人は頭がおかしくなるくらいお勉強をすると頭がおかしくなるのだ。蚊柱放火が浪人生なのに自信満々な態度でいるのもきっとお勉強のしすぎで頭がおかしくなったからだろう。

 学校の先生はしばしば「勉強のしすぎで死んだ人はいない。だから、もっと勉強しろ」と言うが、お勉強のしすぎで発狂した人はたくさんいるのだ。例えば、マックス・ヴェーバーやジョン・ステュアート・ミルといった大学者もそうやって気が狂ったのだ。お勉強のしすぎで発狂するなんて、頭がおかしいのだ!

 ナルシストが言葉を続ける。

「まあ、俺の頭脳をもってすれば、合格は保証されたようなものだ。それよりも、今日はたまたま警視庁に遊びに行ったら、大変、興味深い事件の話を聞きましてね。こうして無理を言って連れてきてもらったわけですよ」

 リアムルは「合格が保証されていないから、二浪もしているのだろが。受験生は家で勉強してろよ」と心のなかで毒づくが、やはり邪魔にならないように黙っている。

 げっ歯類が多浪生のセリフを補足した。

「蚊柱くんは警視庁長官のお孫さんでもあるのじゃ。それで、警視庁にもよく遊びにこられるのじゃ。まあ、名探偵の頭脳をもってすれば、受験勉強は問題ないじゃろう。彼も怪姦!我慢汁男優のことは大いに興味があるようだし、勉強の息抜きがてらについてきてもらったのじゃよ」

 クリスラが冷ややかな目で尋ねる。

「それで、放火さんは名探偵ということでしたが、具体的にはどのような実績がおありなのですかな?」

 ナルシストが鼻で笑った。

「ふっ、聞いて驚け。天下の名刀、おっとり刀殺人事件を知っているよな」

「ええ、知っています。インターネットで有名だったネット右翼の中年男が自宅の自室で殺害された事件ですよね。凶器は見つかっていませんが、傷口の様子からおっとり刀による犯行だと考えられています。確か、被害者は小学生の頃からの引きこもりであって、お友だちもおらず、自殺をする勇気もないことから、両親の犯行が疑われましたが、結局は犯人が分からないままの未解決事件だったはずです」

「その通りだ。そして、その事件の犯人が両親ではないことを推理したのはこの俺だ」

「えっ!」

 十三月家当主代行が驚きの声を上げると多浪生は推理のあらましを語った。

「なあに、そんなことは簡単な話だ。もしも、仮に、両親が犯人であれば、お巡りさんがとっくの昔に逮捕しているはずだ。しかし、父母のどちらも捕まっていない。つまりは彼らは犯人ではないということだ。どうだ、完璧な推理だろが」

 ドヤ顔の蚊柱放火を、現場責任者が大絶賛する。

「おぉおお! さすがは名探偵じゃ。そのような推理は思いもつかなかったわい!」

 美少年は恐る恐る質問した。

「それで……おっとり刀殺人事件の犯人は結局、誰だったの?」

 ナルシストが一喝した。

「犯人が分からないから、未解決事件なんだろがぁああ! そんなことも分からんのかぁああ! この馬鹿タレがぁああ! まったく、馬鹿にタレがついとるわい!」

 馬鹿に「馬鹿!」と言われるともの凄くムカつくのだ。しかも、馬鹿もただの馬鹿ではない、馬鹿にタレがついた馬鹿タレだ。次男坊は涙目で唇を噛むとぐっとこらえた。

 多浪生がさらに実績を披露する。

「他には、生きて腸まで届く乳酸菌殺人事件の被害者が実は死んでいないことを推理したのもこの俺だ。また、オトイレ急行殺人事件の被害者がどうしておトイレに急行したのかを推理したのも俺だ。後は、例えば、『ウエルシュ菌が検出された集団食中毒事件について、保健所は原因を調査中です』というテレビニュースが流れたら、すかさず保健所に電話をかけて『原因はウェルシュ菌だ』と教えているのも俺だな。どうだ、恐れ入ったか」

 童貞はケチをつけた。

「どれもこれも陵辱事件じゃないじゃないか。今回の犯人は強姦魔だけど、性犯罪者の相手はしたことがないのでしょ。それなのに、どうしてそんなに自信満々なんだよ」

 迷探偵がフンと鼻を鳴らす。

「自信はな、根拠なく持つものだ。本当は実績などはいらないのだ。それとも、お前は何か? 何十年も実績を積んで達人にでもなるのを待ってから自信を持つつもりか? 気の長げェ話だな」

 「それともお前、何十年も修業して達人にでもなるのを待ってから戦場にでるつもりか? 気の長げェ話だな」は三浦建太郎・作の『ベルセルク』に出てくる言葉だ。これを真に受けて、リアルでもこういうことを言う人はさっさと戦場にでも行って死ねばいいのだ。

 しかし、大ネズミは「おお、まったくもってその通りじゃ!」と相変わらず激賞する。

 美青年が乾いた笑い声を立てた。

「はっはっはっ。これは愉快な人だ」

 口は笑っているが、目は笑っていない。柔和な微笑を浮かべていた先ほどまでとは異なり、猛禽類のように双眸が輝いている。心なしか髪の毛も逆立っていた。

 リアムルはそれを見てビクリと身をこわばらせる。「十三月家の血だ」と思った。

 十三月家は決して青い血だけで伸し上がったのではない。歴代の当主は非情、かつ、冷徹な判断力と実行力をもってライバルを葬り去ってきたのだ。それが表れるときは顔つきが変わる。現当主代行にしてもまた、黒ブリーフ一丁で邸宅内をうろつくだけのただの変態ではないのだった。

 肉食獣のような兄と比べると弟はまるで子鹿のようだった。

 クリスラが言葉を続ける。

「いいでしょう。『枯れ木も山の賑わい』といいます。それほどまでに優秀な方が屋敷にいれば、こちらも千人力です。警護に参加することを許可しましょう」

 さり気なく皮肉を言われたが、蚊柱放火はまったく動じない。一方、美少年は十三月家当主代行の無慈悲な仕打ちを見ずに済んで、ほうっと安堵の溜め息をついた。

 そんな次男坊に、傴僂が声をかける。

「リアムルくんはどうだね? 名探偵が警備に参加しても構わないのじゃろか?」

 童貞は急に話しかけられたのでどぎまぎしながら小声で回答する。

「はい。僕も犯人を早く逮捕したいので、協力していただけるとありがたいです」

 カピバラ警部補はその答えに満足そうに頷いた。

 美青年が話を変える。

「それでは具体的な警護計画について話をしましょう。と言っても、大枠はすでに決めてあるのです。この邸宅の二階には実は堅固な蟄居部屋があります。そこは格子をはめた窓があり、厳重に鍵をかけられる重厚な扉もあります。壁にも鉄板を仕込んであるため、決して他所から侵入することはできません。怪姦!我慢汁男優は犯行予告日時さえやりすごせば問題ないはずです。そこで、弟には今からその蟄居部屋ですごしてもらおうと思います」

 げっ歯類がフムフムと頷く。

「なるほど。リアムルくんはボディーガードと一緒に夜をすごすわけじゃな」

「いえ。もしかしたら、強姦魔が警護の者に変装しているかも知れません。そのため、弟には独りで部屋に入ってもらおうと思います」

「確かに、犯人が変装している可能性もありますな!」

「念のため、蟄居部屋には防犯カメラも設置してあります。防犯カメラというぐらいですから、きっとカメラが犯罪を防止してくれるに違いありません。さらに、万一に備えての切り札もあります」

 そう言うと、兄はポケットから缶バッヂを一つ取り出してテーブルに置いた。

 現場責任者が驚愕する。

「こ、これは電車内痴漢に悩む男子高校生がクラウドファンディングを立ち上げて作ったといわれる痴漢防止バッヂではないか! 確か、痴漢に限らず、あらゆる変質者にも絶大な効果を上げるため、大好評につき売り切れ御免だったはずじゃ! どうして、それがここにあるのじゃ!」

「ええ、そうです。本来であれば入手不可能な一品ですが、これは十三月家の財力をもってクラウドファンディングに参加した結果、お返しとして一つだけ入手することができました。

 性犯罪者は被害者を事前に探して目星をつけておくといいます。痴漢防止バッヂはそのような性犯罪者の習性を逆手に取ったものであり、効果も証明されています。

 また、短文投稿サイトTwitterで一八万人超のフォロワー数を誇る、アルファツイッタラーのたらればさんも警視庁のマスコットキャラクター、ピーポくんのキーホルダーを痴漢防止のためにつけていた学生時代の友人は一度も痴漢に遭っていないと言っています。

 ピーポくんキーホルダーでさえ、それほどの効果があるのですから、この痴漢防止バッヂの御利益はいうまでもありません。

 そこで、このバッヂをリアムルに渡そうと思います」

 大ネズミは感心して、何度も「なるほど、なるほど」と言って首肯を繰り返すが、迷探偵は疑問を口にした。

「しかし、リアムルくんが蟄居部屋に宿泊すると彼の自室には誰もいないことになる。そうなると、強姦魔も『これはおかしいぞ』と思って蟄居部屋に隠したことに気づくのではないですか?」

「ええ、その通りです。だから、弟の部屋には私が身代りに泊まろうと思います」

 傴僂と多浪生が目を丸くする。

「ああ、何ということだ! それではあなたが代わりに狙われてしまうではありませんか!」

 美少年も髪を振り乱して思わず叫ぶ。

「それはあんまりな決断です! 僕のために、兄さまがそんな危険に身をさらす必要はありません! それは僕が耐えられません!」

 クリスラが頭を振った。

「いやいや、兄たる者は弟の危険に際しては身を挺して守らねばならぬのだ。私も愛するリアムルのためにこの身を犠牲に捧げようではないか。もしも、犯人が間違って私を襲ったとしても、それで弟が助かるのであれば、私も決して後悔はないのだ」

 一同が感心する。

「さすがは当主代行だけあって、素晴らしい決断力だ!」

 永世七冠を達成した将棋棋士、羽生善治は「将棋を指す際に、一番の決め手となるものは決断力だ」という。対局は決断の連続であり、決断力が勝負を決するのだ。決断をするときのよりどころは己のなかにある。だから、決断には己の本質が出る。リスクを負って決断する人がいないと社会も企業も現状打破はできないのだ。

 美青年は若干一八歳で十三月グループ総帥代行をも務めるだけあって優れた決断力の持ち主なのだった。

 クリスラも褒められてまんざらでもない気分だった。

 十三月家当主代行の意志があまりにも固かったため、童貞は蟄居部屋に隠して、兄は次男坊の自室で宿泊することに決まった。

 四人は立ち上がる。

 美青年が執事の一人に向かって「おい、ヤス」と声をかけた。ヤスと呼ばれた強面の黒服が返事をすると「準備はどうだ?」と質問する。ヤスが「準備万端です」と応えた。

 その瞬間、ナルシストの目がキラリと光る。

「ヤスだと……」

 そんな蚊柱放火のことは気にも留めずに、クリスラはリアムルを振り返ると心配そうなその顔を優しく撫でた。そして、励ましの言葉をかける。

「『チェリーボーイのペニスを見ると目が潰れる』というだろ。犯行予告日時さえやりすごせばいいのだ。何も心配はいらないよ」

 美少年は「兄さま……」と呟くと十三月家当主代行の言葉に安心した。

 間もなく、美青年は家令を連れて部屋から出て行った。

 次男坊が周りを見回すと迷探偵が警察官と何かを話し込む一方で、カピバラ警部補は窓辺にたたずんでいた。そのまま、げっ歯類は冬の海を眺めたまま、左足を一歩、後ろに下げてアキレス腱を伸ばすと同時に右膝に体重をかける。そして、グッと胸を張り、両手を斜め下、四五度の方向にまっすぐ伸ばした。

 童貞は現場責任者に近寄ると不思議そうな顔で質問する。

「何をやっているのですか?」

「組み体操じゃな。一人グライダー」

 リアムルは「声をかけない方がよかったかな」と後悔するが、大ネズミは逃げる隙を与えずに語り始めた。

「ワシはな、なぜ、運動会で組み体操をするのかが小学生の頃から不思議で仕方がなかったのじゃ。『組み体操の目的は団結力や感動にある』とよくいわれるが、何か隠された真の目的があるんじゃないかと秘かに睨んでおったのじゃ。そしたらな、その謎がこの年齢になってからようやく解けたのじゃよ。みんな、体が凝ると伸びをするじゃろ。そういうときにほら、こうして手先をピーンと伸ばすだけで組み体操に早変わりじゃ。学校の先生はな、みんなが歳を取ったときにお洒落に柔軟体操ができるように組み体操を教えてくださったのじゃな」

「……そうですか」育ちがよいのでついつい相槌を打ってしまう。

 傴僂は目を閉じるとさらに話を続けた。

「『人生は紙飛行機だ』というじゃろ。紙飛行機はな、みんなの願いを乗せて風のなかを力の限り飛んで行くのじゃ。どれだけ飛んだのかは問題ではない。大切なのはどう飛んだか、どこを飛んだのかということなのじゃよ。そう、365日」

 女性アイドルグループ、AKB48の楽曲『365日の紙飛行機』からの引用だ。

 美少年はアイドルソングを引用して思想を語る人を初めて見たので目を丸くする。まさか、そんな馬鹿が実在するとは思いもしなかったのだ。「紙飛行機みたいな人生を送るなよな」と心のなかで呟いた。

 一方、カピバラ警部補は含蓄があるセリフを言って満足そうだった。目をつむった彼はきっと想像の世界で翼を広げて大空を羽ばたいているのだろう。

 次男坊はそろりと距離を取ると空を飛ぶ大ネズミを残して退室したのだった。

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