第七話『小説のためなら』
子供みたいに泣きじゃくる束がようやっと落ち着いてからしばらく経ち、ふたりは揃って平謝りしていた。
「す、すみません、取り乱してしまって……」
「いや、こっちこそ悪かった。早く気づくべきだった」
彼女があらかじめ想定していた以上の拘束力と手首を締められる痛みに気が動転してしまい、合図のワードが頭からすっぽり抜け落ちてしまった。彼女がどれだけ必死に懇願しても、義明には迫真の演技に映り……今に至る。
不慮の事故という形でお互いが合意したものの、義明としては罪悪感に身を削られる思いであった。自分が鈍いせいで結果として彼女を泣かせてしまったのだから悔やんでも悔やみきれない。
「あ、忘れないうちにメモしないと」
「切り替えはや……」
そそくさと先ほどの体験をメモに書き出す彼女を、義明は感心した様子で眺める。内容はさておき、転んでもタダでは起きないその姿勢は是非とも見習いたい。
やがてペンを走らせ終えると、ひと段落とばかりに安堵の表情を浮かべて胸をなでおろした。泣きはらした目元が若干赤く染まっていて、罪悪感が義明を小突く。
「……これでよし。えと、じゃあ次はうつ伏せになりますから、後ろ手に拘束してみてください」
「切り替えはや!?」
驚くべきギアチェンジの速度に目を見張る。切り替えの速さに加え、新たな拘束の要求という二段階の衝撃に驚愕を隠しきれない。なんともたくましい作家根性を見せつけられ、改めて結目束のストイックさを思い知らされる。
「仰向けとくればうつ伏せも試すのが当然です。ささっ、時間もまだありますから手早く済ませてしまいましょう」
さも常識でも語るような口調で催促され「そういうもんか」と危うく流されかけたものの、すんでで踏みとどまる。拘束フェチ作家の定義する常識などトンデモルールに溢れていそうで信用しがたいものがある。ここは常識人として義明が流されるわけにはいかない。
「いやいやちょっと待て、お前さっきまで泣いてたろーが。怖くないのかよ?」
諭すみたいな語り口で疑問を問いかければ、彼女は僅かに頬を膨らませムッとした表情を作った。カンに障ったのか、はたまた負けず嫌いなのかは定かではないにしろ、とにかく、その小動物らしい――つまるところ、リスっぽい仕草は義明の胸をときめかせた。
「それは……さっきはさっきです。あれは予想外のできごとにちょっとパニックになっちゃっただけです。今は怖くありませんっ。だって、各務さんもちゃんと合図を言ったらすぐにやめてくれました! 私は各務さんを信じています!」
力説され、啖呵を切られたのであれば、義明もため息をついて反論を飲み込むほかにない。自己肯定感の薄い彼にとって、束という少女は活力剤のような存在であり、抗生物質でさえあった。
「……そこまで言うなら、わかった」
美少女から『信じています』とストレートを投げつけられて、小っ恥ずかしさを覚えないほど淡白な男でもない。真っ先に折れた義明に、束はお馴染みの笑顔を咲かせた。まるで花のような少女だ、というのは言い得て妙だろうか? 否、それは確かに答えの的を得ている。なぜなら彼女の笑みはこんなにも華やかなのだから。
「じゃあ、お願いしますね。今度はしっかり合図しますのでっ」
「うっかり忘れないようにな。……いやホントに」
彼女が目的のためならば最短距離で突っ走る性質なのも、どういう因果関係かは不明だがドジっ娘属性を発揮してしまうのも織り込み済みだった。
「だ、大丈夫ですから! もうっ、私そんなにドジっ娘じゃないですってば!」
「どうだかな……」
ぷりぷりと不満をあらわにしつつ、パーカーの袖をまくってから先ほどと同様にカーペットに寝転がる束。うつ伏せの状態で腕を後ろに回したのを見届けて、彼女を跨ぐようにして片膝を付いた。日曜日の午前中に一体全体なにをやっているのだろうな、と自嘲の笑いがこぼれる。そして、これも束のためだ、と意識を切り替えて彼女の手首を掴む。
「ほら、いいぞ」
「は、はいっ……! んっ、ぐ……っ!」
言うやいなや、束は華奢な体で懸命にもがき始めた。
今回は馬乗りでないとはいえ、後ろ手に拘束しながら体重を乗せているため少女の力では起き上がることはまず不可能に近い。現にあれこれじたばたと束も暴れているが後ろ手の拘束すら振り解けないでいる。白く細っこい腕に義明の手が深く食い込み、半端な力では動かすことさえできない。
とはいえ、拘束する側の義明も割と重労働を強いられていた。いくら体格差や腕力、姿勢といった要素を加味しても本気で抵抗する人間を相手にしているわけで、赤子の手をひねるようにそう易易とはいかない。
「ふ……ぅっ! く、あ……はっ、はぁ……! んん……!」
息を切らし、息苦しそうに、息も絶え絶えといった様子で額にうっすらと汗を浮かべながらも必死に拘束を外そうと束がもがく。しかし、か細い力では抜け出すことは適わない。組まされた両腕越しに上半身が床へ押し付けられ、強い圧迫を受けて呼吸もままならず、どうにかしようと体をくねらせても押さえつけられた状態ではまるで意味を成さない。
流石に二回目ともなれば蓄積した疲労が溜まるのも早く、やがて抵抗に振り絞る力も使い切った彼女は肩を大きく上下させ、乱れた呼吸を整えることしかできなくなった。
「す、すとっぷ……」
「よく言えました、と」
満身創痍ながら、しっかりと合図を出せた彼女を素直に褒めて義明はパッと手を離す。自分もうっすらと汗をかいていたことに気づき、肌に張り付くシャツをぱたぱたとあおった。両腕が熱を持っていて、程よい筋肉疲労が伝わってくる。ちょっとした運動といえば聞こえはいいが、やってることは事案そのもの。
「メモ……とってくださいぃ……」
突っ伏したまま今にも昇天してしまいそうな声音で短く要求する彼女に、テーブルの上に置かれていたメモ帳とペンを差し出す。果たしてそんな状態でメモが取れるのかと訝しんでいると、生まれたての小鹿みたいに震えながら上体を起こし、どうにかメモとペンを受け取った束は、まるでサスペンスドラマで死体役が今際の際にダイイングメッセージを遺すように、わなわなと持ち手を痙攣させながら体験した事柄を丁重に書き記していく。
「だ、大丈夫か?」
「ふ、ふふ……これく、らい……小説の、ためなら……なんのその、ですよぉ……ぐふっ」
どうやら、か弱い乙女にはロクに休憩を挟まない二連戦は相当堪えたらしく、満身創痍極まる彼女はうわごとじみた呟きを残してぱたりと天井を仰ぐ。汗を流し、満足気な表情で微笑む様は紛れもなく、掴み取った成果の表れだった。
◆
心地よい夜風に吹かれながら、ホットミルクの注いだカップを片手に星空を見上げる。毎晩、床に就く前はこうして温かいものを飲みながらベランダで物思いに耽るのが彼女――結目束の日課だった。
「今日は、ちょっぴり無茶を言ってしまったかもしれません」
思いを馳せるのは、出会ったばかりの彼のこと。ぶっきらぼうだけれど、自分の意思をきちんと尊重してくれる優しい人――それが各務義明という人間に対する結衣の率直な評価だった。やはり自分の直感も目利きも間違ってはいなかった、と自然に顔がほころぶ。
義明と出会ってから、束はよく笑うようになった。
元々、束は口数が多い方ではなく、人と接するのも苦手とするタイプである。学校の友人も非常に少なく、一年の頃はいわゆる“ぼっち”だった。相性の良さそうなクラスメイトを見定めているうちに、周囲の彼ら彼女らはあっさりと人間関係を構築し終えて気がつけばひとり寂しく二年生へ進級していたのだ。束が足踏みしている間に、クラスメイトたちは青春を謳歌する。人生一度きりの高校生活が灰色で終わってしまうのは避けねばならない。
このままではいけない、本能的にそう危ぶんだ束は友達作りの作戦を煮詰め、気持ちを新たにいざ新学期に臨み――風邪をこじらせ、一週間も寝込んだ。そうして登校する頃には、すっかりクラスに居場所など無くなっていた。
それからしばらくして、ありがたいことにクラスで浮いていた束を気にかけてくれるふたりが現れ、ぼっちだけは回避した束だったのだが、それでも彼女らと接していない間は基本突っ伏して寝ているか、小説のネタを考えているかの二択で静かな学校生活を送っているのだった。
そんな事情が有って、普段の彼女は物憂げな表情で過ごすことが多い。しかし、義明の前では自然と表情が豊かになる。他人には明かせない秘め事を共有しているからか、それとも波長が合うのかはわからない。なんにせよ、束は義明と過ごしていて居心地が良かった。
「各務さんのおかげで、良いシーンが書けそう」
独りごちて、その身で体験した感覚を思い出す。
身動きがとれないように押さえつけられ、拘束された腕はどんなに力を込めても動かせない。必死に暴れても、どうにもならない。懇願しても聞き入れてもらえない。束はヒロイン達が感じていた羞恥や恐怖、無力感でさえも鮮明に記憶として脳内へ焼き付けていた。
だが、その感情の中に、覚えのないものがひとつ。
お腹の奥がじんと熱を持つようで、ふわふわと思考にモヤがかかるそれをなんと呼ぶのか結衣は知らなかった。どこか心地よささえ感じたその感情、或いは感覚に該当するソレが彼女にとても甘美な体験へと誘う。もし、もしもまた、もう一度だけ、それを味わえたなら――不意に、束の胸が期待したように高鳴る。
「小説のためなら、いいですよね」
理由をでっち上げて、言い聞かせる。行動するにはなんでもいいから理由が必要だった。そうでなければ、きっと彼は応えてくれない。
ホットココアを飲み干して、束は部屋に戻った。胸の高鳴りを意識してからどうも体が熱い。なんというか、心地よい浮ついた熱さとでも言うべきか。それをなんと表現すべきか、彼女は答えを持ち合わせていなかった。
次第に頬がやたらと熱を持ち始め、脳が興奮して眠気が吹っ飛んでいく。――何故だか、妙に腹の奥の辺りが疼く。
「な、なんか私、変になっちゃってます……?」
そわそわと、悶々と、もはや床に就くどころではなく、いても立ってもいられない束は、パソコンを立ち上げて原稿を開くと動悸か疼きが鳴りを潜めるまでハイペースで作業に没頭した。詰まっていた箇所は、体験をメモした手帳を開いて目を通すだけであっさりと突破できた。
しかし、詳細に取られたメモを読んでいると、義明に拘束されたあの情景が呼び起こされてより一層体が熱くなる。疑問符を浮かべつつも、作業の手は止まらない。眠るアイデアが次から次へと掘り起こされ、一気に原稿が進む。一種の覚醒状態にまで発展し、その勢いは日付が変わろうとも衰えることを知らなかった。栄養ドリンクをがぶ飲みし、口端から変な笑いすら漏らしながら原稿を書き上げていく。もはや束は無敵であり、何者も彼女を止めることなどできなかった。
「書ける……! 今の私なら、最高傑作が書けるんですっ! 間違いない、これはミリオンセラー待ったなし!! アニメ化で印税生活も夢じゃない!! やったーっ! やりました! 見てますかお父さんお母さん!? あなたの娘はラノベ界の歴史に名を刻みます! ひゃっほーう!!!」
――翌朝、彼女は学校を遅刻した。
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