第六話『はじめての拘束プレイ』


 翌日、暖かな陽気の射す絶好の小春日和にも関わらず、束は原稿と格闘していた。


 猫耳のついたねずみ色のパーカーを羽織り、ホットパンツからは血色のよい素足が伸びている。そんな束はデスクチェアに座ったままぶらぶらと足を振ってみたり、時折「うー」とか「あー」とか言葉ですらない唸り声を漏らす。しかめっ面で原稿と向き合うその様はとても絶好調とは言い難い。


 日曜日くらい休め、と家事に勤しむ――唯一洗濯を除いて――義明はその丸まった背中を見やる。無論、学生の彼女にとって土日は貴重な執筆に専念できる日に違いないのは重々承知の上。


 しかし、午前中に義明が家に訪ねてきてからずっとノートパソコンの前から離れようとしない。手元の参考書(エロ同人誌)を食い入るように読んで、ようやく液晶画面と向き合ったかと思えばさほど作業は進まずキーの上で指が止まる。そしてまた参考書を開く……この繰り返しで執筆は遅々として進んでいなかった。


 昨日は軽快にキーを叩いていたというのに、今となってはタップ音もまばらだ。せっかく少し書き進めても、すぐに消去して何度も振り出しに戻っている様子が覗き見えてしまう。どうも、天気が良くとも彼女の調子は良くないらしい。

 見かねて、休憩がてら義明が茶を差し入れる。


「あ……ありがとうございます」


 集中が浅かったのか、束はすぐに差し出した湯呑に気づいて受け取った。一度口をつけて湯呑を脇に置くと、またパソコンとにらめっこを始める。未だ見えない進展の兆しに義明は嘆息して提案する。


「少し休んだらどうだ?」


 気分転換でもすれば良いアイデアが浮かぶかも知れない、と暗にニュアンスに含んだ問いかけに、束は意外にもあっさりと応じた。


「そうですね、それがいいかもしれません」


 うっすら疲労の色を見せる面持ちに微笑を重ね、彼女は大きく伸びをする。作業中は猫背気味で、こうして体を伸ばすところを見ているとどうしても猫を連想してしまう。猫は気まぐれと聞くが、彼女が猫になったら飼い主に従順そうだ。首輪も喜んで付けてくれるに違いない。


 ふと、束がペット用の首輪をつけて恥ずかしがっている様を想像して『普通に似合いそうだな』なんて感想を抱いた。


 本人が目の前にいるというのに邪な発想を展開するのはいかがなものか、と義明は物思いに耽るのを中断する。


「今日は調子が悪そうだな」

「はい……ちょっと詰まってるシーンがありまして……まぁ、よくあることですから」


 困ったように笑う束。どうにかしてやりたいとは思うものの、素人が代筆したところで文章とも呼べぬ文字列が連なるだけだ。ここはどうにかアシスタントとして彼女の手助けをしなくては。


「スムーズに作業が進んでいるときは速筆なんですけど、一度詰まってしまうとなかなか書き進められないんですよね……」


 彼女の言葉に昨日の光景が想起する。

 確かに、書き淀み手が止まる場面はほとんど見受けられなかった。世の中には一時間のうちに一万文字も書き上げる作家がいるらしいが、束の速筆具合も負けず劣らずではなかろうか? あれだけの速度で突っかからずに原稿が書ければかなりのハイペースで新刊が出せそうなものだが。


「なるほどな。それでほとんど原稿が進んでないのか……ちなみにどこで詰まってるんだ?」


 アシスタントとして役割を果たすべく、原因究明のため彼女に訊ねた。彼女はおもむろにパソコンの画面を指差し、丁寧にそれに答える。


「えっと、ここの主人公が騎士団の女団長に一服盛って弱らせたところを襲うシーンなんですけど……」

「そこだけ聞くと主人公にあるまじきゲス野郎だな」


 官能小説とも勘違いしがちだが、れっきとしたライトノベルだというのも驚きである。


「んで? ぱっと聞いただけじゃ詰まる要素は思いつかないんだが……あ、ひょっとして一風変わった拘束だから資料が少ないとか?」


 はたと気づいた彼女だからこそ詰まりがちなポイントに、義明は考えを巡らせる。拘束要素に非常にストイックな姿勢を見せる縄結ならではの突っかかりどころだろう。拘束の仕方次第で資料も増減し、一人では自縛も難しく体感ができず描写に困っている――といったところか。


 少しずつ結目束という作家が分かりかけてきて、不遜な笑みを浮かべる義明だったが、


「いえ、そうではないんです。むしろメジャーなので資料には困らないですね」


 あえなく一蹴され頭を抱える。一瞬でも調子に乗った自分が恥ずかしくてたまらない。どうにか挽回しようと足りない頭で思惟するも糸口すら掴めない有様だった。


「じゃあ…………だめだ、さっぱりわからん。もう少し詳しく説明してみてくれ」


 お手上げのポーズを取る義明に、束は小さく咳払いをしてまるで教師が生徒に説明するように流暢に語り始める。


「はい、ええとですね……その場面では薬で弱らせた女団長を例に漏れず主人公が拘束します。その際、普段は『剣豪』と名高い彼女が毒を盛られて本来の力を発揮できないことを表現するために、主人公に腕を押さえつけられた女団長が振りほどこうともがく描写を入れたいのですが……」


 いかにも困っていますとばかりに肩を落とす。さらに大きく嘆息し、頬へ手を当てた束はこう締めくくった。


「私、男性に押さえつけられた経験がなくて上手く描写が書けないんです」


 そりゃ大半の女性は経験せずに生きてるだろうよ、と内心にてツッコむ。あったらあったでなんとも闇が深そうな話である。


 ともかく、義明の推測は的を得ていたらしい。


 確かに彼女一人ではどうしようもない手法だ。路地裏に分布するヒト科チンピラ属に中指でも立てれば手加減なしでやってくれそうな案件ではあるが、十中八九バッドエンド直行なのは想像に難くない。


「原因はわかったが……どうするんだ? 省けない描写なんだろ?」


 拘束系の描写において妥協を許さない彼女のことだ、半端に省いたり想像で補完するのは矜持に逆らう愚行であり耐え難い苦痛にさえ等しいはず。それ故に、義明は彼女がどうやってこの窮地を乗り越えるのかに興味が沸く。原稿の〆切が迫る以上、妙案が思い至るのをただ座して待っているわけでもあるまい。


 束の導き出した答えを待っていると、彼女は回転式のデスクチェアを回して義明に向き直る。その目には、諦めの色などではなく一筋の光を見た希望の輝きを宿していた。


「はいっ、ここは譲れません。ですので――」


 強い意志を感じさせる声色で、彼女は打開策を打ち出す。


「各務さん、私を本気で押さえつけてくれませんか?」


 ◆


「さぁ、いつでもどうぞっ」

「どうぞじゃないが」


 準備万端とばかりにカーペットへ仰向けに転がる彼女を、義明は冷ややかな視線で見つめる。衝撃を吸収できる柔らかいベッドではなく、固いカーペットを選んだのは束の少しでも原作に近づけようという意志の下。一服盛られ、床に押し付けられる女団長になりきって描写のヒントを得るのが目的だ。……もっとも、いくら弱っているとはいえ鍛錬を積んだ女団長なるキャラクターと、ほぼひきこもり同然の華奢を具現化したような細っこい縄結とでは比較になるのか怪しいところだが。


「お前……まさか毎回俺にこんなことさせるつもりか……?」


 無防備な彼女を見下ろしつつ、パーカーを押し上げる膨らみを凝視しないように留意して視線をずらすと、今度はホットパンツから伸びるおみ足が目に入る。枝のように細く、少し力を加えれば簡単に折れてしまいそうな足。そして、見るからに柔らかい太ももの付け根にあるものを想起し、義明は頭を振った。家の中とは言え、野郎の前でなんという格好をしているのだ、と憤慨する。別段、おかしな格好ではないが今の義明にとっては扇情的であった。


 そんな彼の心情などいざ知らず、束は義明のリミッターを丁寧に外していく。


「もちろんですよ、一人じゃできませんから。それに、各務さんも了承してくれたじゃないですか」

「……そうだったなちくしょう」


 腹を括ったとはいえ、実際にか弱い女の子に対して力ずくで押さえつけるのはやはり抵抗があった。いくら本人から了承済みだからといってこればかりは足踏みしてしまう。『怪我をさせてしまったらどうしよう』なんて以前の問題で、仮にも美少女相手に成人男性が全力で拘束しにかかるのは世間体的に当然宜しくないし、なにより己の道徳心が猛烈に抗議してくる。その上で天使と悪魔もあーだこーだと舌戦を繰り広げているのだから勘弁してほしい。

 ……余談だが悪魔サイドが優勢である。悲しいかな、義明も所詮は汚れた男の一人だった。


「まったく、前まではどうやって凌いでたんだよ」


 おもむろに湧いた素朴な疑問をぶつけてみれば、


「んー、流石に他の人に頼めないようなシチュが大半ですからね、まぁ、渋々……えぇ、本当に渋々ですが軽めの描写で済ませたり、シーンそのものを省略したりしました。自分の力不足を認めてるようなものなので、精神衛生上とてもよろしくないですが……」


 乾いた笑いで遠い目をする束。彼女の苦悩が目に浮かぶようだ。ある意味、作家ほど気苦労の絶えない職種もそうはないのではなかろうか。


「でも、これからは各務さんのおかげでそんな苦行ともオサラバですよ」


 見上げたまま、彼女は微笑む。これからは苦慮することなどないとばかりの明るい笑顔。買いかぶり過ぎだ、と照れ隠しに否定しようとしたがそんな微笑みを見せられては、言葉を飲み込む他になかった。


 目に見えて期待を寄せられ嬉しくないはずもなく、義明は乱雑に頭をかいて今一度腹を括る。


「……わーったよ、やりゃあいいんだろ」


 その言葉に、束は今日一番の笑顔を咲かせた。


「もちろん手加減はなしでお願いしますね。じゃないと意味ないですから」


 僅かにおどけたような声音で話す彼女が、床に広がる自分の毛先を指先で遊ばせていることに今更ながら気づく。緊張などしていない素振りで明るく振舞っていても、本当は落ち着かないくらいに怖がっている。


 当然の帰結だった。


 例え自分がそれを望んでいても、資料のため、ひいては小説のためだとしても、彼女はまだ未成年の少女。成人男性に力ずくで拘束されるとわかっていて欠片も恐怖心を抱かないわけがない。


 義明に要らぬ心配をさせないよう、束は湧き上がる恐れの感情を押し留めている。


「なぁ束、最後にもう一度だけ聞くけどよ……本当にいいんだな?」


 最後の問いかけだった。

 彼女が後悔しない、引き返せるギリギリのラインで問いかける。

 やめるなら、今のうち。


 これより先に進むと彼女が決すれば、義明にそれを否定する権利などない。アシスタントとして、なにより信頼してくれた恩に報いるべく可能な限りの助力で彼女を導く。


「はい……私が痛がっても、合図するまではやめないでください」


 躊躇うことなく、義明の目を見据えてしっかり頷いてみせた束。そこにもはや怯えの色はない。真っ直ぐに、琥珀色の瞳が義明を射抜く。ならば、義明も彼女の覚悟に倣うまで。


「――いくぞ」


 短く告げ、鋭く呼気を整える。奥底で喚くためらいも手加減すらも黙らせて、束の腹の上で馬乗りの姿勢をとった。体重を乗せれば、胴体を圧迫された束が僅かに顔をしかめる。気にも留めず、投げ出された両手首を乱暴に引っ掴むと、彼女の端正な顔の真横に押し付ける。ほとんど手首を締め上げる要領で、薄いカーペットの上にその細腕をあらん限りの腕力で固定しにかかった。


「うっ、く……ぁっ!」


 埒外の衝撃に瞠目こそしたものの、彼女も抵抗を始める。しかし、その抵抗はほとんど意味を成さなかった。マウントポジションを取られ、なおかつ義明が本気で腕を押さえつけているため、いち女子高生に過ぎない束がどれだけ力を込めて暴れても抜け出せる道理はない。


「んん……! んっ! くぅっ!」


 顔を真っ赤にして束がもがく。

 だが、押さえつけられた手首はまるで動かせていない。馬乗りになった義明をどかそうとしても腰を跳ねさせることすらままならない。それどころか圧迫されているのですぐに息が苦しくなって、次第に呼吸が荒くなる。動かせる両足をばたばたと振っても状況は好転しない。かかとがカーペットを打ち付ける音が虚しく部屋に響く。


「はぁ……はぁ……は、はなして……!」


 息を切らせて彼女が懇願する。しかし義明は拘束は緩めない。それは『合図』ではないからだ。今のセリフは彼女の演技に過ぎず、合図でなければ続行である。開始前に彼女が言った合図は『ストップ』ただ一つ。それが告げられるまで、義明はこうして束を拘束し続ける。


「ん、ぐ……ぅっ! ま、まって、やめて……!」


 再度、束が声を上げる。よほどきついのか、彼女の目尻にうっすらと涙が浮かんでいた。しかし合図ではないので拘束はやめない。ぎり、と一際強く手首を締める。白く細い彼女の手はいつしか青白く変色していた。


「き、つい……ほ、ほんとに、はなしてくださ……ぃっ!」


 なかなか真に迫る名演技に、義明は感心する。演劇でも嗜んでいたのかとさえ思ったが、それはそれ。これも合図ではない。よって続行。疲弊しきったのか、次第に彼女は抵抗がままならず、苦しげに顔を歪ませてとうとう泣き出し始めてしまう。あまりに迫真の演技なので、義明も呆気にとられて手首の拘束を緩めた。


「な、なん、で……っ!? わた、しっ……ちゃん、と……っ、あ、合図して――あっ、ストップ! ストップっ!」

「のわっ!?」


 思い出したかのように合図を連呼され、飛び退くようにして立ち上がった義明。慣れないことをしたものだから、力を込めすぎて腕の筋肉が文句を言い始めた。


 全力で任務はこなしたが、束は怪我をしてないだろうか――ふと、仰向けのまま起き上がらない彼女を見下ろす。


「う……いた、いぃ……なんっ、で、や、やめてって、ちゃんと言った、のに……ぃ……ぐす……ひぐっ……ううっ……」


 嗚咽をあげてマジ泣きする束の姿にそこにあった。

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