第7話

 家に帰ると、みんなが「おかえり」と言う。

 お母さんはお夕飯の支度をしながら。お姉ちゃんはリビングで勉強をしながら。たまにいるお父さんはソファーで読んでいた本から顔をあげて。

 そこにお兄ちゃんはいない。

 今日も同じだった。キッチンからはお肉を焼くいい匂いがして、お母さんが微笑んでいた。お姉ちゃんは自分で買った参考書を積み上げて、熱心に勉強していた。お父さんはまだ帰ってきていない。

 わたしは「ただいま」と明るく返した。手を洗い、うがいをして、二階にあがる。最近はリビングにいることが少なくなった。

 二階にはおのおのの部屋がある。お姉ちゃんとも部屋が別だというのは、割と贅沢なことだと知った。シロじゃない友達が羨ましがっていた。

 わたしの部屋の向かいがお兄ちゃんの部屋だ。小窓から室内灯の光が漏れている。

 ノックをした。お兄ちゃん、と呼びかける。

「はーい」

 柔らかな、のびのびとした声が返ってきた。わたしはドアノブを回した。

 お兄ちゃんは、ベッドの上に寝転がって漫画本を読んでいた。ベッドの下に数冊積み重なっている。誰かから借りたのだろう。

「おかえり」

 漫画本を閉じ、お兄ちゃんがわたしを見た。目元が微笑んでいる。

「ただいま」

 わたしはお兄ちゃんに、いちごミルク色の紙袋を差し出した。お兄ちゃんは身を起こしてそれを受け取った。

「ありがとう。何を選んだの?」

「ポーチ。シロが選んだの」

「ああ、あの子」

 お兄ちゃんは嬉しそうにうなずき、紙袋を自分の座っている横に置いた。無言のまま紙袋を見つめている。唇には笑みがひらめいて、なんだか機嫌がよさそうだった。

 お兄ちゃんはシロのことを気に入っているのだと思う。わたしがシロと遊んできたと言うと、お兄ちゃんはいっそう笑顔になる。

「いい友達だねえ」

 お兄ちゃんは呟くようにそう言うと、手を伸ばしてわたしの頭を撫でた。

「友達は大事にするんだよ」

「うん」

 言われなくても、とわたしは唇を噛む。分かっていることを、さも大事そうに言われるのは、あまり好きじゃない。


 自分の部屋に戻る前に、お姉ちゃんに話しかけた。除光液を貸してほしいと言うと、お姉ちゃんは無言でうなずいた。

 最近、お姉ちゃんとはあまり言葉を交わさない。

 わたしはお姉ちゃんを嫌いではないし、お姉ちゃんもわたしを嫌いではないはずだ。なのにわたしたちの間に言葉がないのは、互いに興味がないからだろう。

 お姉ちゃんは勉強が好きで、わたしは嫌いで。

 わたしはおしゃれが好きで、お姉ちゃんはそうじゃなくて。

 そういう些細なちぐはぐが、きっと互いを遠ざけているのだ。

 わたしは部屋に戻って、お姉ちゃんの棚から除光液を取り出した。おしゃれが好きではないお姉ちゃん、これはなんの目的で買ったのだろう。

 部屋を共有しているわたしとお姉ちゃんは、それぞれの空間を二段ベッドで区切っていた。わたしはベッドの上段にのぼった。

 シロがくれたあんず色を、ひとつずつ消してゆく。

 ひとつ。ひとつ。甘い色が消えて、味気ないわたしのほんとの色が現れる。

 寂しい。

 爪の色を消したって、思い出は消えやしないのに、わたしは寂しくてたまらなかった。

 心の中で、自分を慰める。シロには学校でまた会えるよ。マニキュアもまた塗れる。そうだ、今度は違う色も塗ってみたら。きっと似合うよ。

 途中から、心の中の声が、シロの声に変わっていった。

 アカ、また一緒に遊ぶとき、次はあのミルク色のマニキュアを塗ってきてよ。

 わたしはベッドから降りて、シロのくれたマニキュアセットを手にした。

 練乳のようだと思った白色、今見るとそれは違うと気づく。これはシロの頰の色だ。

 そう思ったら、なぜか図書館で見たシロの表情を思い出してしまって、余計寂しく、虚しくなった。

 わたしにはシロしかいないのに。

 暗い気持ちとシロの存在をイコールで結びたくなくて、わたしはどちらかを忘れようとした。シロの顔を記憶の中から追いやる。どうもうまくいかない。

 ややあって、一階からお母さんが呼びかけた。

「もうご飯できるよお」

 わたしはベッドから降りた。部屋を出て、階段を下る。遅れてお兄ちゃんの部屋のドアが開いた音がした。

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