第32話魔法使い 2
ピアノ室に案内すると山内さんは1度深呼吸をした。トランクケースを御神に案内された机の上に置く。彼がケースを開けると不思議とピアノ室の空気が変わった気がした。もしかしたら彼はとんでもない魔法使いなのかもしれないと思ったのはきっと俺だけではないと思う。彼の手元を見つめる佐伯は緊張した様子で息を呑む。彼はハンマーのような形をした道具を手に取ると、ピアノの方を向き、深く、長く、一礼をした。その後、俺の方を向いて、「暫く時間をいただきますのでご自由に過ごして頂いて結構ですよ。」と柔らかい声のまま言った。その声は確かに全員の耳に届いていた筈だが、誰も体制を崩すことなく、彼と調律しやすいように屋根を開けられたグランドピアノをただ見つめていた。彼は俺らの視線に気づいているのか、「緊張しますな。」と少し笑った。御神はグランドピアノのすぐ近くに座っていて、何か頼み事をされてもすぐに対応出来るようにしていた。御神は何処か楽しそうに微笑んでいたが、何故そんな表情をしているのかわからなかった。それでも山内さんは彼女の表情に気づきはしない。もしかしたら気づいているのかも知れないが、何の反応も彼は示すことは無かった。
『ポーン』
と彼の手から奏でられる音はどこか切なそうな音をしていた。それでも彼は音を聞くととても嬉しそうに微笑んだ。
「よく弾かれてらっしゃいますね…。」
彼はそれから何度も単音を出した。そのたびに嬉しそうに微笑み、時折深く頷いた。それから彼の調律は本格的に始まっていく。彼は色あせた赤のロングミュートを弦につける。その工程には盲者とは思えないほど迷いが無かった。取り出したハンマーにチップをつけ、それをチューニングピンにさして何度か音を出したあと、少しずつハンマーを握り、ほんの少しだけ動かしたように見えた。それからまた何度か鍵盤を押す。その作業を何度か繰り返した後、ハンマーチップを変え、別のチューニングピンにハンマーをさす。時折嬉しそうに微笑む彼は本当にピアノを愛しているように見えた。彼が触れた鍵盤から歪んだ音が正されていく。どのくらい経ったのかはわからないが彼の魔法はいつの間にか終盤に差し掛かっていて、音はすっかり正された後だった。現実に引き戻されたのは彼の「どなたか弾かれますか」という穏やかな声だった。最初に前に出たのは佐伯だった。佐伯の表情からは早く弾きたいという思いと、自分が最初でいいのかという僅かながらの遠慮が見えたがそれはやはり弾きたいという思いを押さえつけることはなかったようだ。佐伯がトムソン椅子に座り、指を鍵盤に置いた瞬間、それまでそこにあった空気がまた違う佐伯の空気へと塗り替えられた。佐伯は僅かに口角を上げ、『運命』を奏で始めた。ピアノ室を満たす運命は連弾用の譜面で完璧なな一曲ではなかったが、佐伯の音は充分過ぎるほどに透き通っていた。ピアノは、音楽は、一人の魔法使いは、こうも彼を変えるものなのか。ふと山内さんを見ると彼も佐伯の方を見ながら楽しそうに微笑んでいた。音寧は少し驚いたように佐伯を見ている。佐伯が運命を弾き終えたときには気づけば皆が笑顔になっていた。佐伯は満足そうに席を立ち、山内さんに深く一礼した。次に綾瀬さん、そして御神。それから最後に音寧がそれぞれ自分の運命を響かせた。全員の運命はこれまでよりも美しく、楽しそうに微笑んでいるように感じた。
それから山内さんに全員で感謝をし、そして正門まで見送った。彼が魔法をかけたのはピアノだけでない。ピアノに輝きを与え、響きを与え、そして、俺たちピアノ部員に笑顔を与えて彼はここから去っていった。
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