バッケオン湖のナバルトーテナ
バッケオン湖には怪物が棲む。
昔から、このキリテム地方で言い伝えられてきた伝説だ。
12歳の少年、クルージ・ストラートはその伝説を心の底から信じていた。
そして、その上で、彼はバッケオン湖の怪物に会いたいと願っていた。
怪物に会えば、彼の願いは叶うと信じていたからだ。
クルージ少年は、バッケオン湖に潜む怪物はナバルトーテナだと予想していた。
ナバルトーテナは古来キジリスティア文明で神として崇められていたナバルシッテナの化身とされる。
ナバルシッテナは端的に言えば恋愛の女神だ。
そして、その化身であるナバルトーテナもまた、恋愛に関連する能力を持つとされていた。
伝説に曰く、ナバルトーテナは5メートルほどの巨大魚であり、その鱗には人の心を惑わす魔力がある。
特にその鱗は恋愛ごとに対して強い効力を発揮し、その鱗をアクセサリーにして身に着ければ、その魔力が異性を惹きつけるという。
そう、クルージはモテたかったのだ。
ある日曜の昼間、バッケオン湖の湖畔をクルージは訪れた。
クルージが持った小さなカバンには、小麦を練った生地を網目状の形にして焼いたパン『ナルシッタ』が3つ入っていた。
これは女神ナバルシッテナの好物とされる食べ物で、つまりナバルトーテナも好きなはずだ。
クルージはこのナルシッタを使って、バッケオン湖のナバルトーテナを呼び出そうとしていた。
空が曇ってきた。
雨が降る前に終わらせようと、クルージは急いで儀式の真似事を始めた。
水際すれすれの位置に、ナルシッタを一つ置いた。
それから、別のナルシッタを湖に力いっぱい投げ込み、そして最後の一個は自分の手に持った。
たったこれだけの手順だが、クルージにとっての儀式は完了した。
彼の考えでは、投げ込んだナルシッタに気付いたナバルトーテナが湖の底から浮上し、水際に置かれたナルシッタに引き寄せられて岸に姿を現す。そうしたら、手に持ったナルシッタを出してナバルトーテナの気を引き、鱗を掠め取ろうという算段だった。
数十秒ほど、彼は湖畔で待った。
空からはポツリと、雨が落ち始めた。
湖面に広がる雨の波紋をクルージが見やった時、異変に気付いた。
湖面全体が大きく震え始めているのだ。
低い振動音が聞こえる。
クルージは息を呑み、そして笑った。
彼の望み通りに、ナバルトーテナが姿を現すと思ったからだ。
水面の下に、黒い影が浮かび上がった。
そして次の瞬間、水上に巨体が姿を現す。
その姿を見た瞬間、クルージの笑みは凍り付いた。
現れたのは巨大な魚ではなく、大きな鳥だった。
極彩色の七色の鳥。
水中から現れたそれは、濡れて、毒々しく輝いていた。
怪鳥はまっすぐにクルージを見据えると、彼の方へと飛びかかってきた。
悲鳴を上げて彼は逃げようとするが、鳥の鋭いくちばしに襟首を捕まえられ、一瞬の後にはクルージは持ち上げられていた。
怪鳥は彼をくわえたまま、一度大きく湖の上空を旋回する。
そして、垂直に湖へと落下していく。
迫りくる湖面を見ながら、恐怖のあまり絶叫しながら、クルージは理解していた。
女神ナバルシッテナは、恋愛の神であると同時に、豊穣を司る神でもある。
そして、食物を粗末にする者に罰を下すのが、ナバルシッテナの化身である巨鳥クルオジスッテナだ。
だから、ナルシッタを湖に投げ捨てたクルージに罰を与えるために、クルオジスッテナが現れたのだろう。
怪鳥は湖へと飛び込む。
大きく一度水しぶきが上がり、そしてその波紋は消えた。
雨がいよいよ本降りになってきた。
上空では雷も閃いている。
湖の中からかすかに響く少年の悲鳴は、雨音と雷鳴にかき消され、どこにも届かなかった。
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