第6話

「女の子はね、お肌を堂々と見せては駄目なの。人にも、お日さまにも、見せないようにしないとね」

 お母さんはそう言って、プール授業の出席カードに、バツ印をつけた。わたしは一度も水泳に参加したことがない。

 ボールペンで厚めの紙にバツを書く、じゅ、じゅ、って音。それを思い出して、寂しくなった。

「シロの家の子になりたいな」

 ぽつりと、口から言葉がこぼれた。シロは小さく息を呑む。まるで、小さな蝶を踏み潰した瞬間のような、憐憫の目を向けてくる。

 シロは知っているのだ。わたしが帰る家、そこがわたしにとって居心地の良い場所ではないということを。

 わたしが、それを我慢していることを。

「……いつでも、おいで」

 シロは呟いた。わたしはシロの顔を覗き込んだ。シロはぼんやりと机の上の手紙を見つめ、力ない声で言う。

「アカがまた明日って言って帰るとき……あの表情、すごく嫌なんだ。わたしのことをじっと見て、行かないで、おいていかないで、って顔して……」

 シロの声は所在なさげだった。自分の言っていることが正しいか誤っているか、確かめながら口にしているようだった。

 もっと言って。

 わたしはシロの目を見つめる。

 あの家に吸収されていくわたしを、嫌と言って。だめだと言って。そうして。

「帰る場所がわたしの家なら、きっとアカはあんな悲しい顔しないよね」

 そう。そう言ってほしかった。

 わたしはシロの頬に手を伸ばした。触れる。あたたかくも冷たくもない。ただあるがままの体温と、すべすべの肌。指を顎に滑らせ、こっちを向かせた。

「シロ」

 シロはわたしの瞳を見つめ、少し笑う。

「なに」

「ずっと、この家で待っていてくれる?」

 シロの家。愛してくれるお母さんと、守ってくれるお父さんのいる家。シロが大好きな家族のいる家。幸せな家。

 わたしは、その幸せの中には入れない。

 だけれど欲しいのだ。シロが、その幸せが。

「わたしはわたしの家の子だから、シロの家の子にはなれないってわかってる。───だからさ、せめてシロは言い続けてね。家においで、一緒にいよう、って」

 嘘でいい。ただそうして、先が見えない閉塞感をごまかして欲しい。

「わかった」

 シロはうなずき、わたしの頭を撫でた。その指先の優しさに、わたしは思わず欲張りたくなる。ほんとはシロの幸せまでぶん取って、まるまる自分のものにしたいって、そう思ってしまう。

 窓の外を眺める。曇りではあってもまだ空は明るい。まだやって来ない夕方を恐れて、わたしはシロの肩に額を押しつける。



「お母さんには内緒ね。お姉ちゃんにも」

 お兄ちゃんはそう言って、人差し指を唇に当てた。

 がたんごとん。がたんごとん。がたんごとん。

 お兄ちゃんと並んで、朝の電車に揺られる。全然人がいない。平日じゃないからだろうか。

 膝には、新品のプールバッグ。中に入っているのは、これまた新品の水着だった。お兄ちゃんが買ってくれた。

 わたしはビーチサンダルをパタパタ言わせながら、車窓の景色、膝の上の宝物、そしてお兄ちゃんの横顔をくるくると眺めていた。

 気持ち良い速さで住んでいる街を置いていく電車。見える景色がどんどん変わる。青くてつやつやの田んぼが見え始めた。そこからはしばらく同じような景観。田んぼも、山も、空もあおい。

 お兄ちゃんを見た。

 お兄ちゃんはまっすぐ前を向き、向かいの窓を眺めていた。お兄ちゃんは、外を流れていく景色を見て、何を思っているのだろう。

 鼻が高くて、顎が細くて、お兄ちゃんの横顔は整っている。さらさらの前髪は少し長くて、それがまたちょうどいい長さだと思う。切れ長の目に似合っている。そりゃあ別れても別れても恋人がいるわけだ。

「お兄ちゃん」

 なんとなく、声をかけた。お兄ちゃんはわたしを軽んじたりしないから、わたしの声が耳に届けば、すぐにこっちを向いてくれる。

「どうしたの?」

 優しい笑顔。わたしのことが大事で仕方ないって顔。わたしも笑顔になる。

「海、どのくらいで着く?」

 お兄ちゃんとわたしは、海を目指していた。プール授業に一度も参加したことがないわたしを可哀想に思って、お兄ちゃんがこっそり連れ出してくれたのだ。

「あと三十分くらい。まだかかるなあ」

 お兄ちゃんは電車の時刻表を眺めて言う。

「退屈だろ。もう少し待ってね」

「ううん、全然退屈じゃない」

 わたしはすぐにかぶりを振った。

 わたしはプールも海も知らない。水着を着たこともない。もう三十分もすれば憧れが叶うのだと思うと、退屈なんてこれっぽっちも感じない。それに、こうしてお母さんに内緒で朝から出かけるのも、なんだかわくわくした。電車、というのが余計にいい。

「お兄ちゃんは退屈?」

 尋ねると、お兄ちゃんはゆるく首を横に振った。

「ううん。お兄ちゃんはこういう時間が一番好き」

 そう言ってはにかむ。

 とても優しい笑顔に、少し違う感情が混ざっているように見えた。

 お兄ちゃんは呟くように言った。

「ただ電車に揺られて、きれいな窓の外だけ見ていられたらいいよなあ」

 言葉を残して、お兄ちゃんはまた窓の外、田園風景を眺めた。わたしも真似をした。

 窓の向こうに広がる、ずっとずっとあおい世界。



 まぶたの向こうがあかい気がした。

「───アカ、アカ起きて」

 心地の良い声がする。わたしは目を開けた。

 シロがわたしの顔を覗き込んでいた。シロの部屋の中が、赤く染まっている。窓の外はもっと赤い。夕焼けの光だった。いつしか空を覆っていた雲は流れ去っていたようだ。

「シロ」

「アカ寝ちゃったね。ずっと寝てたよ。もう六時」

 シロが可笑しそうに笑う。シロの肩に頭を預けていたのは覚えている。今は、床に仰向けになっていた。

 わたしは飛び起きた。

「うそ。早く起こしてよお」

「だってぐっすり寝てたから、起こしにくくて」

 ついさっきまで「ああ夕方になったら帰らないと行けないのか、やだなあ」なんてグダグダ考えていたのに。もうその望んでいない時間がやって来ていた。

「ごめんね、シロ。一人で暇だったよね。寂しかったでしょ」

「いや、本読んでたから」

「そこは寂しかったって言って」

 薄い文庫本をひらひらさせるシロは、隠す様子もなく満ち足りた顔をしていた。きっとわたしを待つ間の物語は面白かったのだろう。

 ───わたしも面白かった。お兄ちゃんとのいつかの思い出の中で。

 ぼんやりと、夢の情景を思い起こす。ふつう夢なんて起きればすぐ忘れるけれど、今見た夢は現実の再放送だ。脳みそに深く刻み込まれた、心から幸せだと感じた夏の思い出。

 帰らないと、と思った。

 帰らないと。お兄ちゃんが待ってる。

 どこかで誰かが声をあげた。バイバイ。シロの家は公園が近いから、きっとそこで遊んでいた子たちの声だろう。

 ああ、わたしも言わなくては。

 シロが嫌だという顔で、言いたくない「またね」って。

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