第27話静寂
日曜日、気まぐれでピアノ室に足を運ぶと、佐伯がいた。佐伯はいつかの御神のようにピアノを弾くでもなく、ただトムソン椅子に腰掛け、天井を見上げていた。ドアを引く音に一度こちらに目を向けたが入ってきたのが俺だとわかるとまたすぐに視線を天井へと戻した。ピアノ室に広がるのはピアノの音でも、話し声でもなく、気まずさに似た静寂だった。5分ほどそうしていただろうか、しびれを切らしたように佐伯は口を開いた。
「ピアノって難しいな。」
誰に向けた言葉だったのかは分からない。俺に向けたのかもしれないし、佐伯自身に向けたものだったのかもしれない。佐伯は俺からの返事を求めるでも、なにか言葉を続けるでもなく、ただ天井を見つめていた。暫くして、佐伯は1音、ピアノ室に響かせた。いつものような荒々しさのようなものが感じられない、透き通った音だった。透明な音を1音鳴らした佐伯はまた天井を見た。佐伯はなんのためにここに来たのだろう。只天井を眺め、そして時々1音の透明色をピアノ室に広げるためなのだろうか。佐伯はおもむろに立ち上がり、指揮台に立った。しかし指揮棒を握ることはなく、ただ立つだけだった。何がしたいのかわからなかった。佐伯は指揮台に立ったまままた口を開く。
「黒宮は、ここに立つのと、あそこに座るの、どっちが好き?」
佐伯が俺の方を見ることは無かったが、今度の言葉は確実に俺に訊いていた。その質問を訊いた瞬間、驚いた。俺はここでピアノを弾いたことはないし、ピアノを弾いたことがあるとも言ったことがない。それなのに佐伯は俺がピアノを弾いたことがあるという前提で質問した。佐伯はそういう勘…というべきものなのかわからないが、そういうようなものがどこか他人よりも優れている気がした。もっとも、今まで俺が音について散々言ってきたのだから、そう感じてもおかしくはないのだが。俺は佐伯の質問に答えることはできない気がした。気づけば、
「どっちも俺の居場所ではないと思う。」
なんてなんとも言えないような答えを返していた。そんな俺の答えに佐伯は少し驚いたようだった。それもそうだ、そんな答えを佐伯は期待していたわけではないだろうし、第一、部長がこんな答えをするんじゃ驚くか。少ししてから佐伯は「そうか。」と言って指揮台から降りた。佐伯はどんな答えを期待していたのだろうか。もう真顔に戻った佐伯の表情からは何も読み取ることは叶わなかったが、少し、寂しそうに見えたのは気の所為だろうか。佐伯はまたトムソン椅子に腰掛けて天井を見た。彼は何を考えているのだろう。コンクールのときのことでも思い出しているのだろうか。演奏を思い出しているのか、萌々に言われた言葉を思い出しているのか、はたまた控室での御神からの言葉を思い出しているのか、全くと言っていいほどわからなかった。只、佐伯は自分と向き合って居ることだろう、と思った。佐伯は自分勝手な部分もあるが、それだけではないことは1ヶ月でも十分伝わって居るし、現に日曜日にこのピアノ室に来ているということは今の佐伯にピアノが必要だということだろう。佐伯は10分ほどしてからいきなり立ち上がり、荷物をもってピアノ室から出ていってしまった。彼が何を考えていたのかは分からない。ただ、佐伯が今までよりも何倍も良い音を響かせてくると、今日確信した。
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