第16話壊れたままなら
LHR があった水曜日、最初にピアノ室に来たのは綾瀬さんだった。今日は御神との初めての『合わせ』の日だ、気持ちが焦るのも仕方がない気がする。と言っても御神は確か今日はレッスンがある日だった気がする。少しの時間しかないのではないか。綾瀬さんと5分程世間話をしていると御神が急いで来た。
「1時間できるかわからないくらいだけど…早く始めましょう」
御神はピアノ室に入るなりそう荷物を置きながら言ってトムソン椅子に腰掛けた。それにつられて綾瀬さんも慌てて隣の椅子に座る。
「黒宮くん、指揮をお願い。」
なにかに追われているようなそんな表情の御神に急かされた俺は少し抵抗を感じた。
「嫌だ」
いつかの日の音寧のように俺はただそれだけを言って椅子に座り、側板に寄りかかった。御神は俺までも部活放棄をするのかとばかりに深く溜め息をついて、自らの足で拍を取り始めた。
トントントントン
軽く規則正しく刻まれた4つの拍に吸い込まれるように演奏が始まった。俺の予想を上塗りするように嫌いな音ばかりがただ並んでいく。演奏のようで只の音の羅列。丁寧なようで無感情。譜面をキッチリとなぞっているのに心から耳を塞いでしまいたいと思うくらいの不協和音に聞こえる。綾瀬さんの音を聞こうと集中しても聞こえない。きっと彼女は今、弾けていないことだろう。前にはっきりと聞こえていた綺麗なガラスの音は今、細く、小さく、消えている。彼女の音は今、ここにない。御神は自分が取っている拍に振り回され、必死に弾いている。音は1つのミスもない。昔聞いたままの苦しそうな音を出すを俺は聞きたくなかった。俺は一度立ち上がって御神さんの手を止めた。演奏中の奏者の腕を掴んで強制的に演奏を止めるなんて非常識にも程がある。そんなのはわかっていたが、今の演奏は弾かないほうがずっとマシだと思った。
「何よ」
腕を掴まれた御神は俺をキツく睨んだ。
「自分の音、聞いてる?」
そう訊くと御神も綾瀬さんも2人して俯いた。『自分の音』を聞けていないことも、出せていないことも、わかっているのだろう。御神は鍵盤から手を下ろし、俺も腕を離した。釣られるように綾瀬さんも手を下ろした。
「す・・・すいません・・。緊張してしまって・・。最近・・やっと弾けるようになってきたのに・・・。」
綾瀬さんは小さくそう言って立ち上がった。「もう一度1人で練習してきます」とだけ言ってピアノ室を出た。恐らく音楽室で練習するのだろう。今は確か佐伯がいるはずだが。出ていく綾瀬さんの姿を見た御神は一度深く息を吐いてトムソン椅子の背もたれに体重を預けた。
「黒宮くん」
少し俯いた御神の表情はあまり見えなかったが、声色がいつもより強張っている気がする。
「何?」
俺はどういうわけか御神と2人きりという空気に妙な緊張感を覚えた。只、部員同士、平日の放課後。なんとでもない状況なのに何か、運命を狂わせてしまうような緊張感。そんな空気から目をそらしたくて俺はいつもの椅子に座り、側板に寄り掛かる。
「もし私の音が壊れた琴のままなら、私はピアノをやめようと思う。」
一瞬、彼女の言葉が時を止めたような、そんな感覚になった。御神は今、どんな気持ちなのだろう。実際問題、彼女の家がそれを許すとは思えないが、彼女の言葉は本気だと言っていた。
「そっか。」
今の俺には只それしか言えなかった。「俺が直してあげるよ」なんてくさいセリフを吐ければなにか変わるだろうか。
「御神さんって、音楽嫌い?」
気づいたらそんな言葉をかけていた。「好き」なんて言葉を期待していたわけじゃないし、俺の中で正解を作っていたわけでもなかった。
「普通かな」
御神は天井を見つめて言った。彼女は暫くトムソン椅子から降りることはなかった。思いついたように「レッスン行かなきゃ」といきなり立ち上がって、「ありがとう。」と一言残して出ていった。何に対しての感謝なのかわからなかったが、俺は1人になったピアノ室に少し寂しさに似た心地よさのような何かを感じていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます