第10話 姫乃咲百合

 あの後俺は、相澤が家を出ていくのを確認後、猫の姿のまま部活へと向かった。

 そしていつものように、トイレで人の姿に戻り、部活に参加する。


 ……そこまでは良いのだが。


「はぁはぁ……。なぁノア、俺達野球部だよな? なんでこうも走ってばっかりなんだよ!」


 一樹がボヤく通り、俺達野球部二年と、後輩の一年は、準備体操の後ボールを触ることもなく、ひたすら走らされていた。


「ふっふっ、はっは……。仕方ないだろ、他の部活でもグランド使ってるんだ。夏の大会も控えてるから、レギュラーや上級生に優先して使ってもらわないと」

「ひっひっ……。それにしたって、はぁはぁ。他にもあるだろ?」


 一樹のボヤきも分かる。

 しかしこればかりは、俺にはどうすることも出来ない。


「はっはっ、諦めたほうが良いぞ。なんたって悪魔が決めたメニューだ。拒否権なんてない」

「悪魔なんて、はぁはぁ。ど、何処に居るんだよ……。ゲホゲホ、お、俺には女神しか見えないぞ?」

「ふっふっ、せる位なら話すなって。後、あれが女神に見えるなら病院に行くのをオススメするよ」

「ノ、ノア待てよ、女神様に特別扱いされてるからって、侮辱は許さな──ゲホゲホ」


 俺が言う悪魔、一樹の言う女神の様子を覗うべく、横目でベンチを見る。


 ……やべ、目があった。


 背中に、寒気のような感覚を覚える。

 すると噂の彼女は笑顔のまま拳を握り、親指だけ立て首の前に横切らせ、それを下に向けた。

 

「……あれが女神でコレを特別扱いと言うなら、是非変わってやりたいよ。この話は終いだ、先に行くからな!」

「待て……よ。まだハァハァ、話はゴホゴホ!」


 嫌な予感がした俺は、無慈悲にも一樹を置いて、予定していた残りの周回を済ませる事にした。



 走り終えた俺は、練習の邪魔にならぬよう、ベンチから少し離れた場所で呼吸を整えながら、ストレッチを行っていた。

 決して悪魔から距離を置いているわけではない。


 心の中で誰にでもなく言い訳をしていると、しばらくして。


「はぁはぁ、死ぬ……死ぬ」

「おつかれさん。ほら一樹、水だ。しっかりストレッチしとけよ、疲労が残るぞ」


 走り終えた一樹は、息を切らせながら「無理だぁー」っとグランドに横たわる。

 気持ちは分からなくもないが……。


「──あなた達、随分と楽しそうに走っていたわね?」


 俺達は、背後から女性に声をかけられた。

 恐る恐るゆっくり振り向くと……。


「うっ、姫乃ひめの先輩……」

「はぁ、はぁ、姫乃先輩!」


 なんと、と言うべきか。よりにもよってと言うべきか。

 俺達の前に現れたのは、先程走っている最中にジェスチャーをしていた、ジャージ姿の悪魔兼女神。

 野球部三年生のマネージャー、姫乃ひめの咲百合さゆりだ。


 才色兼備で、絹のようにサラサラで美しい、青みがかった長い黒髪、整った顔立ちは多くの男性の心を鷲掴みにし、プロポーションもモデルに引けを取らない。

 そして一度目が合えば、男女共に視線が釘付けにしまう宝石のような瞳。

 彼女こそ、校内一の美人と名高いのだが……。


「──三周」

「「えっ?」」


 今なんて? 三周って聞こえたような。


「聞こえなかったのかしら、追加でさっさと三周走って来なさい、と言ったのよ」


 ……マジかよ。


 軽々しく三周って、グランドの大周りは一周一キロメートルはあるんだぞ。

 俺はともかく、隣にぶっ倒れてる人間が居るのによく言えるな。


 姫乃咲百合先輩。

 完璧にも見える彼女の、致命的で唯一の弱点と言えば、性格に大いに難がある事だろう。

 実際にみてくれは良いのは認めるが、一樹を含め、他の男共はなぜ彼女を崇拝しているか分からない。


「よっぽど耳が遠いのね、私はさっさとと言ったのよ?」


 笑顔に見えるけど、どうやらご立腹みたいですね……。

 今走ってきたばかりだと反論したいところだが、下手に反感を買うよりは走って来たほうが良さそうだ。


「分かりました、走ってきます」


 一樹には悪いが、これ以上自分達の傷口を広げない為だ。

 機嫌を損ねても、ろくな事にはならないからな。


 俺は立ち上り、ランニングを再開しようとした。すると、


「待ちなさい、ニチワ君」

「えーっと先輩。ニチワじゃなくて、ヒノワなんですけど」

「あら、そうだったかしら。所でニチワ君、随分と余裕そうだからアナタには六周程走ってきてもらうわ」

「ってそれ、一樹の倍じゃないですか! しかも名前、わざと間違って……」


 俺が反論すると姫乃先輩は今まで一、満面な笑みで、


「あら、何か文句があるのかしら?」


 っと答えた。

 彼女の言葉と同時に、練習中の先輩達も手を止めこちらを睨みつけている。


 うっ、やっぱりこの人苦手だ……。

 俺だけにやたら厳しいしのは、一樹が言うように本当に特別扱いなのだろうか?

 いやコレ、絶対に違うだろ。


「なんでもありません。それでは行ってきま……」

「──えぇニチワ君、後十周頑張ってらっしゃい」

「あの、さらに増えて。それと名前は訂正する気ないんですね……」


 俺は「しまった!?」っと慌てて口を紡ぐ。

 姫乃先輩はため息をつきながら、


「学習しないのね、これではおサルさんの方がましよ」


 っと、こちらを睨みつけた。


「な、何でもないです、十周行ってきます!」

「分かればいいのよ。応援してるわ」


 俺は顔を引きつらせながらも、踵を返しグランドを見つめる。


 追加だけで約十キロメートル。

 本当長距離選手にでもなった気分だ……。


「──我らが女神の応援付きだ、行くぞノア」


 途方に暮れる俺を、フラフラと今にも倒れそうになりながら、一樹が追い越していく。


「おい、なんでそんなにやる気なんだよ……」


 その姿を見て色々と諦めがついた俺は、一樹の後について走り出す。


「この追加は想定外だ……。無茶苦茶キツイぞ、これ」


 愚痴を溢しながらも、俺は走り続けた。

 平気な顔で成し遂げる、それが唯一、一矢報いる手だと理解しているから。


 結局、終わりが見えた頃には部活は片付けすらほぼ終えている。

 そして走り終えると、制服に着替え終えた姫乃先輩が俺を待ち構えていた。

 

「お疲れ様、ほぼほぼ予想通りの時間ね。貴方の分の片付けは残してあるわ。ほらヒノワン、取ってきなさい」


 そう言うと、彼女は手に握るボールをグランドの中央に向かい放る。

 そして「ではお先に」っと、満面な笑みでバック片手に校門へと歩いていった。


「……一矢報いるどころか、走り終える時間も計算尽くだったってことかよ」


 チームメイト達も、揃いも揃って帰っていく。

 そしてグランドには、ボールがポツンっと一つだけ取り残されていた。


 完全敗北を味わった俺は、疲労も相まってその場に膝から崩れ落ちる。

 そして呼吸が落ち着くまで地面に背をつけ、しばらくの間紅色に染まる流れ行く雲を、ただただ見つめるのだった。

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