第31話魔法使い
桜の蕾が膨らみだした頃、ピアノの音が少しおかしく感じるようになった。佐伯でもわかるほどのもので、音がところどころ歪んでいるように聞こえる。初めの頃からこのピアノの音は良質というほどのものではなかったが、演奏には支障をきたすほどではなかったはずだ。つまり…
「そろそろ調律の時ね…」
と俺の横で御神が言う。元々ピアノ室は前にピアノ部が無くなってから殆ど使われることがなくなった幽霊教室のようなところだった。年に1回やらなければならない調律を4、5年も放置してたんじゃ音が歪むのも納得だ。しかもピアノ部が再設されてから毎日と言ってもいいほど弾いている。弾く頻度が高ければその分音も早く歪む。今から調律師を呼ぶと考えると実際に調律が行われるのはもう少し先のことになりそうだ。もっと早くに調律を考えなかった自分の甘さが悔やまれる。それでもこの状況は変えようがない。急いで調律師を探す。校長にも訊いたが昔頼りにしていた調律会社は10年ほど前に倒産したそうで、音楽室や体育館のピアノを頼んでいる調律会社は逆に多忙ですぐには対応できないそうだ。すぐに対応できるような調律会社の情報はネット上になさそうだ。すると御神は1人だけ心当たりがあると言ってその人に電話を掛けにピアノ室を出た。暫くしてから御神が戻ってきて、今から来てくれるそうだと言った。
「いつも家の私のピアノの調律をしてくれている人なの。個人事業でネットには情報を出していないと思って。ネットには元々弱い人だしね。」
ネットに弱いということは随分歳がいっているということだろうか。しかし御神が普段頼んでいる調律師ということはそれだけの技術があるということだろう。俺と御神は校門のあたりでその人の到着を待った。30分ほどすると、タクシーが校門の前で止まった。タクシーから出てきた50代後半くらいの男の人は大きなトランクケースを持っていて、もう片方の手に強く握られていたのは白杖だった。つまり彼は目が見えないのだ。彼はタクシーの方を向き1度深く頭を下げ、「ありがとうございました。」と言った。彼の声はしわがれていて、祖父を連想させた。彼は校門の方に向き直ると俺らの気配に気づいたようで立ち止まった。
「葵様ですかね。」
そう優しそうな声で言う彼は俺の方を向いていた。御神は少し微笑んで彼の肩を叩いた。
「山内さん、こっちです。」
山内さん、と呼ばれた彼は御神の方を向いて「これはこれは、失礼しました。」と気恥ずかしそうに笑いながら頭を下げた。それから彼は俺の方に向き直って1礼した。
「葵様の調律師の山内と申します。見て分かる通り少し前に目が使い物にならなくなりましてね。こんな老いぼれではありますが一応腕だけは持っているつもりなので何卒よろしくおねがいします。」
彼はしっかりと俺の方を向いたまま俺のリアクションを待った。俺は彼に1礼を返して
「ピアノ部部長の黒宮です。今日は来ていただきありがとうございます。」
と言うと「若者の話は短くて良いですね」と微笑んで白杖を前に進めた。俺は御神と同様に彼の横を歩いた。彼はピアノ室につくまで、楽しそうにほほえみながら終始雑談をしていた。この時はまだ俺は彼が敏腕調律師には見えなかった。しかしトランクケースを持とうとすると彼は「私の命ですので。」と言ってどうしても持たせなかった。彼はもしかしたらただの調律師ではないのかもしれない。
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