第10話 姫乃咲百合
あの後俺は、相澤が家を出ていくのを確認後、猫の姿のまま部活へと向かった。
そしていつものように、トイレで人の姿に戻り、部活に参加する。
……そこまでは良いのだが。
「はぁはぁ……。なぁノア、俺達野球部だよな? なんでこうも走ってばっかりなんだよ!」
一樹がボヤく通り、俺達野球部二年と、後輩の一年は、準備体操の後ボールを触ることもなく、ひたすら走らされていた。
「ふっふっ、はっは……。仕方ないだろ、他の部活でもグランド使ってるんだ。夏の大会も控えてるから、レギュラーや上級生に優先して使ってもらわないと」
「ひっひっ……。それにしたって、はぁはぁ。他にもあるだろ?」
一樹のボヤきも分かる。
しかしこればかりは、俺にはどうすることも出来ない。
「はっはっ、諦めたほうが良いぞ。なんたって悪魔が決めたメニューだ。拒否権なんてない」
「悪魔なんて、はぁはぁ。ど、何処に居るんだよ……。ゲホゲホ、お、俺には女神しか見えないぞ?」
「ふっふっ、
「ノ、ノア待てよ、女神様に特別扱いされてるからって、侮辱は許さな──ゲホゲホ」
俺が言う悪魔、一樹の言う女神の様子を覗うべく、横目でベンチを見る。
……やべ、目があった。
背中に、寒気のような感覚を覚える。
すると噂の彼女は笑顔のまま拳を握り、親指だけ立て首の前に横切らせ、それを下に向けた。
「……あれが女神でコレを特別扱いと言うなら、是非変わってやりたいよ。この話は終いだ、先に行くからな!」
「待て……よ。まだハァハァ、話はゴホゴホ!」
嫌な予感がした俺は、無慈悲にも一樹を置いて、予定していた残りの周回を済ませる事にした。
◇
走り終えた俺は、練習の邪魔にならぬよう、ベンチから少し離れた場所で呼吸を整えながら、ストレッチを行っていた。
決して悪魔から距離を置いているわけではない。
心の中で誰にでもなく言い訳をしていると、しばらくして。
「はぁはぁ、死ぬ……死ぬ」
「おつかれさん。ほら一樹、水だ。しっかりストレッチしとけよ、疲労が残るぞ」
走り終えた一樹は、息を切らせながら「無理だぁー」っとグランドに横たわる。
気持ちは分からなくもないが……。
「──あなた達、随分と楽しそうに走っていたわね?」
俺達は、背後から女性に声をかけられた。
恐る恐るゆっくり振り向くと……。
「うっ、
「はぁ、はぁ、姫乃先輩!」
なんと、と言うべきか。よりにもよってと言うべきか。
俺達の前に現れたのは、先程走っている最中にジェスチャーをしていた、ジャージ姿の悪魔兼女神。
野球部三年生のマネージャー、
才色兼備で、絹のようにサラサラで美しい、青みがかった長い黒髪、整った顔立ちは多くの男性の心を鷲掴みにし、プロポーションもモデルに引けを取らない。
そして一度目が合えば、男女共に視線が釘付けにしまう宝石のような瞳。
彼女こそ、校内一の美人と名高いのだが……。
「──三周」
「「えっ?」」
今なんて? 三周って聞こえたような。
「聞こえなかったのかしら、追加でさっさと三周走って来なさい、と言ったのよ」
……マジかよ。
軽々しく三周って、グランドの大周りは一周一キロメートルはあるんだぞ。
俺はともかく、隣にぶっ倒れてる人間が居るのによく言えるな。
姫乃咲百合先輩。
完璧にも見える彼女の、致命的で唯一の弱点と言えば、性格に大いに難がある事だろう。
実際にみてくれは良いのは認めるが、一樹を含め、他の男共はなぜ彼女を崇拝しているか分からない。
「よっぽど耳が遠いのね、私はさっさとと言ったのよ?」
笑顔に見えるけど、どうやらご立腹みたいですね……。
今走ってきたばかりだと反論したいところだが、下手に反感を買うよりは走って来たほうが良さそうだ。
「分かりました、走ってきます」
一樹には悪いが、これ以上自分達の傷口を広げない為だ。
機嫌を損ねても、ろくな事にはならないからな。
俺は立ち上り、ランニングを再開しようとした。すると、
「待ちなさい、ニチワ君」
「えーっと先輩。ニチワじゃなくて、ヒノワなんですけど」
「あら、そうだったかしら。所でニチワ君、随分と余裕そうだからアナタには六周程走ってきてもらうわ」
「ってそれ、一樹の倍じゃないですか! しかも名前、わざと間違って……」
俺が反論すると姫乃先輩は今まで一、満面な笑みで、
「あら、何か文句があるのかしら?」
っと答えた。
彼女の言葉と同時に、練習中の先輩達も手を止めこちらを睨みつけている。
うっ、やっぱりこの人苦手だ……。
俺だけにやたら厳しいしのは、一樹が言うように本当に特別扱いなのだろうか?
いやコレ、絶対に違うだろ。
「なんでもありません。それでは行ってきま……」
「──えぇニチワ君、後十周頑張ってらっしゃい」
「あの、さらに増えて。それと名前は訂正する気ないんですね……」
俺は「しまった!?」っと慌てて口を紡ぐ。
姫乃先輩はため息をつきながら、
「学習しないのね、これではおサルさんの方がましよ」
っと、こちらを睨みつけた。
「な、何でもないです、十周行ってきます!」
「分かればいいのよ。応援してるわ」
俺は顔を引きつらせながらも、踵を返しグランドを見つめる。
追加だけで約十キロメートル。
本当長距離選手にでもなった気分だ……。
「──我らが女神の応援付きだ、行くぞノア」
途方に暮れる俺を、フラフラと今にも倒れそうになりながら、一樹が追い越していく。
「おい、なんでそんなにやる気なんだよ……」
その姿を見て色々と諦めがついた俺は、一樹の後について走り出す。
「この追加は想定外だ……。無茶苦茶キツイぞ、これ」
愚痴を溢しながらも、俺は走り続けた。
平気な顔で成し遂げる、それが唯一、一矢報いる手だと理解しているから。
結局、終わりが見えた頃には部活は片付けすらほぼ終えている。
そして走り終えると、制服に着替え終えた姫乃先輩が俺を待ち構えていた。
「お疲れ様、ほぼほぼ予想通りの時間ね。貴方の分の片付けは残してあるわ。ほらヒノワン、取ってきなさい」
そう言うと、彼女は手に握るボールをグランドの中央に向かい放る。
そして「ではお先に」っと、満面な笑みでバック片手に校門へと歩いていった。
「……一矢報いるどころか、走り終える時間も計算尽くだったってことかよ」
チームメイト達も、揃いも揃って帰っていく。
そしてグランドには、ボールがポツンっと一つだけ取り残されていた。
完全敗北を味わった俺は、疲労も相まってその場に膝から崩れ落ちる。
そして呼吸が落ち着くまで地面に背をつけ、しばらくの間紅色に染まる流れ行く雲を、ただただ見つめるのだった。
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