第29話進行方向

張り詰めた空気、耳を塞いだ綾瀬さん。御神を睨む佐伯。それを壊したのは音寧だった。

「御神さんが悪いとか、ミスが悪いとか。それって結局どっちもこの部活とは同じ方向向いてないから思うことなんじゃないの?皆バラバラなとこ向いてるんだよ。」

音寧はつまらなそうにトムソン椅子から立って、ピアノ室から出た。音寧自身が、少し一人になりたいと思ってるはずだし、ここで3人を放って出ると空気が更に悪くなりかねないと思い、音寧を追いかけることはしなかった。ここに残ったとはいえ、この空気を打破する方法は何もわからないし、全く思いつきそうにもない。音寧が言った言葉はきっと正しい。コンクールまでは同じ方向を向いていたはずの5人がバラバラな方向を向き、目指している。だからといって俺が無理やり4人を同じ方向を向かせるのは違っているような気がする。そんなことをしたらもう永遠にこの5人が本当の意味で同じ方向を向けることはもう二度となくなってしまうだろう。俺らが望んでいるのは明らかに仮初めのお揃いじゃなかった。しばらくの間沈黙に包まれていた重苦しい空気に切れ込みを入れたのは御神だった。御神はトムソン椅子の背もたれに寄りかかり、深く息を吐いた。それから御神は立ち上がって頭を下げた。

「佐伯くんが言ってたことも、白藤くんが言っていたことも正しいと思ってる。私が皆を嫌な気持ちにさせたのは事実だし…それはごめんなさい。」

そんな御神の言葉に綾瀬さんは少し安堵したように表情が緩んだ。佐伯ももう御神を睨んではいなかった。寧ろ少しばつが悪そうに頭をガシガシとかいている。

「あー…その…俺も強く言い過ぎた。悪い。」

佐伯の耳は真っ赤に染まっていて、相当勇気を出して言った言葉だと伝わってくる。そんな佐伯を見て御神は吹き出した。綾瀬さんも口元が緩む。3人の姿を見ると、案外道が開かれるのはもうすぐだと感じる。ガタッと小さく引き戸が音を立てた。笑いに包まれる3人の耳にはその音は届かなかったようだが、戸を開けると壁によりかかりながら口元を少し緩ませた音寧がいた。

「入ればいいのに。」

音寧は俺の言葉に首を横に振ったまま動かなかったので俺は廊下に出て音寧の隣に座った。ピアノ室からは御神の茶化すような声と佐伯の否定する声がまだ聞こえてくる。

「音寧のお陰だよ。ありがとね。」

そう言うと今度は佐伯ではなく音寧の顔が真っ赤になった。小さくうなずく音寧の姿は昔の音寧の面影を感じさせる。

「別に…喧嘩されるとクロが困ると思ったから…」

赤い顔を背ける音寧だが、耳まで真っ赤だ。そんな大人がなんだか愛おしく思えてきて、俺は手を伸ばして頭を撫でる。音寧からは俺の家のシャンプーの匂いがほのかに香った。一瞬ビックリしたのか、小さく動いてこっちを見た音寧は嬉しそうにくっついてきて俺の肩に頭を倒した。

「大切なんでしょ?皆のこと。」

そういうとまた音寧は恥ずかしそうに顔を赤らめた。その行動自体がまるで音寧の心をそのまま示しているようだった。少ししてから3人が廊下に顔をのぞかせた。5人で笑いながらピアノ室に入ってまた練習を再開する。きっとこれからの音は一味違う。きっとこの5人が同じ方向を向いて前に進めるようになるはずだ。この5人だからこそ向ける方向、それを作ったのは俺じゃない、皆だ。

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