第33話合わせた孤独

山内さんが来てから1週間ほど経ち、ピアノの調子が特に狂うこともなく俺らはまた日常をなぞっていた。しかし音は今までの日常をなぞることなくまた新しい音を奏でていた。楽しそうに跳ねる佐伯の音はまるで綺麗な海を泳ぐ魚のようだった。その中にはわずかに荒さはあるがその波が音に心地よさを連れてきた。綾瀬さんのガラスは更に透明さを、そして存在感を増し、運命の中を通るガラスの支柱となり、御神の音はガラリと変わり、他3人の運命を彩る立派な琴になった。それから音寧の音は以前より寂しさを帯びているような気がした。その寂しさはどこから来るものなのかはわからなかった。しかし音寧は自分から俺に部活を辞めたいということは一度もなかった。音寧は昔からそうだった。何か選択を迫られれば俺に同意し、俺に付いて合わさった。俺が頷けば音寧も頷き、俺が不服そうにすれば音寧もそれに合わせた。音寧に自分の意見を聞けば逆に「クロは?」と問われた。俺のためにピアノを弾く、そう言った音寧は今もなおピアノを続けている。音寧のピアノは悪い意味でも綺麗すぎる。俺を含め、大勢の人を魅了し、そして本当の音を隠してしまう程だ。音寧の音を初めて聞いたとき、最初に思い浮かべたのは広い花畑に1つだけ咲く背の高い向日葵だった。俺と出会ってから音寧の音は変わった。俺が変えてしまったと言うのが正しいのかもしれない。音寧の音は1輪の向日葵から霧雨へと変わった。一見足並みが揃った柔らかな音に聞こえるがその本質にあるのは弱さ、そして孤独だった。いつも音寧の音には孤独があった。技術だけが暴走し、心を置き去りにしていった。それでも音寧の心に気づく者は誰ひとりとして居らず音に心酔した。俺もその一人だった。今でも音寧のピアノを聞く度に音寧の音に気づかずにただ綺麗だと笑っていた自分に嫌気が差す。音寧は自分の音を知ったとき、霧雨ってなんかいいね。なんてあっけらかんとしていたがどこかホッとしているような表情をしていた。音寧は自分の音に触れられたとき、安心していたのだ。俺が謝ると音寧はクロありがとね。と微笑んでいたことを思い出す。今も目の前でトムソン椅子に座り天井を見つめている彼に俺は何をしてあげられるだろうか。もうピアノを弾かなくていいと蓋を下ろすことか。俺が音を変えてやると手を引くべきか。音が綺麗だと笑うべきか。それとも、これがお前の音だと手を離すべきか。音寧は何を望んでトムソン椅子に座っているのだろう。音寧の音は何を目指して走っているのだろう。俺は側板に寄りかかっていた自分の体を起こして音寧を一度、抱きしめた。音寧は一瞬、驚いたように肩を揺らし、それからいつもより優しい力で俺の体に腕を回した。

「どうしたの?クロ」

そう明るく聞く音寧の声には柔らかさがあった。いきなり抱きしめてきた俺に対しての心配が伝わってくる。これ以上居ると「ごめん」と言ってしまいそうですぐに離れた。音寧は少し不思議そうに首をかしげて俺を見つめている。暫くして飲み物を買いに行っていた3人が楽しそうに笑いながらピアノ室へと戻ってきた。音寧は3人を見て少し微笑んでから鍵盤に指を置き、そして運命の第一音を奏でた。それを聞いて3人は音寧の運命を聞くためにピアノの周りに集まる。鍵盤を1つ押しただけなのに運命の開始を告げているようだった。しかし運命の開始にはとても切なすぎた。

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