第二話『切実な悩みと彼女の提案』


 束の住居であるマンションの一室に通された義明は、絶賛借りてきた猫状態で正座したまま硬直していた。家主が台所でお茶を淹れる最中、一向に落ち着かない彼は忙しなく視線を動かしている。傍から見れば挙動不審極まりないが、幸い縄結は気づいていない。


 ――これが女子の部屋か……!

 人生で初めてとなる異性の住まいに、義明はただならぬ緊張感を味わう。居心地が悪いどころではなく、もはや男の自分が居て良い空間ではないとすら思えてくる。ごくり、と喉を鳴らし周囲に目を向けた。


 2LDKのその一室は、小奇麗に片付けられていた。

 部屋の中央には木製のテーブルが置かれ、正面には薄型テレビがゲーム機と繋がっている。窓際にベッドがあり、隣接してナイトテーブルが置かれている。頭頂部にはヘッドボードが備えられていて、充電器のコードが伸び、本が数冊と目覚まし時計がひとつ。ベッドの横には真新しい机が設置され、その上には資料らしき本が数冊と、ノートパソコンが一台。本棚には隙間なくライトノベルや参考資料らしき書籍が並んでいた。


 カーペットやクッションなどはパステルカラーな彩りで揃えられており、たくさんの可愛らしいぬいぐるみに囲まれているおかげで部屋が明るく見え、寂しさをちっとも感じさせない。おまけに鼻腔をくすぐる花のような甘い香りが、より一層女の子らしい部屋を実現させている。義明の住む負の三拍子――狭い・暗い・薄い――が揃ったオンボロアパートとは比べ物にならない空間だ。


 ……と、ここまでは一見、女の子らしい部屋と言っても何ら遜色はない。ただ――同人誌とAVがぎっしりと詰め込まれたラックと、その部屋の片隅で一際異彩を放つダンボール(赤いロープや手錠らしきものがはみ出している)を除けば。


「はい、どうぞ」

「ど、どうも」


 ラックとダンボールを視界から外して、差し出された湯呑に口をつける。辛うじてお茶なのは分かったが、緊張しすぎて味はまったく分からなかった。熱いのか温いのかも判断がつかないまま、湯呑をテーブルに置く。


 義明の正面に束が腰を下ろし、湯気の立つ湯呑を一口あおる。ふぅ、とひと息ついてから、彼女は真剣な面持ちで話を切り出す。


「それで、昨日お話したアシスタントの件なんですが……」


 束の言葉に、義明は表情を固くする。


 ――昨晩、義明は彼女からアシスタントの話を持ちかけられていた。


 結目束はラノベ作家としては新人であると同時に、高校生である。

 学業と兼業し、作品を執筆することがどれだけ骨の折れる仕事かは、義明とて想像に難くない。


 彼女がなぜ、名前も知らぬ義明に素性を明かしてまで話を持ちかけたのかは定かではない。直接アシスタントとして雇い、報酬を支払うことで件の痴態を黙秘させるつもりなのかもしれないが、義明にとっては雇われることこそが重要だ。


 彼女の心境はそこに考慮されていない。

 フリーターとしてアルバイトを転々とする生活を送る彼に、作家のアシスタントという貴重な仕事が舞い込んできた上に、バイト代も払われるのだからそもそも初めから断るつもりは毛頭なかった。


 なにより、こんな美少女の手伝いができるのなら食いつかないはずもなく……。


「俺としては願ったり叶ったりな話だよ。ちょうど、次のバイトも探してたところだしな」

「そうなんですか? よかった、本当に助かります」


 下心を伏せる義明の心情などいざ知らず、束は顔をほころばせる。年相応の可愛らしい笑みにほんの一瞬目を奪われ、義明は慌てて視線を逸らす。


「ところでアシスタントって実際はなにをすればいいんだ?」

「ええと、ざっくり言うと雑用みたいにはなってしまうのですが……具体的には部屋の掃除や料理を作り置きしてもらったり、買い出しや来客の対応などでしょうか。あぁ、担当編集者が訪ねて来た場合は追い返してくださいね。連絡もなしに来るときはだいたい原稿の催促なので。生活面についてはとりあえずこれくらいで、最低限で構いません。本題は執筆作業周りのことでして、小説のネタ出しや推敲作業のお手伝いをお願いしたいです。それから、どちらかというとこれが一番大事なんですけど……その、執筆中、どうしても資料が必要になる場合があって……たぶん、大体察しているとは思いますが……そういうお願いをすることもあるかもしれません。あ、その場合はもちろん私がされる側になりますので、安心してください。道具も各種取り揃えていますから。あっ、も、もちろん普通の日常的なシーンもあります! 全部が全部そうじゃないですよ! あぁいやでも比率的にはだいぶ偏りがあるかも――」

「ちょ、タンマ! 待ってくれ! ストップ!」


 徐々に早口へ加速しながら過密な業務内容を口走る束を静止する。


「は、はいなんでしょうか? あぁ、お給料のことでしたらもちろん弾ませていただきます! 現役女子高生の手渡しか口座振込か選べますけどどうします?」

「そうじゃねぇよ! 手渡しのほうがそりゃあ嬉しいけどそうじゃねぇよ!」


 女子高生から現金を受け取る成人男性の図が頭をよぎり、そんな世間体によろしくないキャスティングは幸之助だけで十分だと甘美な誘惑を振り払う。


「ごごごごめんなさいお金なら払いますから! 拘束したあと私の体好きにしていいですから!」


 声を荒らげた義明に子犬のように怯えながらトンデモ条件を提示する束。


「その言い方はやめろ何もしてないのに俺が極悪人に見えるじゃねーか! 別にどうもしねぇよ!」

「では欲情しないと?」

「………………するわけないだろうッ!!」


 たっぷり十秒、己の中で交互にささやきあう天使を悪魔を追放して啖呵を切る。


「めちゃくちゃ葛藤してるじゃないですか」


 束の冷ややかな視線が突き刺さる。

 とはいえ、女子から現金を手渡しされて喜ばない男子など果たしているのだろうか。いやいない。そう、これは仕方のないことなのだ、と義明は自分に言い聞かせた。


「し、しないったらしねぇよ。……んなことより、俺が言いたいのは仕事内容についてだ。アシスタントっつーか、もうこれただの雑用係じゃないか」

「すみません……自分で言うのもなんですけど、私、小説を書いてると生活能力がダダ下がりするんです……。特に締め切り前になると家事がほとんど手につかなくて」


 執筆に関して余程ストイックな姿勢のあまり、その他のことが疎かになってしまっているらしい。人は何かに熱中すると周りが見えなくなることがあるが、束はそれが顕著なのだろう。かくいう義明も漫画やゲームに本腰を入れて取り組んだ際にはいつの間にか日が暮れていることもあった。


 しかし、束の場合はおそらく少し違う。

 察するに彼女は、自分の中における優先順位が『執筆』で固定されてしまうのだろう。『趣味』の義明とは違い、束は『仕事』だ。熱量も優先度も比較にならない。身を削って作業に徹する彼女を、義明は笑うことも一蹴することもできなかった。


「……その割に部屋は片付いてるけどな」


 束の言葉に、義明はやおら室内を見渡す。ゴミなどは一切落ちておらず、モノは整頓されており、ホコリもなく清潔感が保たれている。軽く見た限りではきちんと掃除が行き届いているようだった――が、


「当然です。一週間に清掃業者さんに片付けてもらったばかりですからね。そこらじゅうにゴミが散乱してましたから、これは流石にマズイと思って……」

「うっそだろここ汚部屋だったのかよ!?」


 気恥ずかしそうに暴露する束を前に、思わず驚愕に腰を浮かす義明。まさかこの女の子空間がゴミ屋敷だったなどと誰が信じられようか。しかもその部屋の主が年頃の女子高生とは夢にも思うまい。


「カップ麺とかコンビニ弁当の容器なんてそのままでしたし、机の上とか栄養ドリンクでタワー作ってましたもん。正直、捨てに行くのも億劫でゴミ袋も山積みになってましたし、リアルに足の踏み場がありませんでしたね。あ、今日に限っては朝早起きしてちゃんと掃除しましたから」


 朝から重労働でしたよ、と肩を揉む束。毎日掃除をしていればそんなことにはならないだろ、と内心で義明はツッコミを入れる。果たして、彼女がここに越してきてからいったい何回清掃業者を呼ぶハメになったのか。


「お前……よくそれで一人暮らししようと思ったな」

「これでも一応、ちゃんと家事は出来るんです。ただ、忙しくなったり神がかり的に筆が乗ったりすると手がまわらなくなるだけで」


 切実な面持ちでそう語る束を前に『どうにかしてやりたい』という気持ちが芽生え始める義明。ここまで首を突っ込んだ手前ではあるし、出来ることなら力になりたいと思案するのは本心からだった。それに束を見ていると、何故か義明の内に眠る庇護欲的な世話焼き魂が刺激を受けるのだ。


「なるほどな、事情はわかった。……けどよ、だったら別に俺じゃなくてもよかったんじゃないか? それこそ、仲のいい友達とかに手伝ってもらえばいいだろ」

「そうしたいのは山々なんですけど、私が作家をやってることはみんなには内緒にしているんです。知ってるのは家族と担任の先生だけ。それに……元々、無理言って一人暮らしをさせてもらっている身なので、家族にも頼れなくて……」


 本の内容が内容だけに他人には決して明かせないのは容易く察することができた。おそらく、この様子だと家族にも多少ぼかして伝えているのだろう。キワドイ題材の小説を書いていると親に打ち明けることは自分から処刑台に赴くようなものである。精神が超合金かなにかで精製されていなければポッキリと逝ってしまうのは火を見るより明らかだ。


「身内は頼れない、か。……はぁ、仕方ない。仕事量については、まぁ、なんとかやってみるさ」


 嘆息して、義明がそう返答すると、束は琥珀色の双眸をぱあぁっと煌めかせてテーブルに身を乗り出す。


「本当ですか!? あ、ありがとうございます!」


 至近距離に顔を寄せられ、義明は思わずたじろいだ。ふわりと香る柑橘系の香水が鼻腔をくすぐり、色白くもあどけなさの残る童顔が誘惑する。動揺が悟られぬよう、義明は咄嗟に会話を進める。


「たっ――ただしその上で! もう少し詳しく説明してもらおうか、小説の資料集めとやらをな」

「ぶっちゃけると私のこと縛って欲しいんですよ」

「ぶっちゃけるなバカタレ」


 恥らいの欠片もない発言に先程までの甘露な誘惑が霧散していく。

 ド直球ストレートかつ端的な回答ではあったものの、もっと具体的な例を挙げて欲しかった。


 そもそも『縛って欲しい』と彼女は要求するが、義明にそんなアブノーマルな経験はこれっぽっちもない。方法を教授されればできなくはないだろうが、美少女相手に緊縛など己の自制心との戦いであり、そんなのが何度も続けば精神が持たない。暴徒と化した愚息と共に無防備な結目城を攻め落としかねないのだ。後に待つのはお先真っ暗な刑務所暮らしである。二十代にしてそれだけは真っ平御免だ。


「ったく、あのなぁ……資料集めが大事なのはわかるが、知り合って二日目の俺に頼む内容じゃないだろう。自分でやればいいだけじゃないか」

「自分でやった結果ああなりました」

「……そうだったな」


 公園での痴態を思い出し、ふたり揃って頭を抱える。なぜ目撃されれば一発アウトなハイリスクプレイを選択してしまったのか小一時間問い詰めたい。


「担当編集者の方にも何度かお願いはしてるんですが断られてしまって……」

「だろうな」


 至極残念そうに目を伏せる束。むしろどうして快諾されると思ったのだろうか? 普通に考えてお断り案件であるというのに。担当編集者の人も変態作家相手に拘束プレイをするなど、例え原稿を人質にとられても嫌だろう。


「仕方なく、慣れない自縛をしてあんなことに……ですが! こうして貴方に出会えました! これも何かの縁です! 何卒、何卒……っ!」


 深々と頭を下げられ、義明の心は揺れる。彼女の力になりたいのは山々ではあるし、美少女を緊縛できる男としての不純な動機をちっとも抱いていないわけでもない。とはいえ、露見すれば完全な事案モノである。その日のうちに各務義明という不届きものの人相と悪名は全国に知れ渡り人生が終了してしまう。


「だからってなぁ、同性ならまだしも俺は男だぞ?」


 渋る義明に、束は尚も懸命に説得を試みる。


「わ、私だって誰でもいいわけじゃありません! 確かに、女性の方が安心はできると思います。でも、貴方は抵抗できない私を前にしても襲いかからずに助けてくれました! それに家に帰ってから私、ふと思ったんです。この人なら大丈夫かもって。だからお願いします……! アシスタント、引き受けてくれませんか……?」


 なぜ見ず知らずの人間にここまで入れ込むのか、義明にはてんでわからなかった。彼女の信頼に値するほどのことをした覚えはない。束と釣り合うほど真っ当な人間でもなければ、善人にも悪人にもなりきれない中途半端な男なのだ。

 どうしたものか、と頭をかいて言い訳がましく言葉を並べる。


「それはそうだが……買いかぶり過ぎだ、たまたまかもしれないだろ? 興が乗らなかっただけ、気が動転してとりあえず助けただけ、三次元に興味がなかっただけ、性癖が特殊だっただけ……可能性なんていくらでもある。たった一度助けたくらいでどうしてそこまで信用できるんだ?」


 その言葉に、束は少しだけ考え込む仕草を見せ、


「じゃあ――確かめてみませんか?」


 決意の色を宿して、琥珀の瞳が煌く。

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