第26話精度の世界
音寧の言葉通り、佐伯は練習にきた。御神と綾瀬さんはとても安堵していて、音寧は少し以前より佐伯との距離が縮まったような気がした。佐伯自身は少し居心地悪そうにしていたが、ピアノを目にすると堅かった表情はすぐに笑顔へと変わった。御神は佐伯の表情に気がついたのか、「とりあえず弾いてみましょう。」とトムソン椅子を引いた。綾瀬さんも笑顔で座る。音寧も以前より嫌がる素振りを見せない。俺は久しぶりに埋まった4席の椅子を見て、安堵に似た何かを感じた。安堵にしては弾みすぎた俺の心は曲を始めるスターターの役割を担った。俺の指揮に合わせて「運命」は始まる。コンクール以来初めて奏でる5人の運命はコンクール前と比べるととても酷かった。音階は間違え、テンポもバラバラ、佐伯の音は小さく消えそうで、逆に御神の音は強く、棘があった。綾瀬さんも御神の雰囲気に負け、音は鳴っているはずなのにどこか軽さを感じた。音寧は以前と大して変わらないように思えたが、心のどこかで萌々の言葉があるのか、音に少し波を感じた。皆は自分の運命を全うするのが精一杯で、周りの音なんか耳に入っていないようだった。演奏が終わると、4人は肩で息をしていた。こんな姿を見たのはもしかしたら初めてかもしれない。
「お疲れ様。今回の演奏はどうだった?」
そう聞くと佐伯の視線が少し下がった。自分でも自分の音を出せていない自覚はあるのだろう。そう思っているのは佐伯だけではないようで、綾瀬さんも同じく視線を下げた。
「音階のミスが多かったわ。またペアや個人での練習に戻しましょう。」
御神は音階のミスを意見としてあげ、譜面を畳んだ。トムソン椅子から立ち上がる御神に綾瀬さんも慌てて同様にする。音階ミスをあげた御神はこの部活の本質を見失っているようだった。
「正しく旋律をなぞることがこの部活のゴールじゃないよ、俺が聞きたいのは皆の音だよ」
そう言うと御神は少し投げやりな声で
「自分の音なんてわかんないわよ。それにコンクールは正しく弾いて初めて評価されるものよ。そんな綺麗事ばかり言わないで頂戴。」
とだけ言って早足でピアノ室から出ていってしまった。もちろん御神の言っていることは分かるし、特に御神はそういう精度の世界に長く居たから俺の言う自分の音を弾けという意見に完全に納得することは出来ないだろう。そんなのはとうの昔からわかっていたはずなのに今までそんなことを言う素振りが無かったからか、少しおどろいた。音寧は何も言わずに俺に抱きついてきた。いつもより音寧の体温が温かく感じるのは気のせいだろうか。この部活の理想を俺の中で掲げた時にもわかっていたはずの音の矛盾、技術と感情には大きな差が生まれやすい。いつから俺はそのことが見えなくなっていたのだろう。
「御神ってさ、なんであんな堅いんだろうな。」
佐伯はそう不思議そうに言って1音だけ音を響かせた。のんびりとしたその1音は静けさをまとったピアノ室に溶け込んでいくようだった。
「もう…好きだと思うんだけどな」
佐伯は少し悲しそうだった。御神がピアノに対してどんな思いを抱いているのか分からない。それでも、御神がこの部活に必要なことには変わりないし、御神の価値観がこのピアノ部の運命の鍵を握っていると思うのは、きっと俺だけではないだろう。前を向かなければ。5人の運命を動かすために。
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