第八話『結目束という作家』
日も暮れ始めた頃、義明は束のマンション前で待ちぼうけていた。吹き抜ける冷たい秋風に身震いし、ジャケットのファスナーを上げる。あれだけ煩わしかった夏の日々が今となっては恋しい。酷暑は勘弁だが、来たる冬を前にして「もう少し夏を満喫しとけばよかった」と思わずにはいられないのが人間の性というもの。
束から帰宅が遅れる旨の連絡が来たのは数十分ほど前のことだ。彼女は今日掃除当番で、帰りの電車に一本乗り遅れてしまったらしい。よくある、学生らしい理由だ。
「各務さーん!」
スマホでSNSアプリを開いて時間を潰していると、向こうから駆け足で寄ってくる束が見えた。薄緑色の長髪を揺らしてぱたぱたと走る姿に、つまずいて転びやしないかと内心ヒヤヒヤしながら見守る。
「す、すみません……はぁ……お、お待たせしました……けほっ」
「そんなに待ってないから気にすんな」
駅から猛ダッシュしてきたのか、息を切らして咳き込む彼女に苦笑いし、重そうにしていた学生鞄を預かる。それほど中身は詰めていないらしく、思っていたほどの重量はない。学生時代、時間割を確認するのが面倒で教科書をすべて詰め込み相当な重さになっていた義明とは雲泥の差だ。横着せずに時間割を確認していれば日々の肩の負担も減ったろうに。
「ありがとうございます、重くないですか?」
「大したことねーよ。むしろ軽すぎて驚きだ」
そう軽口を叩いて、ふたりはマンションに入る。
最寄駅からほど近く、アクセスの良い住宅街の一等地に建てられたそこはセキュリティもしっかりとした、いわゆるちょっとした小金持ちが住まう家賃お高めのマンションである。女子高生の一人暮らしにしてはやや高級感は否めないが、そこは現役ラノベ作家として印税がカバーしてくれているのだろう。
談笑スペースのあるロビーを抜けて、小奇麗なエレベーターに搭乗する。並んで、浮遊感に身を任せていると、
「……今度、合鍵作っておきますね」
ぎょっと目を見開いて言葉を反芻する。アシスタントとしては彼女の住まいが仕事場になるわけで、持っていたほうが何かと都合がいいのは確かだ。とはいえ、愛人でもない人間に合鍵を渡すのは倫理観的にアウトだろう。暗に信頼の裏返しであり、義明としても嬉しくないわけがない。ないのだが……、
「それはありがたいけどよ……いいのか?」
「はい、各務さんなら。……そのほうが良いと思って」
うっすらと頬を赤らめ、上目遣いで言われては倫理観にはちょっとばかし黙ってもらうしかあるまい。甘酸っぱい雰囲気に手出しは無用。
フロアへ降り、束に鍵を開けてもらい彼女とともに中へ。
靴を脱いで居間に上がり部屋の電気をつけると、なにやら彼女の作業机周りが悲惨なことになっていたがひとまず洗面所で手を洗う。束はおそらく、栄養ドリンクを水か何かと勘違いしているのかもしれない。
部屋着に着替える束と入れ替わり、居間に戻るとさっそく件の栄養ドリンクの空き瓶を片す。昨晩、義明が帰路に着いてから作業に没頭していたのが伺える。その身で体験した資料も相まって原稿も捗ったに違いない。
「なにか飲むか?」
空き瓶をすべて片し、ちょうど洗面所から出てきた彼女に訊ねる。白い無地のシャツにスウェット姿という、女子力の欠片もない格好に目を覆いたくなったがどうにか堪える。文句をつけてもコレかパーカーかの二択を迫られそうなのは目に見えていた。
「えっと、それじゃあ……ホットココアを」
当の本人はさして気にした様子も見せず、そう言ってベッドに腰を下ろす。小さく嘆息する束の顔にはうっすらと疲労の色が浮かんでいた。
自分の分は後回しにしてカップにホットココアを注ぎ、彼女に差し出す。
「ありがとうございます、いただきます」
「おう。……なんかお疲れみたいだな?」
ココアをこくこくと飲みながらぼーっと虚空を見つめる束が心配になって、義明がそう指摘する。
「……顔に出てました?」
「ああ、『疲れてます』って書いてあったぞ」
くたっとした笑いを浮かべて、申し訳なさそうに目を伏せるとぽつりぽつりと彼女は白状していく。おおよそ、義明が察していた通りの内容だった。
「実は、夕べ眠る前に原稿を進めていたら、その、なんと言いますか……ちょっとした『ハイ』ってやつになってしまいまして、明け方までずっと作業していたらほとんど寝る時間が……」
「まぁ、そんなことだろうなとは思った」
あの空になった栄養ドリンクの山を見れば、察しが悪くとも誰しもがたどり着きそうな答えだ。
仕事とは言え本分は学生なのだから、睡眠を疎かにすると成績に響きかねないような気もするが――そこはしっかりしていそうな彼女のこと、一定の成績は保っているのだろう。少なくとも、学生時代の義明より優等生なのは間違いない。彼にとって勉強は反吐が出るほど嫌いだったのだから。無論、あとになってからちゃんとやっておけばよかったと後悔したが。
「お恥ずかしい限りですけど、こうしてる間も結構眠たくて」
目を離せば舟を漕いでいそうな口ぶりの彼女に、義明は少し考えて、
「どうする? 少し仮眠取るか? メシできたら起こすからよ」
「……すみません、お願いできますか?」
睡魔の誘惑には逆らえず、一瞬閉じかかったまぶたを擦り辛うじて返事を返すと、束は力尽きる前にもぞもぞとベッドに潜り込む。
「おやすみなさい……」
「おう、おやすみ」
よほどの睡魔だったようで、五分もしないうちに規則正しい寝息を立てて夢の世界に旅立つ。
気持ち良さそうに眠る家主を見届けて、手持ち無沙汰になった義明はどうしたものかとひとり悩む。夕飯を作るには些か早いし、掃除をするほど部屋が汚れているわけでもない。家主が女である以上、当然だが洗濯も御法度だ。食材もまだ余裕があるので買い足しに行くほどではない。これではアシスタントじゃなくおやすみからおはようまで見守る警備員だ。
とはいえ、暇なものは暇。ふと見やればテレビにはゲーム機が繋がっているし、本棚には小説も整然と並んではいるが、やはり束の許可なく触れるのは気が引けるというもの。
「暇だ……」
ぼやいてもこればかりは仕方がない。嘆息し、義明はカーペットに腰を下ろす。年頃の女子の部屋を物色するほど闇落ちもしていないので、結局、大人しくスマホをいじって時間を潰すしかなかった。
ちょうどいい機会なので、『ライトノベル 結目束』で検索をかけてみる。彼女と、彼女の小説が世間からどのような評価を受けているかが単純に気になっていた。以前、幸之助に訊いた際も割と肯定的な意見をしていたし、ボロクソに叩かれているということはないだろう。
羅列された検索結果から目を引いたものを適当にタップする。短い読み込みの後、表示されたのは”BUNBUN文庫”というレーベルの公式サイトだった。ラノベ界隈に疎い義明でも、微かに耳にしたことのあるレーベルだ。雷撃文庫やズゴゴ文庫ほどの大手ではなかったが、中堅くらいのところだった気がする。
朧げな記憶をたどりながら、特設された新人作家インタビューのページをスクロールしていくと一番下辺りまで下げ切った頃にようやっと彼女の項目を見つけた。
――結目束 第七回新人賞 佳作賞 受賞。
『最初の行動原理は自分の趣味嗜好を広めるためで、一番身近にあった手段が小説を書く事だったんです』。そんな見出しから始まったインタビューには、彼女が“結目束”へ至る道筋が語られていた。
他人には無い特殊な性癖を抱え、周囲の人間と打ち解けられなかった彼女は、ネットを通じて細々と匿名で同人活動に打ち込んでいた。学校から帰宅するやいなや、明け方まで部屋にこもって一心不乱にキーボードを叩き続けていたという。彼女の作品に対する熱意は留まるところを知らず、いつしか小説投稿サイトで長編小説を連載するようになった。フェチズムが詰まった作品だったので、いつ運営からお叱りを受けるかヒヤヒヤしながら書いていたらしい。
そんなある日、彼女はとうとう一年半に及ぶ連載の末に小説を完結させた。その際、多くの祝福の声が書き連ねられたコメントに胸を打たれ。自信がついた彼女はファンに後押しされる形で、偶然目に止まった当時のBUNBUN文庫の新人賞に応募し、佳作賞を受賞。高校生ながらにしてライトノベル作家としてデビューを果たし――結目束というペンネームで活動を始め現在に至るわけだった。
最後に、『読者の皆さんのおかげで今の私があります。これからもどうぞよろしくお願いします』という彼女の真面目さが伝わってくるコメントで締めくくられ記事は終わっている。
「……やっぱすげぇよ、お前は」
寝息を立てる束を見やり、義明は呟く。その言葉は、暗に「俺なんかには無理だ」と諦めの意味を含めていた。彼女の積み上げてきた努力はまさに才能。凡人にすら劣る自分では、たった一つの小説を書き上げることさえままならないだろう。熱意のままに物語を紡ぎ続ける彼女が、どこか遠い存在に思える。きっと、土台から違うのだ。天才か、そうでないか。この短い間で、それをまざまざと見せつけられたのだから。
自嘲気味に「ふー」と嘆息して、義明はスマホを閉じた。
「メシでも作るか」
立ち上がり、台所に向かう。凡愚な己に出来ることといえば――思い上がりかもしれないが――彼女を支えることくらいなもの。非力ではあるが、少しでも助力ができているのなら、それは義明にとってささやかな幸福だった。
そして同時に、こうも思う。
『束の傍にいることで、自分も何か変われるのではないか?』と。新鮮な刺激を与えてくれる彼女なら、怠惰で非才な自分を変えるきっかけをくれるような気がした。
そう、“きっかけ”だ。
何かを変えよう、良くしようと受動的に動く全うな人間と違い。能動的に動くことすらせず、他人に道を示され手を引かれなければ何もできない愚鈍な人間。救いようのない惨めな自分自身が、義明はなにより嫌いだった。
ほの暗い心情は決して顔に出さず、能面のような無表情を張り付かせて、義明は夕飯の支度に取り掛かる。こういうときは他のことをして気分を紛らわせるのが一番だと相場が決まっている……のだが、ほの暗い思考はいつまでも重くのしかかったまま彼を苛む。
義明が情けない自分にため息をつくのと、チャイムが鳴るのはほとんど同時だった。
「うおっ」
突如として静寂を打ち破った電子音に肩が跳ねる。反射的に玄関へ顔を向け、次に目を向けたのは束だ。すやすやと気持ちよさそうに眠ったまま起きる気配はない。
再び、チャイムが鳴らされる。
「出たほうがいい……よな?」
束を起こそうか逡巡するうちに、ピンポンの間隔が短くなってきたのでやむを得ず玄関口に駆け寄る。なにより、天使のような可愛らしい寝顔で眠っている彼女を起こすというのは、とてもじゃないが忍びなかった。
「はいはいはいはい! わかったから連打すんじゃねえ!」
とうとうピンポン連打が高橋名人張りの速度に達し始めていたので、束の安眠をこれ以上妨げさせないためにも魚眼レンズすら覗かずにドアを開け、
「ったく、どちら様で――あ?」
執拗な来訪者の姿を一目拝んでやろうと睨めつけた視線の先に、該当する輩は映らない。今時ピンポンダッシュかよ、と腸が煮えくり返りそうになったのも束の間、僅かに目線を下げた瞬間、ちんちくりんの金髪幼女が突っ立っているのに気づく。ぱっと見は十二から、十五歳くらい。しかし、猛獣を連想させる切れ長の目付きに、人を小馬鹿にしたようなふてぶてしい表情はその体躯に似つかわしくない。そんな少女はなにか訝しむように眉根を寄せていて、
「あぁん? お前こそ誰様だこの野郎。なんで年頃の女子の部屋に入り込んでやが――まさか、あんのバカタレさては連れ込んだな!? かーっ! 人畜無害そうなツラしといてとんだアバズレじゃねーか! 締め切りちけーってのにシケ込むたぁいい度胸だ! 二度と交尾できねーよう下のクチ接着剤で塞いでやる!!!」
出来の良いビスクドールのような可愛らしい風貌をしておきながら、不遜な表情と粗暴な物言いで息巻く謎の幼女を前にして、然しもの義明とて目を剥いた。なだれ込む情報量の多さに脳のキャパシティが氾濫しかけたが、件の幼女が鼻息荒く問答無用で押し入ろうとしたため慌てて少女を静止する。
「おいおいちょっと待て! なに勝手に人ん家上がり込もうとしてんだ!?」
「うるせー邪魔すんな発情猿! てめーもどうせ現役JKの処女目当てにホイホイ集ってきたんだろ!? 脳みそと下半身が直結してるエロ猿に用はねーんだ! あとでポリスメンに通報してやるからとっととそこをどきやがれ!!」
「こ、こんのクソガキ……!」
甲高い声でキャンキャンと悪態を喚かれ、義明の額に青筋が浮かぶ。よもや素性もしれない幼女に荒唐無稽な言いがかりをつけられたのはこれまでの人生で初めてだ。否、ここまでの罵詈雑言を浴びせられた人間は世界広しといえど義明だけだろう。不名誉なばかりで微塵も喜べないが。
とにもかくにも束の安眠を守るべく、こんな得体の知れない暴言幼女を通すわけにはいかない。
「なんだアタシに楯突こうってか? いい度胸だ表出ろ! そのぶら下げてるキンタマ片方ぶっ潰してやる!!」
「ふざけんな泣かすぞクソガキ!!!」
「ンだと二個とも潰されてーかクソ野郎!! つーかてめーさっきから人様のことクソガキ呼ばわりしやがって……! 言っておくがアタシはこれでも二十四だからな! 人を見た目で判断するなって教わらなかったのか青二才!!」
「背伸びしてんじゃねーよクソガキ! どう見ても幼女だろ――――あ?」
売り言葉に買い言葉。罵詈雑言の応酬がこのまま続くかに思われたが、少女の一言によってそれがぴたりと止まる。
改めて、義明はふんぞり返る幼女を見下ろす。
ランドセルが似合いそうな背丈で、艶やかに伸びる金色の長髪に爛々と輝く碧眼が映える。ここまでは良い。ただの幼女だ。
けれども、奇妙なことにその幼女はOLスーツをばっちりと着こなしていた。タイトスカートから伸びる健康的で華奢なおみ足はタイツに包まれ大人の魅力を醸し出しているではないか。よくよく見れば唇には薄く口紅が塗られているし、ちゃんと眉毛も描いていた。きつくない程度に香水の香りも鼻腔をくすぐってくる。
だが幼女だ。頭がバグりそうになる。
「じ、冗談きついぜ……」
「ふん。嘘だと思うなら見せてやらんでもない」
そう言って、幼女(?)は懐から一枚の紙切れを見せつけてきた。
――株式会社トワイライト出版 BUNBUN文庫 編集者
「アタシは結目束の担当編集者。れっきとした大人だ! 覚えとけ!!」
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