第3話

 図鑑を本棚に戻し、わたしとシロは図書館をあとにした。次の目的地はわたしのお気に入りの雑貨屋さんだ。家から歩いて二十分、ここからだと三十分はかかるだろうとシロは言った。

 図書館の外に出ると、堅苦しい空気がぱっと緩んだ。雨が潜む空気の匂いが、わたしを安心させた。

「降りそう」

 空を見上げてシロが呟いた。優しい青色の空を、薄く延ばしたような雲が覆い始めている。

「雨降る前に着くといいな」

 わたしもそう言って、歩き出そうとした。だけれど、シロはわたしの隣を同じように歩かなかった。

 シロは、さっきまで空を見ていた瞳を、別のところに向けて───ずっと、動かないのだった。

 シロの視線の先には、ベゴニアの花壇。そして、ジョウロを手にした若い女の人。

 まっすぐ、その人を見つめている。

 シロ、と呼んでみた。返事はなかった。それほど、何も受けつけず、身じろぎもせず、シロはその女の人を見ているのだった。

 シロはいつもと違う顔をしていた。目尻から、気の抜けたサイダーを垂れ流しているような、そのサイダーがシロの顔を濡らしてふやかしているような、そういう感じだ。

 その表情が、どうにも気色悪かった。

「シロっ」

 そんな顔をしているシロなんて見たくなくて、さっきよりも強めに呼んだ。

 シロはわたしのほうを向いた。その顔はいつものシロのものだ。優しくて、涼しげで、大人びたほほえみ。

 わたしはさみしくなった。いつものふうに戻ってほしくて名前を呼んだのに、それがさみしい。わたしに向ける顔は、なんの変哲もない、シロの通常版。

「……雨、降っちゃうよ」

 呟くような声が出た。

 ああ、と心の中で嘆く。どうしてわたしは、こんなにも幼稚なんだろうか。些細なこと、しかも自分とは関係のないことで、いちいち機嫌を悪くして、まったく恥ずかしい。

 シロは、なぜだかはにかんで、小さくうなずいた。そうだね、ごめんね、じゃあ行こう、と。

 わたしはうなずき返した。

 せっかくの素敵な土曜日を壊したくなくて、わたしはシロの横顔を見つめた。彼女の顔に、通常版とは違うものがないか探した。

 見つかったのは、気の抜けたサイダーの余韻だけだった。


 雑貨屋さんまでの道で、わたしは訊いた。

「さっきの女の人、シロの知り合い?」

 訊いたって何の得もしない。それは分かっていたけれど、訊かないわけにはいかないと思った。

 シロは、ああ、と笑った。

「花壇の水やりしてた人ね。知り合いってほどじゃないよ」

 その笑い方もなんだか嫌だ。なんでそんなふうに悪趣味に笑うのだろうか。

「司書さんなんだよ、あの人。今年あそこの図書館に来たばっかりなんだって」

「ふうん」

 自分から訊いたくせに、あとに続くことばを見つけられずにいる。でも、シロはそれを気にしない。シロはなんだか機嫌がよさそうで、沈黙さえ楽しんでいるように見えた。

 対してなんだか焦ったわたしは、くるんと話を変えた。

「ねえ、わたしね、レターセットの他にも欲しいものがあってさ」

 なんとか絞り出した話題だったけれど、これは確かにシロに言いたかったことだ。

「うん」

「何か適当に可愛いもの買ってきてって、お兄ちゃんからお金渡されたのね。お兄ちゃんの彼女にあげるんだって。だから、一緒に見繕ってくれない?」

 シロは、ぱちぱちと瞬きをした。

「お兄さんの彼女さんにあげるものを、わたしたちが選んでいいの?」

「いいの。五千円ももらったよ。お釣りはくれるって」

 今年高校を卒業するわたしのお兄ちゃん。いつもニコニコしていて、わたしやお姉ちゃんを無下にしたりしない。そこは好きだ。

 でもわたしはお兄ちゃんを、一概に大好きなお兄ちゃんだと言えない。

 わたしに優しいお兄ちゃんが、他の人に優しいとは限らないから。

「お兄さんの彼女さんも、高校三年生?」

「さあ。しょっちゅう変わるからなあ」

 シロは何度かお兄ちゃんとあったことがある。お兄ちゃんはシロに笑いかけて、こんにちはと言ってどこかへ去った。その日の夕飯のとき、お兄ちゃんはシロのことを「いい子そう」と褒めてくれた。

 でもその日、お兄ちゃんがいなくなったあとに、シロは「お兄さんと仲悪い?」と尋ねてきた。

 わたしは二人の表情の差を、なぜだかずっと覚えていた。


 わたしのお気に入りの雑貨屋さん。名前はSoleilといって、太陽って意味だそうだ。

 民家に混じって建っている、赤レンガの小さなお店だ。ドアの前に、白いチョークでお店の名前を書いた、黒板の看板が立っている。

「可愛いところ」

 シロが声を弾ませた。うん、とうなずいたわたしは単純で、もうすっかり嫌な気分を忘れていた。

 紅茶のような色の木のドアを開けると、店の中からアロマの香りとヨーロッパ風のBGMが流れ出た。優しくわたしたちを包み込む。

「いらっしゃいませ」

 Soleilは個人のお店で、いつもレジカウンターには店主の女の人がいる。ミサトさん、という。うちのお母さんの高校の後輩らしい、お母さんはミサトさんをミーと呼ぶ。

 店内は大きな窓のおかげで明るく、外国雑貨で飾られているのがおしゃれだ。きっとモチーフにしている国があるのだろうけれど、わたしはよく分からない。でも、壁のタペストリーだとか、吊るされたヒンメリだとか、それらをミサトさんがこだわり抜いて飾っているのは分かる。こんなに居心地がいいお店を他に知らない。

 わたしはシロを連れて、文具の陳列された棚へ足を運んだ。

「全部可愛い。素敵だなあ」

 シロはすっかり心を奪われている。きらきらするもの、ひらひらのもの、おりぼん、シロはみんな大好きだ。大好きなくせに、自分ではそういうのを選ばない。きっと、似合わないと思っているのだろう。

「レターセット、ここいっぱい置いてあるの。ねえどれがいい?」

 わたしはシロの顔を覗き込んだ。熱に浮かされたような目でレターセットが列をなす棚を眺めていたシロは、はっとして首をすくめた。

「わたしが選ぶの?」

「わたしよりシロのがセンスいいもん。手紙はシロに届いたんだしさ、シロが選んで」

 シロは、今度は至極真剣な顔でレターセットたちを見つめた。そして長考の末に選ばれたのは、薄い青色のレターセットだった。

「見て」

 シロは、選んだ品を手にとって、わたしに見せた。

 柔らかな青の便箋に、白いフリージアの花のワンポイントが描かれていた。

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