第39話



脳裏に安堵の涙を流す聖女ベティの顔が浮んだ。彼女が私を殺そうとしただなんて思いたくない。

それが顔に出てしまったのだろう。殿下は私の顔を見て舌打ちをした。



「…300年前、聖女がお前に何をしたか忘れた訳じゃないって言ってたよな?なのに何でお前は聖女の肩なんかを持つんだよ。」



射貫くような鋭い視線と苛立ちを隠さないその声に身体が竦んだ。だが、ここで怯んでしまったら以前と一緒だ。どうにかして自身を奮い立たせ口を開く。



「私の中でマリーと聖女ベティが繋がらないのです。」

「アイツがマリーじゃなかったとしても、聖女を信じんな。今はあぁして猫かぶってやがるが、いずれ昔みたいに…」



そこまで言って殿下は口を閉じ、バツが悪そうに視線を逸らした。いつも彼はそうだ。300年前の話題になるとこうして口を閉じる。



「昔みたいにって…何ですか?」

「何でもねぇーよ。忘れろ。」

「殿下。」



咎めるような口調で殿下を呼びじっと見据えたが、目は逸らされたままだ。



「前にも言っただろ?お前は知らなくていいんだよ。知らない方が幸せだ。」

「幸せかどうかは殿下ではなく私が決めることです。」



私の言葉に殿下は弾かれたかのように顔を上げ、その見開いたサファイアの瞳に私を映した。

彼が私のことを思って言ってくれていることは分かる。だが、それは彼の独りよがりだ。



「殿下、私は知りたいのです。300年前、私が処刑された後に何があったのか。」

「……なんで、そんなに知りたいんだよ。300年も前のことなんだぜ…?」



そう言う彼の瞳は戸惑いに揺れ、顔を引き攣らせた。彼のこんな姿は初めて見る。



「殿下…。」

「もう終わったことなんだよ、エリザ。だから過去を気にする必要なんてないんだ。お前はエリザベータ=コーエンじゃなくてエリザベータ=アシェンブレーデルなんだから。」



少し掠れた声で殿下は私に訴える。その姿はまるで母親に縋りついてくる幼い子供のようだ。いつもとは違う彼の様子に少々驚くが、不思議と私の頭は冷静だった。ひとつひとつ、彼の言葉を解釈していく。


終わったこと?過去を気にする必要はない?



―違う。



「殿下、まだ終わっていません。」



私の言葉に殿下の瞳は驚きの色を見せた。



「300年前のことは私の中でまだ過去のものになっていません。」



そう、なのだ。私はずっと300年前に囚われている。もし、彼の言うとおり過去のものであるのなら、アルベルト様を思い出してもこんなにも心が痛むことはないだろう。私の中で彼はまだ生きているのだ。



「殿下、お願いします。何があったのか教えて下さい。でないと私は…いつまで経っても前に進めない…」



私は殿下の両腕を掴み、縋るように懇願する。


モニカの記憶を持つ殿下が私の前に現れなかったら、きっと私はここまで強く300年前のことを知りたいとは思わなかっただろう。


私には義弟しか居なかった。義弟との小さい世界しか知らなかった。

義弟は優しいからきっと殿下と同じように、過去なんて知らなくてもいいと答えるだろう。そうして私はそれに甘えてズルズルと楽な方に進み、300年前から目を背けるのだ。

だが今ならそれが、なんの解決にもならないことがわかる。


目を背けるのではなく、ちゃんと過去に何があったのかを知り300年前のことを私の中で過去のものにて…終わらせる。私の中で生きているアルベルト様を殺すのだ。


そのためにはテオドール殿下が必要だ。彼しか頼れる人が居ない。モニカの記憶を持つ彼は私にとって光であり、鍵なのだから。



お互いを見つめたまま、二人の間に静寂が訪れる。その静けさに自身の心臓の鼓動がやけにはっきりと聞こえた。

この永遠にも続きそうな時間を破ったのは殿下だ。彼は大きなため息をつき、じっと私を見据える。その瞳は先程までの戸惑いの色は見られず、いつものように自信に輝くサファイアの瞳に戻っていた。



「馬鹿エリザ。」

「いたっ。」



彼はそう言って私の額にデコピンをしてきた。痛くはなかったのだが、思わず両手で額を押さえる。殿下は腰掛けていたベッドから降り、ベッドに座ったままの私を見下ろした。



「明日、皇宮に来い。」



いつものニヤついた笑みを浮かべ、突然私に命令してきた殿下を私は呆けた顔で見上げた。急に何を言い出すのだろうか。



「ちょうど明日は学校が休みだ。良いぜ、300年前のこと教えてやるよ。あ、この前みたいに弟クンを連れてくるとか無粋なことすんなよ。萎えるから。」

「本当ですか!」



殿下の思いもよらない言葉に驚きの声を上げる。あんなにも頑なに話さなかったというのに…



「嘘言ってどうすんだよ。」

「ですが、明日でなく今でも…」



私は今すぐに知りたいのだ。その意志を込めて殿下を見上げるが、殿下は何故かニヤリと下品な笑みを浮かべた。



「んだよ。エリザちゃんは俺と一緒に朝を迎えたいわけ?」



彼の言っていることが分からずキョトンとするが、はっと彼の言葉に含まれる意味に気付き顔を赤くした。



「ははっ、なぁに考えてんだよォ。」

「なっ」



私は咄嗟に枕を掴み持ち上げる。



「そうやってすぐ手が出るところは悪いところだぞ、エリザ!じゃ、明日絶対に来いよ。あ、来なかったら着替えをしているタイミングで転移してやるからな。」

「出ていってくださいっ!」



私は殿下めがけて思いっきり枕をぶん投げた。だが当たる寸前で殿下は消え、枕はそのまま宙を舞い虚しく床に落ちた。

再び寝室には静寂が訪れる。



―何だかどっと疲れたわ…。



軽くため息をつき枕を回収しようとベッドから降りるとふと、自身の身体が視界にはいる。今まで気付かなかったが、胸元のリボンが解けおり谷間があらわになっていた。きっと暴れた時に解けてしまったのだろう。こんなはしたない格好で今まで殿下の前に居たのかと私は頭を抱えた。



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