第五話『リアリティへの執念』
ややあって、結目家の食卓に久方ぶりであろう真っ当な料理が並んだ。これは歴史的快挙である。記念日としてカレンダーに記されるべきだろう。
ご飯に味噌汁、焼き魚と野菜炒め。それから束のリクエストしたとりそぼろとだし巻き卵。特筆して目を引くようなラインナップではないが、それでも彼女にとっては豪華なランチに等しいのだろう。出来上がる数分前から正座で待機していた束は、文字通り爛々と目を輝かせて食事の到来を喜んでいる。ぐぅ、と腹を鳴らして今まさに食いつかんとしているのだからよっぽどだ。
「わぁぁ……! 美味しそうです! 我が家のテーブルに温かいご飯が並ぶなんていつぶりでしょうか!」
「悲しくなるからやめてくれ」
涙を誘う言い回しに目頭が熱くなる。彼女には今までの分も合わせて是非とも腹いっぱい食べて欲しいと切に願う義明であった。
「あんまし味は期待するなよ? なんたって野郎の自炊料理の延長だから、味付けも俺寄りだしな」
と、義明がそんな予防線を張れば、束は少し困ったように眉根を寄せて、
「んー、確かに味も大切ですけど、私にとっては温かいご飯が食べられることがなにより大事ですよ」
健気に笑う様を見て、義明は静かに涙を流した。
「おかわりもあるからな」
「な、なんで泣いてるんですか?」
さめざめと泣く野郎を前に束は困惑に小首を傾げる。義明が心の中で、密かに料理の練習を誓っているとも知らないで。
しばらくして、テーブルには綺麗に食べ尽くされた空の食器だけが残っていた。束からの評価も上々で、義明としても嬉しい限りである。
途中「美味しいですっ!」と忌憚無く喜びながら料理を頬張る束に、大層気を良くした義明が二度に渡りおかわり(野郎基準の分量)を差し出すアクシデントこそあったものの、彼女はそれをぺろりと平らげたため事なきを得た。本人曰く「最近あまり食事を取っていなかったから補填みたいなものですよ」と、なんとも詫び石じみたコメントしていた。
「ごちそうさまでした。……はふ」
「おそまつさんでした、っと」
束がなんとも幸せそうに息をつくのをみていると、こちらも微笑ましい気分になってくる。
それからふたりは上機嫌で皿を片した。鼻歌交じりに食器を運ぶ束はとても可憐で、義明はついつい目を奪われる。そんな彼女の執筆活動に支障が出てはいけないと、義明は進んで水仕事を引き受けた。皿洗いなら、アルバイトで何度も経験済みで得意分野だった。
「それじゃあ、私は作業に戻りますね」
「おう」
心なしか今朝よりも血色が良くなった束がそう言って机の椅子を引く。スポンジを泡立てながら相槌を返す義明に、「あっ」とやおら彼女は振り返って、
「時に各務さんって、私の小説は読んだことあります?」
何気なく訊ねる彼女に、義明はどう答えるか少し迷ってから答える。
「……いや、ないな。悪い」
嘘ではないが、実際は微妙なところ。文庫本こそ読んではいないが、つい先ほど執筆中の原稿に目を通してしまった。アウトかセーフかというよりはグレーに近い。
「いいんですよ、別に大ヒット作ってわけでもありませんし。……あの、もしよろしければ読んでみますか?」
自嘲気味に僅かに茶化す彼女は、どこか諦めたような節がそのニュアンスに滲んでいた。意図せずそれを察した義明だったが、追求することなく束の提案に乗る。
「――ああ、ちょうど気になっててな。読みたいと思ってたところだ」
それは間違いなく本心からついて出た言葉だった。
アシスタントとして雇い主の書籍を読まないのはどうかと思う一方で、単純に彼女の作品に興味があった。原稿を盗み見たせいで、より強く好奇心が刺激されたのも理由の一つ。よくある異世界転生モノを、結目束という作家はどう調理しているのかが義明は知りたかった。本人の性癖を爆発させただけの一発ネタなのか、或いはそれを作品のスパイスとして活用し物語を盛り上げているのかを。
義明が抱くその思いの根底にあるのは、彼女が真剣に書き上げた一冊を、ちゃんとした形で向き合いたかったというただそれだけの理由だった。
「ならよかったです。テーブルに置いておきますから、読み終わったら感想聞かせてくださいね」
面と向かって『貴方の作品を読んでみたい』と言われて嬉しくない作家はそうそういないだろう。事実、義明の言葉に、彼女は照れくさそうに笑う。
束は本棚からラノベを四冊抜き取りテーブルの上に重ねた。表紙には手足を縛られたヒロインを不遜な表情で抱える主人公が描かれ、長ったらしいタイトルが追い打ちをかけるように目を引く。美麗なイラストもさる事ながら、文字数は多くとも内容が一目瞭然な直球タイトルはデメリット足りえないだろう。
早く読んでみたい、という欲求を抑えて、義明は黙々と皿を洗い始めた。
皿洗いを終え、カーペットの上に腰を下ろした義明はテーブルに積まれた単行本の一巻目を手に取る。束がキーを打ち込む微かな音だけが鳴り、室内は心地よい静寂に包まれていた。本腰を入れて本を読むのには打ってつけの環境である。
淹れたてのお茶で喉を潤して、やや緊張しつつもページをめくった。
見開きはどれもヒロインが拘束されているシーンがカラーで描かれており、束がイラストレーターに細かく指示を出していたのかやたらイラストに力が入っている。特段、卑猥な格好をしているわけでもないが何故だか『エロい』と感じてしまうのは、オーダーに忠実に答えた絵師の手腕によるものだろう。案外、このコンビは同じ性癖を持つ同志なのかもしれない。
続けてページをめくると、さっそく本文が始まった。
主人公の独白から物語が展開し、男子高校生の何気ない日常が淡々と描かれる。ひとえに男子高校生と言っても、この主人公が拘束フェチであることはそこかしこに描写されているのでぶっ飛んだ少年だと伺える。実際、妄想とは言えクラスメイトの女子が監禁された様子に興奮する変態だった。しかも授業中にである。
そんな主人公も法律には逆らえず、大人しく過ごしていたある日、暴走トラックに跳ねられて死んでしまう。しかし、目を覚ますとそこは剣と魔法のファンタジーな異世界だった――と、導入こそ一時期ネット小説で飽きるほど見た展開だが、ここから物語は予想だにしない方向へと突き進んでいく。
なんの転生特典もないかと思われた主人公だったが、着用した衣類のポケットからあらゆる拘束具を取り出せるという異能の才能が開花する。これにより、溜まりに溜まった欲望を発散する手段を手に入れた彼は、持ち前の狡猾な頭脳をフル稼働させて訪れた街で美少女達を毒牙にかけていく。やがて主人公を慕う個性豊かな子分が集まり、志を共にした彼らは組織を結成。もはや、女剣士だろうと女魔法使いだろうとお構いなしに捕らえ弄ぶ主人公。
全能感と多幸感に酔いしれ、異世界転生を満喫していた彼だったが、突如として徒党を組んだ冒険者の一団がアジトに乗り込んできて――次巻へと続く。
絶妙なタイミングでの引きに、義明は続きが気になってたまらなくなった。『マジかよ』と軽く絶望さえしたほどに。主人公こそ外道の極みのような男だが、彼の根底に有るのはたったひとつの性癖で、それを一貫して行動しているし、なにより作風がコメディ寄りで面白おかしく語られており嫌悪感が非常に薄れているのも大きいだろう。丁寧な描写と魅力的なキャラクターたちが織り成す掛け合い、そして作り込まれた世界観が後押しし義明を結目束の世界へと引き込んでいた。
もはや喉の渇きすらも忘れて二巻、三巻を立て続けに読みふけ、読了する頃にはすっかり日も落ちており――ふと、部屋の電気が点けられていることにようやっと気がついた。
「やべ、今なん――」
今何時だ? と咄嗟に腰を上げた義明の両足を猛烈な痺れが襲う。軽く数時間は同じ姿勢を保ったままだったので、当然、体にはとてつもない負担がかかっていた。足、肩、腰が全力で悲鳴を上げている。
「ぐおぉ……」
「だ、大丈夫ですか?」
両足を抱え、ばたばたと悶絶する義明の隣で束が苦笑いして座っていた。いつの間にか作業を終えて見守っていたらしい。部屋の電気も彼女がつけてくれていたのだろう。しかし、お礼を述べるほどの余裕は今の義明にはなかった。彼は絶賛苦痛に悶えているのだから。
「……えい」
無防備に投げ出された義明の足先をみて何を思ったのか、小悪魔的な笑みを浮かべて、華奢な指がひとつまみ。意識の外からもたらされた雷のような刺激を受け、義明はより一層のたうち回った。
「あああああ!! さ、触るなーッ!」
「す、すみません……く、ふふっ……」
恨めしさのこもったひと睨みを効かせるも、肩を震わせて笑いをこらえる束には効果がないようだった。
「いずれ同じ目に合わせてやる、絶対に……うごご……」
びりびりと痺れる足を抱えたまま、そう胸に固く誓った義明。そんな彼を、堪えきれなくなった束が鈴を転がすように笑い始める。最初こそ遠慮がちな笑いだったが、次第にツボに入ったらしく、けらけらと楽しげに笑う彼女を見て義明は「やれやれ」と足をさすった。
ひとしきり笑ったあと、束は目尻の涙を指先ですくって居住まいを直すと、やおら義明に訊ねた。
「それにしても、随分と集中されてましたね? どうでしたか、私の小説」
作者から直々に感想を訊ねられ、義明は世辞ではない素直な本心を述べる。
「あぁ、面白かったよ。続きが気になって仕方ないくらいだ」
「わぁっ、ありがとうございます。そう言っていただけて嬉しいです!」
手を合わせて満面の笑みを咲かせる束。その表情の豊かさは間違いなく彼女の美点と言えるだろう。
しかし、柔和に喜びをあらわにしていた束の面持ちが静かに陰る。
「……ところで、あの……ヒロインが拘束される描写はどうでした?」
ぎこちない微笑みを貼り付けて、束は再度訊ねた。感の鈍い義明でさえ、彼女が心根を偽って無理矢理笑っているのがはっきりとわかった。それでも詮索はせずに義明は口を開く。
「どう、って……そうだな、素人意見だが、描写がより丁寧で一際力が入ってるって感じだった。登場人物の心理描写も上手いこと表現されてたし、なにより、拘束方法が毎回違うのもすげーなって思ったよ。読んでて飽きが来なかった」
忌憚無い意見を述べても、彼女の顔は晴れない。むしろ、益々曇り始める。一文字に口を固く結び、目を伏せた。そんな彼女を前にして、義明は何も言葉が出てこない。まだ、束のことなどこれっぽっちも知り得ていないのだ。かける言葉など喉元に浮かびすらもしない。
やがて、彼女は重く息をついて思いがけない言葉を吐いた。
「薄っぺらいとは思いませんでしたか?」
「え……?」
予想だにしない言葉を耳にして、義明は間の抜けた声を上げる。耳を疑う、とはまさにこのことで、真剣に、全力で、自分の身を削ってまで執筆していた結目束という作家の言葉とは到底思えなかった。
「私はただ、資料で調べたものをそのまま書いてるだけなんですよ」
淡々と彼女は語る。思いの丈を吐き出すように、言葉は止まらない。
「手首を縛ったり、手錠みたいな自分でもできる簡単な拘束はちゃんと”描写”として表現できますけど。一人じゃ難しくて、誰かに手伝ってもらわないと体験できないような拘束は”説明”しかできないんです」
胸元をぎゅっと握り、歯噛みする束。彼女の吐き出した言葉を、ずっと一人で抱えていたその思いを、義明はただ黙って聞いていた。
「読んでくださってる皆さんには些細でつまらないことかもしれませんけど、私にとっては重要で……言ってしまえば、プライドが許さないんですよね」
――彼女は、リアリティに囚われている。
ストイックに作品に打ち込むあまり、重きを置いていたリアリティがいつしか結目束という一人の作家をがんじがらめにしていた。空想や妄想、想像では決して表せない『実体験』を素材にすることで彼女の作品は本当の意味で完成する――盲目的な、否、もはや狂信的とさえ言える思想でもって、束は作品に命を吹き込もうとしているのだ。
「拘束された女の子はとても魅力的な存在ですから、妥協なんてしたくない。私は、自分の語彙力と体感した全てで女の子が感じていたあらゆるものを表現したい。羞恥と屈辱、恐怖といった感情や冷たい手錠、軋む縄、肌に張り付くテープ……その全部を」
琥珀の双眸がぎらりと輝く。これまで見せなかった凶暴な一面は、義明の背筋に冷たいものを走らせるのに一役買った。
――彼女は、本物だ。
義明は確信を強くする。原稿に書き進める際に一瞥したそれとは比較にならない。これこそが、この執念こそが束の本性なのだ、と。
「だから――手伝って欲しいんです」
一瞬のうちに、垣間見た剣呑さは霧が晴れるように消え失せていた。顔を上げた彼女は真剣な面構えで真摯に訴える。それはまるで、告白のようで――、
「私一人じゃ大変で、危なっかしいですから。……お願い、できますか?」
「――ああ、任せろ」
聞かれるまでもないことだった。もとより、その覚悟はとっくに決めていた。
眩い輝きを放つ彼女の手助けになれたなら、あの日失った自信を取り戻せるかもしれない――そんな打算を胸に、力強く頷きを返す。
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