第25話 君の望みを聞かせて
ラントが全体重をかけるように押し込んでくるナイフに、俺の力は段々と押し返せなくなっていく。ここまでくれば、声をかけるのは無駄だ。互いの息だけが荒く、馬車内に響く。腕が痙攣している、限界だと俺に訴えてくる。
だが、ここで手を離せば間違いなく俺は助からない。だから必死に押し返す、しかしやはりナイフの刃先は俺に近付いてくる。
「死ね、死ね!」
ラントが興奮気味に騒ぐ。ナイフの刃先はついに俺の頬に触れる、それには顔を傾けた。だかその刃先は頬を切り裂き、ピリピリとした痛みを感じた。切れて血が出たんだろうか、頬に液体が伝う。すると、ラントは心から嬉しそうに笑った。駄目だ、もう止められない。ここまでなのか……くそ! 背筋に寒気を覚えた時に、風が一気に馬車内に流れる。同時に大きな音も響いた。
次の瞬間ラントの身体がふわりと浮いた。俺が口を開く前にラントは一瞬にして上から消える。すぐにぶつかるような音が響いて、俺は訳が分からずに身を丸めた。ゆっくりと身体を起こすと、そこにはシルトが荒い息をしながら立っていた。
「っ、へ、陛下……?」
開いた戸の向こうには放り出されたラントが倒れている。彼が倒れている後ろにある鉄の柵は少しだけ歪んでおり、かなりの勢いでそこにぶつかったのだとわかった。多分、あそこに投げたのはシルトだ。助けてくれた、良かった……いや、マジで死ぬかと思った。すぐに口を開いて礼を言おうとするが、そこで気付く。
シルトの様子がおかしい。
息は異常な程に荒く、瞳は見開いている。その瞳は虚ろだ。それは錯乱した時に感じた雰囲気と同じだった。身体の力が抜けきったようにだらりと上体が垂れる。それがゆっくりとラントの方へ向くのがわかって、俺は全身が震えた。
このままではラントはシルトに殺される。
それは自分でも不思議な程にすぐにわかった。シルトを包む雰囲気が尋常ではないのだ、それは以前の錯乱時とは比にならない程だ。決して開けてはいけない場所にあった暗い泥が、その矛先をラントに向けている。放っておけば腕を引き千切られるだけじゃすまない。ラントを庇いたい訳じゃない。ただ、シルトにはもう血で染まってほしくなかった。
だから、自然に身体が動いた。慌てて腕を伸ばしてシルトの服を掴む。今ここで止めなくてはいけない、普通に声をかけただけじゃ駄目だ。そんな言葉はもう届かない。もっともっと、コイツの心を揺さぶる何かが、世界を変えるような何かが。そこまで考えて、口が動いた。
開いた戸から風が吹く、それは一瞬の静寂の後だった。
「────シルト。俺はタカユキなんだ」
それは思った以上にすんなりと言葉になった。それが伝わった瞬間、シルトを包んでいた空気が四散した。シルトの顔がゆっくりとこちらを向く。驚きに満ちている表情が俺をじっと見つめていた。
言えた。ずっと言いたくて言えなかった言葉を俺は言えた。信じて貰えただろうか、もし信じて貰えなくて更に悪化したなら、目も当てられないぞコレ。けれど、今更言葉を取り消す事なんて出来るはずもない。伝われ、と願いながらまっすぐシルトの瞳を覗き込む。
「前世の記憶ってヤツでな。思い出した時には色々驚いた、だってあんな小さくて可愛かったお前が皇帝陛下なんだぞ」
「………」
「昔俺の髭が嫌だって騒いでたガキだったのに、今じゃお前の方が俺より年上だ」
「……っ」
「なあ、シルト。約束、守りに来たんだ」
シルトは一言も発さなかった。けれど、眉を垂らし今にも泣きだしそうになりながら、唇を震わせている。伝わっている、信じてくれている、そんな確信を抱く。シルトの腕が伸びて、その指先が俺に触れようとする。それに応えるように続いて言葉を口にしようとして、俺の世界はぐらりと揺れた。あれ。
全身の力が一気に抜けて……、周りの光景がまるでスローモーションのように映る。シルトの衣服を掴んだ指先もするりと解けて、掴んでいられない。あ、これは体勢を保っていられない、やばい。
─────俺は、そのまま馬車内に倒れ込んだ。
「ッ、タカユキ!」
シルトが叫びながら駆け寄り、俺を抱きかかえる。ああ、俺の名前をちゃんと呼んでくれるのか、でもなんだ、どうしてなんだ? 全身に力が入らない。そして、すごく寒い。息もし辛い、苦しい。気分が悪い、吐きそうだ。俺がえずくと、シルトがその背を優しく撫でてくれる。
「陛下、毒です! ナイフに毒が塗られています!」
ガルムの声が遠くから聞こえる。アイツもいつの間にここに戻ってきてたんだ。視界が狭まってそちらまでは見えづらい。でも、あのナイフに毒か。そういや、もみ合っている時に浅い傷だったがだいぶ切られたわ。
あーそうか、毒なのか。ラントは絶対に俺を殺す気だったのか、やられた。そうか……色々頑張ったが、俺の運もここまでか。本当、どこまで神様は俺にハードモードを押し付けてくる。でも、前よりマシなのは時間があるって事だ。それに、俺はもう言いたい事は全部言えたから。俺は震える手をシルトの頬に伸ばした。
「い、今まで、言えなくてごめん。あ、んなオッサンが、こんな若くなって生まれ変わるとか、笑える、だろ」
「……だめだ、喋るな」
情けない事に声が震える。折角のチャンスなのだ、もう少しだけしっかりと喋りたいもんだ。そして、今度こそはしっかりとシルトに別れを言いたい。俺の事がまた傷になってしまわないように、俺がいなくても笑えるように。
「や、約束、破って悪い。ずっと一緒にいるって、言ったのに……ま、前は言えなかったからな」
「やめろ、喋るな」
「うれしかった。ま、またお前にあえて、髪に触れて、さ」
「ッ、あんたは……ッ!」
俺の頬に雫が落ちてくる。ぽろぽろと綺麗な雫が降ってくる。シルトが泣いている。今にも死んでしまいそうな程に苦しそうな顔をして泣いている。そんな顔をするなよ、シルト。シルトが俺の身体を引き寄せて力強く抱きしめる。それは割と強い力で、痛いと文句を言ってやろうかと思ったが何だかそれも嬉しくて、俺は何も言わずに受け入れる。
「あんたは昔からそうだ、いつも私の事ばかりで自分の事は後回しだ!」
シルトの声は怒っていた。泣きながら怒っていた。それは間違いなく俺に対しての怒りだ。後回し、そうか。そうだったな。俺がこの世界に来て、初めて貰った優しさと温もりがシルトだった。あの牢屋に突然現れたとても綺麗な少年。それこそシルト程ではないけれど俺の世界を一変させてくれた。そんな悲しいくらいに寂しい子供を俺がどうにか幸せにしたくて、そればかりを考えてがむしゃらに進んできた。
可愛い幼い、俺のシルト。
「私はもう子供ではない、タカユキ。私のことじゃなく自分の望みを、聞かせてくれ! それともここで死ぬのが望みなのか!」
俺の望み。そうだ、シルトはもうあの頃の寂しい子供じゃない。大人になって、フランシアさんもヴェルグもガルムも、コイツを慕う沢山の人間がいる。俺だけが守らなくていいんだ。じゃあ、俺の望みってなんだ。元の世界に帰りたい? 次の転生は三本角になりたい? 違う、違う。今はもうそんなことより、欲しいものがあって。
言っていいのだろうか、もう叶わないってわかっているのに言っていいんだろうか。シルトの傷になるかもしれないのに、許されるんだろうか。
段々と寒気が強くなって全身が震える、視界も見えづらくなって、死の気配が強まる。その中で目頭が熱くなって、涙が視界を濡らす。ゆっくりと唇を開く。
「────生きて、たい。だ、大好きなお前と、ずっといた……いよ」
また転生とか、今更帰るとかそんな馬鹿な話はもういい。ただ俺はシルトと今一緒に生きたい。タカとして、シルトの傍にいて、アイツを愛していたい。力が出ないながらも必死にシルトにしがみ付く。鼻水混じりで濁った声だ、しっかり聞こえただろうか。再び、えずいて、全身の力が抜けていく。
「ああ、わかった。必ず望みを叶えよう。何も出来ず震えていた子供ではない……今度こそ、私が助ける」
その声は悲壮感が漂うものではなく、力強く聞こえた。それを最後に俺の意識は段々闇に食われていく。それは俺の最後なのだろうか。もう全てがよくわからない。思考もぐちゃぐちゃになって自分もよくわからなくなって。そこで俺の意識は消えた。
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