赤ずきんはナイチンゲール 〜孤独な怪物である俺の元に、口の悪い思春期少女が押しかけてきて、なんか命を救ってくれたりするお話〜

和田島イサキ

森の奥のかわいそうな怪物のおはなし

 薄暗い森の奥も奥、古いお屋敷にはこわい怪物が棲んでいて、里のかわいい子供をさらっては食べてしまう。


 そんなおとぎ話を真に受けるのは構わない。そのうえで「ならどうして私を攫いにこない?」とばかりに、自ら乗り込んでくるのも結構だ。いや、自分のことを「かわいい子供」だとしてはばからないのはどうかと思うし、そもおとぎ話の文脈でいう〝子供〟としてはだいぶが立っている気がしなくもないが、しかしどうあれこうして俺の目の前にいる以上、「いやーウチそういうのはやってないんで」とお引き取り願うわけにもいかない。

 怪物にも怪物としての立場というか、何かけんのようなものがあるのだ。

 ましてこんな見るからに生意気そうな、跳ねっ返りのクソガキだ。こんなものをそのまま何事もなく送り返した日には、一体どんな風評を立てられるかわからない。

 森の奥、はたには廃墟に見えなくもない我が屋敷。その一室、椅子の上で苦々しい表情のまま固まる少女に、俺は大きくため息をきながら尋ねる。

「お前さん、どうせ〝怪物〟というのを、何か毛むくじゃらの大きな獣か何かだと当て込んでいた手合いだろう?」

 そしてなんだかんだで実は心優しいというか、その異質な姿ゆえに人里を離れて暮らすしかなかった、そんな孤独なモンスターといろいろあって最終的に心を通わせたりする気満々だったろうお前——と、その言葉にしかし「いえ……」と曖昧な反応。とても意思疎通のできそうな様子ではないというか、もうあからさまにコミュニケーションを拒否しているのがわかる。それも怯えて目を背けるとかならまだしも、アテを外されたことへの不満が露骨に顔に出ていて、いや全部お前が勝手にやったことだよなあこの状況、と、そんな道理にはしかし何の意味もない。

 そりゃあ俺だって、できればモフモフの獣の方がよかった。それならまだいくらか愛嬌もあったろうし、また狼みたいなやつなら普通に格好良いと思う。が、しかし愛嬌があったり格好良かったりする生き物を、世人は決して怪物などとは呼ばない。子供を攫う恐ろしい化け物は、やはりその呼び名に相応ふさわしく、身の毛もよだつ邪悪な姿すがたかたちでなければいけない。

「悪かったね。ご期待に添えず、小汚い中年男性そのまんまの姿で」

 髪は薄く、腹のたるんだ、シワと体毛だらけの臭くて脂ぎった生き物。服装だってお世辞にも上等とは言えず、そんな文字通りの怪物の、でも一応椅子を勧めて話だけは聞いてやるというこの大人の対応に、それでもまだ「いえ……」と固く心を閉ざしたままの彼女。真っ赤な頭巾ずきんをこれでもかってほど目深に被り、とにかくこちらと目を合わせることだけはすまいと、ひたすら心を殺して時間が過ぎるのを待っている。この野郎。

 別に人間扱いしろとは言わない。こうして人とのかかわりを絶って暮らしている以上、怪物扱いは自ら望んだことでもあるが、にしてもせめて普通に怯えるとかの反応にとどめてほしい。下に見るな。それも露骨に、とにかく適当に生返事を繰り返せばなんとかなると、そういう本当に「ただのおじさんへの対処法」で乗り切ろうとするな。

 こういうとき、具体的には目の前の相手と、どう頑張っても意思の疎通が成り立ちそうもないとき。俺の側からできることというか、取るべき行動はただひとつ。

「いいだろう。じゃあお前さん、

 そこでようやく、まるで弾かれたようにこちらを向く彼女。見たところおおよそ十代の半ば、身なりもそこらの里の住人とは思えぬほど小綺麗にしていて、本当に何不自由なく育ったお嬢様という感じだ。少なくとも、今のところ、こうして単純な外見的印象のみで判断する限りは。断言はできない。勝手な予断で「どうせこいつは恵まれているんだろう」と、そう決めつけるのは——まあ赤の他人と思えば別に構わないのだが、それでも対話せんとする者の態度として——あまり望ましいものとはいえないだろう。

 俺は怪物かもしれないが、しかしそれはあくまで見た目と世間的な風聞に限ればの話だ。心まで醜い怪物になったつもりはない。だから脱げ。裸を見せろ。

「最低。このクズ。もういい、お前をブッ殺して手土産にする」

「馬鹿野郎。俺は医者だ」

 薄暗い森の奥の奥、まるで人目を避けるように建てられたこの屋敷は、知る人ぞ知る名医の診療所だ。

 そうだった。俺の知る限り、ちょっと前まで、少なくとも開設から数年の間は。それがいつしか怖い怪物の棲み家と、まあ地元ではそう言われている方が何かと都合がいいのはあるが、にしてもこれはさすがにあんまりだと思う。

 確かに、真っ当な医者じゃない。国からの免状はもう剥奪されて久しく、また法外な治療費のせいか金の亡者となじられることも多いが、それでも医者だという自負は最低限あった。それがこんな小娘、ただ自暴自棄と甘い目論見でのこのこやってきた見知らぬクソガキから、やれ**だの**だのそれとも**の***したクソ以下のクサレ****野郎だのと、とても人様にはお聞かせできないレベルの罵詈雑言を浴びせられ続けている。言い過ぎだと思う。普通に。

 あんまりだ。俺がいったい何をした。というか、こちらが何をどう反論しても全部「は? キモ」で完璧な返答とするのをやめろ。俺が医者であろうとただの不審者であろうと、また何を答えそこにどんな理や利があろうが、すべては「は?」であり「キモ」こそが唯一の真理である——と、そういう十代の少女独自のルールに逃げ込まずコミュニケーションを取れ。目の前の相手と。怪物と。そのためにわざわざ来たんだろうがお前は。

「まあいい。こんなところにひとりで来るような娘は、まず難病患者かそれとも何かから逃げてきたか、いずれにせよまずは診やめろオイ銃はせなんだそれバカか」

 本当に、何か獣ならよかった。それなら拳銃の弾程度は耐えられたはずで、だが悲しいかな俺はおじさんだ。背が低く、顔は豚かコウモリに近くて、そして小太りでうすらハゲだ。近頃は肌ツヤもめっきり悪くなって、なにより自分でわかるほどの加齢臭がしている。そう——臭いのだ。寝起きの、自分の枕が! こればかりはさすがにこたえたというか、これまで何人も診てきたあの悪趣味で醜怪な成金老人たちの、彼らに共通のそのニオイが自分から発せられているという、その現実のもたらす精神的ダメージのなんと無慈悲なことか。

 俺は医者だ。それも一部では名の知れた、こんな僻地でもやっていける程度には腕の立つ。医学にまつわる知識や技術、それさえあれば他は要らないと——俺はただ医の道を極めるためだけに生きて死にゆくのだと、そのニヒルでストイックな人生哲学が、でも寝起きの枕ひとつであっさりブレた。嫌だ。自分の体から、こんなにもリアルで濃厚な、おじさんそのもののニオイが漂うのは! どんなに腕が良かろうと、これまで何人の命を救ってきたとしても、しかしおじさんはおじさんでありすなわち「は? キモ」で片付く程度の存在でしかないのだと、もとより知っていたはずの現実が俺を打ちのめした。完膚なきまでに。ズタボロに。嘘だろ。一応わかっていたつもりなのに、でもそんな、まさか、ここまでとは。

 ——どうでもよかった。もはや、こうなっては、何もかもが。

 俺の眼前、真っ直ぐこちらに向けられた銃口。そしてその向こうの、もう完全に豚のクソか何かでも見るような瞳。何ひとつ感情の込もらない、いや、〝それ〟に対して何かを思うことすら、自分の神性が汚れるとでも言いたげな——いや本当、曲がりなりにも人であるはずの個体に向けていい目ではないと、そんな道理はしかし十代の娘には酷な話だ。

 わかるはずがない。小太りの短足の薄らハゲの、全身からおじさんそのもののにおいを撒き散らすその邪悪な汚物が、しかし自分やその友人らと同等の人格を備えているという事実は、しかし彼女の今日までの人生、わずか十数年程度の浅く薄い経験知からすれば、きっとどこまでも直観に反しているはずなのだから。

 わかる。だって死ねるもんならとっくに死んでる——というか、俺だって思ってた。

 きっと〝こう〟なる前には死んでる、って、その予定も覚悟もないのに、漠然と。

「いいだろう。診察は終わりだ。撃て。殺せェ!」

 そう叫び、目の前の銃身を右手に掴み、そのまま自分の左胸へと押し付ける。気づけば流れ落ちていたぼうの涙。限界だった。それでもこうして森の奥、他者の客観的な視線を避けて、孤独に生きている間はどうにか人間でいられた。しかし突然の闖入者、久々に向き合う羽目になったその他人は、俺を最後の頼みと縋る患者ではなく、なんか勝手に勘違いして乗り込んできたアホの小娘だ。バカだ。精神的な向上心の欠如した、世の中のことをなにひとつ知らない小便たれのジャリだ。もちろん俺のことだって何も知らない。名医としての評判や実績はおろか、人格や人柄といった曖昧な予断をすべて排したうえで、ただ単純な外見的印象のみの評価を下してくれる相手。これ以上ないほど公平公正な、であればこそどこまでも残酷なその審判者の、いよいよ下した最後の評決がでも、

「うっ!? クッサ! 口くさっ! オェェ」

 と——ウォァァァァもういい早く殺せェェェ!

 人間、ストレスが許容量の限界を超えると、自分が自分でなくなったかのような不思議な状態に陥る。初めて知った。涙は止まり、表情筋は死に絶え、手足の感覚がすうっと遠のく。たぶん死んだんだと思う。魂が。俺が俺であるための、何か自我の部分のようなものが。大脳新皮質が死んで残った脳の抜け殻、ただ生命維持に必要な生理をつかさどるだけのそれが、「逆に殺した方が早いのでは?」との結論を下す。

 なので、そうした。怪物、すなわち中年男性のいいところは、単純な暴力のフェイズで有利を取れるところだ。「ワァァ……ッ!」と叫んで手足を滅茶苦茶に振り回すだけで、十代の少女くらいは簡単に吹っ飛ばすことができる。もんどり打って床に倒れ伏す彼女の、でもこっちがびっくりするようなその表情。驚愕。まるで「何が起こったのか理解できない」とでも言わんばかりに目を丸くした後、一拍置いてようやく取り乱し始めるその様は——今日この日までの彼女の人生、いかに「他者による本気の暴力」というものから縁遠かったか、その恵まれた日常をそのまま証明していた。

「……は? え——はっ? はァァァッ?! キモいキモいキモいキモいキモい!!」

 およそ自分の理解を超えた現象、「格下のキモい存在であったはずのおじさんの、その暴力が自分の全力をあっさり凌駕した」という初めての現実に、ただひたすら不愉快さを表明することで対処しようとする彼女。これまでどんな不都合も打ち倒してきた無敵の呪文、「キモい」という万能のおまじないも、しかしこうなっては虚しく響くのみだ。

 悲しむべきことに——これは本当にただ己の恥を晒すつもりで告白するのだが——内心、ちょっと溜飲が下がった。スッとした。ザマアミロこのクソガキが、せいぜい世のおじさんたちの怒りと悲しみを思い知って、反省——はしなくていい、むしろそうやって何が悪いかわからんまま一生キモいキモい喚き続けて、でも泣き叫ぶだけでは当然どうともなってくれない目の前の現実に、この先ずっとひとりでイライラし続けて生きろ——と、おおよそそんな感じのスカッと妄想ストーリーを一瞬のうちに考えてしまった、その時点で俺はいよいよ本物の怪物に堕していたのだと思う。

 とまれ、事ここに至っては、もはや退がる道はなし。

 俺は医者で、そしてここは俺の診療所だ。薄暗い森の奥も奥、死神に魅せられてなお死にきれぬ迷い子が、いちの望みを託して叩く扉の先だ。であればこうしてこの屋敷を訪ねてきた以上、こいつは俺の診るべき患者に他ならない。

 床に這いつくばりギャアギャア醜く喚き散らすそれを、俺は改めて見つめ直す。

 歳の頃はおよそ十四、五ほど、おそらくは相当に恵まれた家の令嬢だろう。身を包む被服はどれも上等なもので、ことにその深紅の外套、フードとひと繋がりのそれがよく目立つ。床に突き飛ばされた拍子のことか、裾側はスカートごと大きく捲れ上がっており、そこから伸びた白くて長い脚の、その成長期の少女に特有の瑞々しく滑らかな柔肌——。

「違う。そうではない」

 俺は医者だ、と再びの釈明。仕方ない。だって急に「キモい」の連呼が止んだというか、サッと自分の太ももを隠す所作の、そのびっくりするくらいの迅速さと正確さ。今度は「は?」も「キモい」もなかった。人間、嫌悪感が限界を超えると、もう対象に対して言葉を発することさえ許せなくなるのだ——という、そんな感情がその幼い顔にありありと滲む。本当、つくづく、十代の娘とは大したものだと思う。実質的な無表情、そこにちょっと眉間の皺を足した程度の顔ひとつで、人ひとりの自尊心をこんなにもズタズタに破壊できるのだから。

 ギリギリ捨てきれずに残っていた人としての尊厳、そのすべてを犠牲にしたおかげで、しかしおおよその見当はついた。

 ——病ではない。

 健康そのもの、それは彼女の肌と容姿を見ればわかる。蝶よ花よと大事に育てられた、苦労知らずの恵まれた娘。何か虐待などの疑いもない、さっきのあの驚きぶりがその証拠だ。あの程度の暴力さえ理解できないほどに、手厚く保護され続けてきた人生。強いて言えば人間性が機能不全といえなくもないが、しかしそれも結局は年相応というか、要は「ただの思春期」のひとことで片付く。

 つまりは、いわゆる反抗期のいえ娘。

 気が抜けた。まあ仕方ない、何しろ自棄やけになって自ら怪物の家まで転がり込んできた女だ。一見健康そうに見えるのはたまたまで、こう見えて何か複雑な事情を抱えているのかもしれない——と、そんな淡い期待を捨てきれなかった、その時点で俺も彼女のことは言えない。同じだ。おとぎ話の怪物の存在を信じて、綺麗に死ねるかあるいは心を通わせられるかと、都合の良い夢を見てしまう少女と。現実は甘くない。クソはどこまで行ってもただのクソで、そして俺はそのまごうかたなきクソの塊を——。

 これから、どうにかして人へと完治させなきゃいけない。

 それが仕事だ。最低限、医者としてここに居を構える者の責務。無論、思春期を治すための処方はない。というか、治すべきものではない。知っている。だってそれは俺自身もまた通った道だ。彼女のそれと同じものではなくとも、いや同じでないからこそ手出しはできない。

 それはあらゆる人間が個々に患い、自分の生み出した幻想と戦って苦しみ、その末に乗り越えるべきものなのだ。

「戦え。逃げるな、現実を見ろ」

 もしない怪物を頼ろうとするな。自分を綺麗に殺してくれるか、でなくばお前を世界から守ってくれる、そんな都合の良い生き物はいない。ここにいるのはおじさんだ。おじさんから逃げるな。ただのおじさんの首を手土産にしたところで、お前は里の英雄にはなれない。成功は、知人友人からの信頼は、お前がその手で取り戻すべきものだ。だから、戦え。これ以上みっともない生き恥を晒して、情けなく逃げ回ろうとするな——。

 などと。

 そこまで堂々、長広舌をってようやく、俺は気づく。


 ——そんなことを偉そうに説教する、その資格が果たして今の俺にあるのか?


「は? キモ」

 その通りだ。キモい。この国の医療の現実に絶望し、誰もが羨む技量を持ちながら、ひとり深い森の片隅で世を儚むばかりの男。これを逃亡者と呼ばずしてなんと呼ぶ? 現実に怯え、惨めに逃げ回るうちに腹が出て髪も薄くなって、全身からおじさん臭をぷんぷん振り撒く、その身体的な変化そのものはこの際いい。問題は、そうなるまで何もしてこなかったことだ。心身の劣化を「人生の足跡」と言い換えられるだけの、努力とその結果の積み重ねを放棄したこと。いや稀に訪ねてくる患者を救いはしたし、それは他の医者にはできないことだと自負してもいるが、でも例えば「他にもっとやり方があったよね?」という、その正論に俺は「うるさい黙れ、もう殺せ」以外の答えを持たない。

 富める者には相応の責任がある。金銭的な財のみならず、若さや容姿の美しさもまた富であるなら、俺の医者としての能力もまたそれと同じだ。人のことは言えない。こいつがクソなら俺もクソだ。気づきたくなかった。こいつが俺の鏡像だという事実に。今日この日までは気づかずにいられた。ここを訪ねてくるような人間は、誰もが俺のことを先生と崇め、最後の希望として縋っていたから。それも、おそらく、本当は口が臭いのを我慢して。畜生。

 とみは、優位は、強さは、毒だ。人をこうも容易たやすおごらせる。知っていたはずだ。賢い自分だけはわかっていたつもりで、しかしその甘く都合のいい誘惑の、その追撃から逃れ得る人間はいない。

 ——もういい殺せ。

 とは、もう言えない。

 それこそが逃げだ。それしか打つ手のないものがその手段を取るのはまだしも、富める者が矜持と責任を投げ捨てて逃げる、そういう振る舞いを人は恥と呼ぶ。改めて思う。やはり怪物にも怪物としての立場、最低限の沽券ってものがあるのだ、と。

 やらねばならない。やれることを、なすべきことを。医者として——まだギリギリ、この怪物としての意識の片隅、医者としての俺がまだ残っているうちに。

 立ち上がる。

 ボロボロの汚れた部屋着の上、壁にかけてあった白衣を羽織り、そして、

「まったく、お前さんは運がいい。俺」

 そこまでだった。


 ——パァン。


 と、乾いた音。

 俺の眼前、こちらに向けられた銃口から、かすかに立ち昇る白い硝煙。


「ハッ、ハッ、ハァッ」

 蒼白な顔で震える少女。恐怖に見開かれた目からは涙が溢れ、もう完全に怯え切っているのが見て取れた。そんなにか。今の今まで目が死んでいたおじさんが、突然人が変わったみたいに瞳をキラキラさせて、やる気満々に明るい夢を語り始める、その様子は発砲するほどに怖いかっていうかお前、

「お、これ、腹に穴」

「ああああキモいキモいキモいキモい!」

 二発、三発。歯の根をガチガチ言わせながらのその追い討ちは、でも見当違いのところに飛んでいってくれて助かった。痛い。腹が。普通に穴が空いていて、どう見ても緊急手術の必要がある。きっちり医者の目線でそう判断できる、その意識が俺に自信をくれる。やれる。都合の良いことに腕は無事だ、そして頭もしっかり冴えているなら、やっぱり俺はなかなか〝持ってる〟んじゃないか?

「緊急手術! おいクソ、手伝え!」

「は!? キモい!」

 自分で自分の腹を切開する、そんな芸当はおとぎ話の中だけのことかと思った。そうでもなかった。やってみると案外サクサクいけるもんだな、という感想はでも、よくよく考えてもみれば因果が逆転している。どうにかなるのではなく、するしかない状況であるが故だ。

 目の前に勝手に迫ってきた現実に対して、もとより「逃げる」という選択肢がないなら、あとはもう「やる」か「死ぬ」かしかない。だからやった。死ぬのはしゃくだ。さっきまで散々殺せと喚いておいてなんだが、いざ死にかけてみるととりあえず「まあやるだけやってみっか、医者だし」と、そんなスケベ根性が湧いてくるのだから不思議なものだ。

「おっ、いいぞ! おい見てみろ、臓器はどこも傷ついてない! イエーイ!」

「キモいキモいキモいキモいキモいキモい」

 そりゃそうだ。初めて見る人間の腹の中がキモくなかろうはずもなく、というか本当にしっかり覗き込んでいるのだからこいつも大したものだ。いや「見てみろ」と言ったのは俺なのだが、しかしそこまでじろじろ見られるとそれはそれで恥ずかしい。ましてこんな汚いおじさんの腹の中を——と思ったが、正直なところ裂いてしまえば中身に大差はない。人間は等しくクソ袋だ。むしろ外側はこんなに小汚いのに、どうして内側ばっかり綺麗なピンク色してんのと、そう思うと微妙に腹立たしくすらある。いっそ裏返して縫った方が好かれるのでは?

「よし、弾も取れたし閉じるぞ。だからもう離れろ、十分見たろ。針取ってくれ針」

「は? キモ」

 しかしこの少女、なんだかんだで手伝ってくれるのもすごいが、思いのほか優秀なのがまた感想に困る。さすが良家のお嬢様は育ちが違うというか、こんな未経験の状況にも対応できるのだから見上げたものだ。器用だ。実はたまたま適性があっただなどと、そんな都合のいいおとぎ話は信じない。天才も怪物も、最初からそこにいるわけではなく、ただ人が見出し作り出すものなのだ。

「お疲れ様だったな。殺す才能はなかったようだが、人ひとり助けたぞ、お前さん」

 臓器さえ無事なら大した手術にはならない。あっさり縫い終えてのその労いの言葉に、彼女は初めての照れ笑いを見せ——るようなこともなく、案の定「は? キモ」と返すのみだった。まあ気持ちはわかる。自分でも大概キモかったと思うし、なによりそれどころじゃなかったのだろう。初めての手術に初めての臓器、その鮮烈な印象がそのまま焼き付いたかのような爛々とした瞳が、彼女のテンションが尋常でないことを如実に表している。

「どうだったね。普通に生きてたら見られないものだったと思うが」

 と、そう尋ねようとして、でもやめる。よく考えたら見られないこともない。実際、彼女が俺のと御対面することになったのは、彼女自身の放った銃弾がきっかけだ。つまり、撃てばいい。それだけで中を見るための口実ができる——と、そんな事実はわざわざ強調しない方がいいような気がした。たぶん。

 結局のところ、この娘はそう悪い人間ではないのだと思う。

 確かに性格はクソそのものだし、思春期ならではの見識の狭さは取り繕いようもないが、しかし彼女の働きそのものは見事だった。それに、「手伝え」「見てみろ」と、ただのおじさんが勢いだけで放った命令を、流れでそのまま聞いてしまうその素直さも。要は「俺なんかの言うこと聞いてくれたから」ってことで、その程度でコロリと態度を翻してしまう、そういうところがまさにおじさんのおじさんたる所以ゆえんなのだが——。

 わかっている。夢の時間はもう終わって、今はただその余熱があるだけだ。どんなに腹の中が綺麗なピンク色であろうと、しかしこうして閉じてしまえば、そこに残るのはただのおじさんなのだから。

 ——〝おじさんから逃げるな〟。

 その言葉は、覚悟は、誰より俺自身の受け止めるべきものだった。

 自分がいつか必ずおじさんになるという運命さだめ。その現実を見たくないばかりに人を遠ざけ、だがその一方で完全に開き直っていた。ふてていた。少しでも生き足掻くべきところ、自分の〝おじさん〟を「だって実際おじさんだから」と、そのひとことで全部投げ出してきたのだ。

 人間、どう足掻いても最後は必ず死ぬが、だからって生きるの無駄だし諦めちゃえばと、そう患者に勧める医者がどこにいるというのか?

 生き足掻け。己のおじさんに最後まで抗う、その筋道こそを人は人生と呼ぶのだ。

 そんな話を、彼女に直接したわけじゃない。どうせわからない。彼女はおじさんではないのだから。このどこまでも若く美しい可能性の塊に、俺なんぞの言えることはひとつ——。

 やれやれ、と小さくため息をひとつ。そのまま傍らの彼女に目をやり、そして。

「——ヒィッ?! 化け物?!」

 素だった。普通におしっこちびるかと思った。血のように赤いフードの奥、未だ散大したままのギラつく瞳孔。ハッ、ハッ、と浅く早い呼吸に、白く細い指先がブルブル震えるのが見えて、こんなものは誰がどう見ても怪物、森の奥の恐ろしいモンスターだ。


 ——食われた。

 まだかわいい子供だったはずの精神が、何か目覚めてはいけない心の闇に。


 思わず、笑う。あまりにできすぎた結末は、しかし実のところ嫌いではない。

 この娘が将来、夜な夜な人の腹を裂いて回る本物の怪物となるか。それとも命の恩人として感謝されながら人の腹を裂いたり閉じたりする方の怪物になるか。その瀬戸際にたまたま俺がいる。

 面白い。

 俺が自分の〝おじさん〟から逃げ続けて、それでも逃げられない人生を送るように。

 こいつはこいつの魂の片隅、いま芽生えてしまった黒い怪物と、一生追いかけっこの人生を送るってわけだ。

 悪くなかった。「は? キモ」というその言葉は、でも俺と彼女の間に初めて成り立った会話だ。はっきりこちらの目を見ながらのひとことに、俺は返すべき言葉を未だ持たない。おじさんだから。余計なことは言わない。ただたまたま、仕方なく、隣にいるだけでいい。

 ——不思議なものだ、と恥ずかしながら、この歳になって初めて気づく。


 逃げ続けた人生、だが共に逃げ回るともがらひとりいるだけで、見える景色はまるで違っていた。




〈赤ずきんはナイチンゲール 〜孤独な怪物である俺の元に、口の悪い思春期少女が押しかけてきて、なんか命を救ってくれたりするお話〜 了〉

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