第12話噛み合わない歯車
譜面が配られてから最初にピアノに触れたのは意外にも音寧だった。昼休憩が始まると音寧はおもむろに立ち上がり、トムソン椅子に腰掛けた。ピアノ室にいた部員全員が目を見張った。
「どうしたの皆、ボクがこの椅子に座るのが気に食わない?」
皆の視線に気づいた音寧がふんわりと笑いながら放った言葉に皆は首を横に振った。音寧は驚かれたことをさほど気にしていないみたいで、視線を鍵盤に戻した。1音、また1音となんの譜面を弾くでもなくただ音を出しているはずなのにその音すらもなにか曲を聞いてるようで心地よかった。音寧の手から奏でられる霧雨の様な音色は一瞬でこのピアノ室を満たした。1度止んだ霧雨の音色は暫くして『運命』へと変わった。スタートが難しい音寧の譜面がただの音符から音色へと変わっていく。次々と音に込められる思いは音楽を心底嫌いな人のものとは思えないようなものだった。むしろ音寧の表情は少し楽しそうに見える。
「ピアノ上手いし、口角上がってる。ピアノ好きなんじゃん。」
佐伯がそう言うと音寧は手を止めた。
「んなわけないでしょ」
音寧は不機嫌そうに立ち上がり俺の膝に乗った。音寧は小さく「ボクは音楽が大っ嫌いなんだから。」といって、楽譜を近くの机に放った。それを見た御神は困ったように苦笑いしている。綾瀬さんは急に不機嫌になった音寧に戸惑いを隠せないみたいだ。それは佐伯も同じらしく、2人して慌てている。音寧の頭を撫でると音寧は「んん」と不機嫌ながらも撫でられるのを嫌がらなかった。俺に抱きつく音寧は昔の音寧を連想させる。表は変わっても中身はいつまでも変わらない。きっと音寧はピアノが好きだ。ただ好きになりきれていないだけ。それを音寧自身が認めることはないだろうが。
「一緒に弾こうぜ」
戸惑って綾瀬さんと話していた佐伯は何かを決意したように音寧に近づいて手を差し伸べた。音寧は佐伯をしばらく見つめてその手を掴むことなく鼻で笑った。宙に浮いたままとなった佐伯の右手はゆっくりと下へ降りた。佐伯はトムソン椅子を少し奥にずらし、近くにあった椅子を持ってきた。
「白藤、椅子に座るくらいいいだろ?」
佐伯が音寧と弾きたいという思いを変えることはないみたいだ。佐伯はトムソン椅子に座って隣に音寧が来るのを待った。
「やだよ」
音寧は俺から離れる素振りも見せない。今はもうピアノに触れる気分じゃないのだろう。無理に弾かせても仕方ない。無理に弾かせるとピアノを嫌いになってしまうだろう。
佐伯は大きく溜息を付いた。
「好きなんだろ」
佐伯は音寧の音を聞いてから音楽好きなことを信じて疑わない。音寧は聞く耳を持たずにただそっぽを向いていた。佐伯はもう一度溜息をついてトムソン椅子から立ち上がってまた音寧に近づく。
「ピアノを弾くのが嫌なのか?俺の隣が嫌なのか?」
「どっちも」
佐伯の質問に音寧は即答した。音寧の答えに佐伯は眉を下げた。どっちも嫌だなんて言われてしまえば何もできないだろう。今は弾きたい気分でも何でもないのに苦手意識がある相手からそんなことを訊かれれば即答で断るのも音寧ならおかしな話ではない。音寧は周りには聞こえないような声で「音楽なんて嫌いに決まってる」と弱々しく呟いた。
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