グラーツ幻想曲
増田朋美
グラーツ幻想曲
雨が降って、やっと秋らしい気候になってきた。外へ出るとなんだか寒いなあと思われるようになり、和装コートの出番という季節になってきた。
その日も製鉄所では、杉ちゃんが水穂さんにご飯を食べさせようと、躍起になっているところだった。そうしていると、いきなりインターフォンの無い玄関がガラッと開いて、
「こんにちは、桂です。右城先生はいらっしゃいますでしょうか?」
と、桂浩二の声が聞こえてきた。
「あら、浩二くんだ。どうしたのかな?今日は来訪する予定は入っていなかったのだが?」
杉ちゃんと水穂さんは不思議な顔をした。
「すみません。突然お邪魔して申し訳ないのですが、彼女の演奏を見てやっていただきたいんです。彼女の名は、島かよ子さんです。」
そう言いながら浩二は一人の女性を連れて、四畳半に入ってくる。杉ちゃんたちはその女性を観察した。世の中を甘く見ているようなチャラい女性という雰囲気ではなかった。どこか自信がなさそうで、いつも、卑屈な目をしていなければならないことを強いられているようなそんな雰囲気がある女性である。
「曲は、シューベルトのグラーツ幻想曲です。シューベルの作品ではないとする説もありますが、普通にシューベルトの作品として扱ってもいいのではないかと思いまして、これにしました。」
そう言って、浩二は彼女に、自己紹介するように言った。
「はじめまして。島かよ子です。ピアノをやりはじめて、10年ほど経ちましたが、まだちゃんと弾けていません。全然上手くないですけど、聞いていただけたら嬉しいです。よろしくおねがいします。」
島かよ子さんはちょっと恥ずかしそうに言った。
「はいよろしくな。僕は影山杉三で杉ちゃんって言ってね。こっちが親友の磯野水穂さんね。旧姓は右城だけど、今の姓は磯野だから間違えないでね。」
杉ちゃんがそう言うと、かよ子さんははいと言った。そういうかよ子さんは、喫煙者なのか、タバコのニオイがした。それもかなり大量に吸っているようで、離れたところでも匂いがする。最近は、女でもタバコを吸う人は居るが、それでもかなりヘビースモーカーのようだ。
「それでは、手っ取り早く演奏に入らせていただきましょうか。ちょっとこのピアノで、グラーツ幻想曲を弾いてみてください。間違いとか、そういうものは気にしないでとにかく最後まで弾いてください。」
浩二に促されて、島かよ子さんは、ピアノの前に座って、ピアノの蓋を開けた。そこに、グロトリアンというロゴが見えたので、
「こ、こんな高級なピアノ、私には勿体ないと思うのですが。」
と、かよ子さんはすぐ言うのであった。
「いや、大丈夫だ。お前さんの言うようほど、立派なピアノではないよ。まあとりあえず、弾いてみてくれ。結論を出すのはそれからだ。」
と、杉ちゃんがいうので、島かよ子さんは、ピアノを弾き始めた。はじめは穏やかな分散和音で曲が始まり、半音階を経て、ポルカ風の可愛らしい旋律になって、その後は、ちょっと悲しげな物悲しい半音階が続き、それ以降は6連符が出てきたり、行進曲風の旋律になったり、また半音階に戻ったり、バラエティに富んだ曲になっている。そして、最後にまた分散和音で、静かに曲を閉じる。
彼女の演奏は、たしかに音の間違えで、演奏が止まった事もあったが、それでもちゃんと演奏はできていたし、しっかりキーを押して音になっていた。ピアノを弾くに当たって、音になってない人もたくさんいたけれど、彼女の演奏は、ちゃんと演奏はしっかりできていた。杉ちゃんも、水穂さんも、浩二も拍手をした。
「すごいじゃないですか。こんな長い曲を、よく弾けますね。なにか、ピアノの発表会でも有るんですか?」
と、水穂さんが、彼女に言った。
「そういうことじゃないんです。コンクールがあるわけでもないんです。ただ、ピアノが好きで、ずっとやって居るだけです。」
と、彼女は、ちょっと恥ずかしそうにいった。
「それでもいいじゃないですか。ピアノが好きなら、それでいいと思いますよ。好きでやっているんだったら、それでまた何かに繋がるかもしれない。それがいつどうなるかわかりませんが、とにかく、続けて行くことが大切です。頑張ってください。」
水穂さんが、優しくそういう事を言った。
「ほら、右城先生もそう言ってらっしゃるじゃありませんか。あなたはそれだけで、ちゃんとやれているんですよ。しっかりやっていきましょう。」
浩二は、彼女に言ったのだが、かよ子さんは、まだ自信がなさそうであった。
「まあ多少の音の間違いはあるが、ちゃんと弾けているとは思うけど、なんでそんなに自分への自信が無いのかな。もしよかったら、ピアノのサークルとか、そういうところに参加してさ。ほかの奴らに見てもらうとをしても、いいと思うけど。それは、しないのかな?」
杉ちゃんがそうきくと、彼女は、
「私にはそんな資格ありません。そんな事を言っていたら、私を養ってくれている両親にも、申し訳ないし、親に迷惑かけて、自分だけ楽しい事をしていたら、それこそやってはいけないと思われますし。」
というのであった。
「だ、だけどねえ。それは、悪いことじゃないと思うし、居場所があったほうが、ご両親も喜ばれるよ。それは、持ってもいいと思うけど。」
杉ちゃんがまたいうと、
「でも、そういう事したら、親に迷惑かけて、自分は好きなことばかりしている悪いやつだといわれるんじゃありませんか?」
と、彼女は言った。
「それ、だれが言うのかな?言ったやつの名前を言ってみな?」
「具体的に名前があるわけではありませんが、世間がそう言って居ると思います。テレビやラジオのアナウンサーとか、そういう偉い人たちは、みんなそういう事を言うじゃないですか。親と早く離れて、自分でお金作って、それができることこそ、正しい生き方だと。」
杉ちゃんがそう言うと、彼女はそういうのだった。
「で、でもねえ。僕達みたいに、歩けなかったりするやつも居るわけだからね。そういうやつも居るんだからさ、お前さんはまだいいほうだぜ。自分で歩けるんだからな。僕達みたいに、階段の上り下りで、大金払う必要もないんだからな。まあ、僕達は、お金を払わないと暮らしていけないから、そうするけど、お前さんは、まだそれ以上の事ができるわけだからな。」
彼女の考えは、半分正解で半分不正解のようなところがあった。一昔前の、国家総動員法のようなものがあったなら、働くことが人生のすべてと断言できるかもしれないが、今の時代はどこにもそういう基準はない。だから、いろんな人がいていいと思える社会なのに、それはできない人が多い気がする。
「で、音楽は、いつからやり始めたの?」
杉ちゃんが質問すると、彼女は、幼稚園のことからだといった。そこから、音楽学校の先生に習った事もあるという。つまり、一度は専門家を志したのかもしれなかった。
「それで、お前さんは、いつ音楽を目指して、いつ挫折したんだ?」
と、杉ちゃんがまた聞くと、
「ええ、高校生のときでした。ピアノと勉強が両立できなくて。ピアノばかりやっていて、試験でいい点数をとれなかったんです。それで、この学校から出ていけと担任の先生に叱られて。それで自殺未遂して、2年くらい精神科にいました。」
と、彼女はしゃくりあげながら答えたのだった。
「そうかそうか。それでは、お前さんの人生は、たしかに花を持つことはできないわな。杉の木や、松の木の様に高くてかっこいい世界へ出る事もおそらくないだろう。でもね。お前さんは、そういう生き方しかできないとしても、居場所くらいは持っててもいいんじゃないの?それは、間違いじゃないと思うけど。人間だれでも、自分の意思を通し続けられるやつなんて、そうはいないと思うよ。みんなどっかで、やりたかったけど、やれなかったなって事はあるんじゃないかと思うんだよね。まあ、こんな事言っても、お前さんには通じないと思うけどな。お前さんはきっと、自分だけが、いらない存在だと思っているだろうから。」
杉ちゃんの言い方は、内容は確かに的を突いているのであるが、その言い方があまりに乱暴で、なんだかヤクザが喋っているような感じもあった。もうちょっと杉ちゃんが言い方を変えてくれれば、いいのになと浩二は思うのだった。
「それにな、お前さんをここに連れてきた浩二くんだって、お前さんには、ピアノが弾けるって確信したから、ここに連れてきたんだと思うぜ。な、そうだろう?」
「それはどうなんでしょうか。私はただ、ピアノを習うだけで十分だと思っていたのに、桂先生が、今日ここで演奏しようと言うから。」
そういうかよ子さんに、
「少なくとも、浩二くんは、お前さんの演奏を認めていると思うけど。どうだ。一度でいいからさ、発表会とか、コンクールに出てみないか。曲は、さっきのグラーツ幻想曲でいいよ。それでさ、一度人前で弾いてみて、自信をつけたらどうなのよ。それができたら、やっぱり私は音楽ができるんだって、嬉しくなって来るし、自信もつくと思うんだけど。」
と、杉ちゃんはいった。
「そうですよ。僕も杉ちゃんと同じ意見です。だからこそ、今日は誰か別の人に見てもらおうということで、ここへ連れてきたんじゃありませんか。それで、演奏ができたんですから、ぜひ、今年のコンクールに出場してみましょうよ。そうすれば、自分は音楽をやっていてよかったと思いますよ、きっと。」
杉ちゃんの話に、浩二はすぐに賛同して彼女に言った。浩二としては、この女性には演奏技術もちゃんとあるし、彼女は、コンクールに出てもおかしくない存在であることを、自分で認識してもらいたかったのだ。それをしてもらって、自分がピアノ教師としての名声をあげられるという事もあるが、浩二はそんな事はまるで興味がなく、とにかく、かよ子さんに、自信をつけてもらいたいということだけであった。
「ほら、浩二くんもそう言っている。コンクールで一度グラーツ幻想曲を弾いてみるといいよ。コンクールも、ピンからキリまで、くさるほど有るからな。有名なコンクールじゃなくたっていい。自信をつけるためのコンクールだっていっぱいある。」
「それはどうかな、杉ちゃん。」
杉ちゃんの話に、水穂さんがそういった。
「たとえ、そういうところで優勝できたとしても、人間的に成功する人は、本当に少ないし。それで成功しても、幸せになれるとも限らない。今、平穏に暮らして居るのなら、それをぶち壊してしまうような事は、しないほうがいいと思う。」
「それは、水穂さんの見識だろ。水穂さんの話をしているわけでは無いんだよ。今は彼女の話をしているんだ。水穂さんはその当たりをごっちゃにしてしまうところがあるが、彼女と水穂さんとは、根本的に違うんだと言うことも覚えておいてね。」
杉ちゃんは、水穂さんの話をすぐに打ち消すように言った。
「そうだね。確かに、僕と彼女は、明らかに違う。僕が、しなければならなかった事を彼女は、しなくてもいいと言うことになるから。それは、いくら僕が心配しても、関係ないことだ。やっぱり気にしなくていいことなのかもしれないね。」
水穂さんは、ちょっと、悲しそうに言った。
「まあ、水穂さんは、そうなのかもしれないけど、彼女は、水穂さんとは違うからね。そこを、混同しないようにしてくれよ。じゃあ、浩二くん、近日に行われるコンクールで、彼女が出られそうなものはないかちょっと調べてみてくれ。」
と、杉ちゃんが言うと、浩二は、スマートフォンですぐに調べ始めた。こういうふうに、すぐに情報がはいってしまうのも今の世の中だ。水穂さんたちが住んでいた世の中と違うところは、そこかもしれなかった。
「ああ、ありますね。えーと、カワイの主催で、アマチュアのためのピアノコンクールが来月にあって、今出場者を募集しているそうです。これなら、参加資格はだれでも参加できますし、年齢制限もありません。まあ、色んな人が出ると思いますけど、どうですか、一度出てみませんか。」
浩二は、スマートフォンの画面を見せた。課題曲も特になく、15分以内であれば、どんな曲でも演奏していいという。
「いいじゃないか。ぜひ、申し込んでみてくれよ。年齢も学歴も問わないんだったら、それこそいいチャンスじゃないかよ。」
杉ちゃんにいわれて、浩二は、メールで申込みができるといった。確かに、メールで申し込む画面もあった。参加費は、指定された口座に振り込めばいいだけだ。それにさほど高くはない金額だった。会場は、富士市内の文化センター。そこへのアクセスは、富士駅からバスで行けば全く問題はない。そういうふうに何でも楽に移動できるし、参加費の振込も、銀行のATMを使えば全く難しいことはない。浩二にスマートフォンを見せられて、かよ子さんはわかりましたと言って、参加を希望するメールを送った。参加費の振込も、自分でできるから大丈夫だといった。バスは、富士駅から少なくとも一時間に二本か三本は走っているので、車に乗れない彼女も、文化センターに行くことができる。浩二も杉ちゃんも、彼女がやっとまえむきになってくれて良かったと頷きあった。浩二は、彼女はレッスンにもちゃんとくるし、練習もちゃんとやってくるから、どこかで発表の場を持たせてやりたかったという裏話を杉ちゃんに語って聞かせた。水穂さんだけが、軽く咳き込みながら、心配そうな顔をしていた。
さて、月日が経つのは速いものだ。かよ子さんが、申し込みをしたコンクールの日がやってきた。申込みの返信メールから指示されたとおり、彼女は、コンクールの会場へ行き、グラーツ幻想曲を演奏した。結果は、順位に入ることはなかったが、それでも、好演賞に入ることができた。
その日も、杉ちゃんは、水穂さんの世話をするために、製鉄所に行った。杉ちゃんが水穂さんのからだを清拭して、着物を着せてやると、水穂さんは、力のない顔で、
「そういえば、今日だったよね。あの、島かよ子さんの結果発表。」
と、言った。
「そうだねえ。」
と杉ちゃんは、いつもと変わらない様子で、そういう事を言った。そういうところは変わらないのが杉ちゃんである。何があっても平気な顔で居るのが杉ちゃんだった。なので時々、肝心な事を見落としてしまうようなところもあった。ど、同時に、インターフォンの無い玄関ががらっと開いて、
「おはようございます!今朝のローカル新聞みましたか?島かよ子さん、無事にコンクールで好演賞をもらいました。今日は、凱旋演奏ということで、こさせてもらいました!」
と、元気よく浩二がやってきた。それと同時に、島かよ子さんが、こんにちはという。何だ、好演賞をもらったというのに、あまり嬉しそうな顔ではなかった。二人が四畳半にやってきたのを見ると杉ちゃんは、
「何だ。あんまり嬉しそうじゃないな。」
と島かよ子を見てそういう事を言った。
「好演賞をもらったんだったら、素直に喜べばいいじゃん。それの何が悪いんだと言うんだよ!」
「ええ、あたしは、なんでこんなに運が悪いんだろうと思ったんです。」
と、かよ子は、小さな声で言った。
「はあ、なにかあったのか。隠さずに話してみな。」
杉ちゃんにいわれて、かよ子は恥ずかしそうな顔をした。
「恥ずかしがらなくたっていいんだよ。人間にできることは、事実に対して何ができるのかを考えることだけだ。それでいいじゃないか。そのためにはまず、事実を話すことが必要なんだよ!」
「はい、コンクールの会場で、私の同級生に会ってしまったんです。その人は、ちゃんと自分で家を買って、結婚して子供もいて、自立して暮らしていました。彼女は、私に、かよ子さんまだ音楽やってるの?と言いました。そんなもの早く手放して、生活保護を受けることを考えたらって、私に言ったんです。」
と、かよ子は、泣きながら言った。
「そんな事があったんですか。僕にはなにもいわなかったのに。なんでそういう事を隠してしまうんですか?」
浩二はなんだか裏切られたような気分で、かよ子に言った。自分としては、なんのためにかよ子に指導をしてきたのか、わからなくなってしまいそうだった。
「だって、先生は一生懸命教えてくれたから、私は、申し訳なかったんです。」
と、かよ子はいう。
「そんな事、隠さないでちゃんと話してくださいよ。そんな事いわれたら、対策を考えることもできたのに。なんで賞をもらっても嬉しくないのか、僕にはわかりませんでした。そんな考慮はしなくたっていいです、かよ子さん。なんでも話してくださいよ。」
「そうはいってもねえ。」
と、杉ちゃんがすぐに言った。
「そういう事は、気にするなしか答えが無いからね。それに、気にするなというセリフが、実は無責任な台詞になっちまうのも有るから、いえなかったんだろ。」
「でも、僕には言ってもらいたかったですよ。杉ちゃん。たとえ答えがそうしかなかったとしてもです。だって大事な、生徒ですから。」
浩二は、杉ちゃんにそういう事をいうが、
「いえ、だれのせいでもありません。ただ、僕達と違うのは。」
と、水穂さんが、憤慨した浩二に、優しく言った。それは浩二だけではなくかよ子にも言えることかもしれなかった。
「大丈夫です。僕のように、一度の失敗が、大事になるような身分ではありませんから。」
水穂さんは、かよ子を励ますように言った。
「かよ子さんは、僕と違って、何回もコンクールに応募できるし、人種差別を受けるような、身分ではありません。」
そういった水穂さんは少し咳き込んでしまった。杉ちゃんが吐き出すなら、ほかのやつが居るところでやってくれと言いながら、水穂さんの口元を拭き取った。ちり紙が赤く染まったので、島かよ子さんも、水穂さんがいったことを理解してくれたようだ。
「わかります。先生と私は、そこが違うんだって。私、もう一回トライできるんだって。」
かよ子さんは、水穂さんを見てその様にいったのだった。
グラーツ幻想曲 増田朋美 @masubuchi4996
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