第2話 赤は、僕を悪者にする
最後の一口を味わいながら噛んでいると、とある異物が咀嚼を邪魔してきた。唾液とともに、吐き出すと、手のひらには小さなクロワッサン型の少し尖った骨が出てきた。恐らく、尾骶骨だろう。オーブンの熱のせいか、僕の口の湿った温かさのせいかわからないが、骨にはその骨特有の動かない冷たさのほかに、涙がでてきそうな温もりが手のひらで回っていた。
最後に、こんな幸せな温もりを感じたのはいつだっただろうか。
家族との食卓は、いつも笑い声で溢れていた。父と母、それとゴールデンレトリバーのソラと一緒にごく普通の幸せを築いていて、あの頃は、この空間がこのまま続くと思っていた。
ある時、ロディと一緒に中庭で遊んでいるとき、僕が8才の時だった。突然、今まで嗅いだことのないような、とても香ばしい匂いがした。親戚のみんなで行った焼肉よりも、クリスマスのときに食べたローストチキンよりも、鼻孔をとおって脳を刺激する匂いだった。
僕は、気になって、求める匂いの元を探した。おなかの上に乗ったネズミのように、必死に、這いつくばって。
ソラ。そう、匂いの原因は、ソラだった。僕は、考えるよりに前に手が動いた。右手で近くにあったレンガブロックをとり、左手でソラの首をつかんだ。ソラは警戒心などもたず、老犬特有の曇りがかった黒い瞳をこちらに向けている。僕は、躊躇なく、右手を高くから振り下ろした。こもった低い音は、中庭を湿らせた。ソラはなきごえ一つあげない。今自分が何をされているのか分からないのか、はたまた信頼していた僕からの突然の殺意に声も出ないほどに驚いているのか、食欲に支配されていた僕は考えもしなかった。ただ、目の前の犬を殺すことしか、食べることしか考えていなかった。
ロディに夢中になっていた僕には、甲高い悲鳴を上げる母の存在に気付かなかった。
僕が母の存在に気付いたのは、僕の手と口が赤黒い毛を生やした後だった。もう母は、仕事中の父と警察に電話をし終わっていた。
時折、夢に出てくることがある。ロディの内臓の感覚はもちろんのことだが、やはり両親の憐れみと嫌悪のこもった氷柱のような目は、今でも忘れることはできない。
ひどく真っ白い部屋の中で、僕は先生と話し続ける毎日を送っていた。毎回、話すことは同じだ。今日は太陽が近いとか、庭にきれいな桔梗の花が咲いたとか、他愛のないことを永遠に話していた。
ある秋の日のことだった。僕がここにきてから三年と四か月が経つ頃だ。
僕がトイレに行った帰り道に、ナース達のひそひそと話す声が聞こえた。何を話しているのかと思い、盗み聞きをすると、聞こえてきたのは僕の両親の訃報だった。家に火を放って、二人仲良く死んだそうだ。
僕は悲しくなったの、だろう。自分でもよくわかっていない。僕を嫌っていた両親が死んだことで、こんなにも感情を揺さぶられるとは思ってもいなかった。心に、虚無が生まれたようだった。何を食べても、どんな美味しい空気を吸っても、良い睡眠をとっても、全部がその虚無によって、台無しにされてしまう。虚無はまさに、すべてを吸い込む、亜空間と化していた。
この時、僕は初めて自分がやった行いの重大さと、立場を理解した。気づくのが遅かった。いた、遅すぎた。僕はもう11歳になってしまっていた。
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