第9話弾かないと。
※時系列は本編の続きです。全然年明けてません。
演奏曲が決まった後、綾瀬さんは御神と一緒に練習を開始していた。どうやら綾瀬さんが御神に練習を頼んだらしい。御神はレッスンがあるのか、一瞬困ったような顔をしていたが、綾瀬さんの頼みを断りきれずに「少しだけよ」と言って30分だけの練習が決まった。
「水澄はまずピアノを弾けるようになることからね。」
そう御神に言われて申し訳無さそうに俯いた綾瀬さんだが、何か決心したように顔を上げて頷いた。
「頑張りますっ」
しかし鍵盤に乗せられた彼女の手は震えていた。元々話すことが苦手な彼女が人前でピアノを演奏するとなるとすんなり出来る方が可笑しいのかも知れない。御神も綾瀬さんの手の震えに気が付いたのか、短く息を吐いた。
「水澄、1度深呼吸をしてみたら?うまく弾けなくても怒る人なんて今は居ないわ。」
綾瀬さんは御神の言葉のとおりに深呼吸をした。それでも収まる気配がない綾瀬さんの手の震えが更に綾瀬さん自身の心を焦らせる。
「綾瀬さん。弾こうとするのは止めにしようか。」
俺がそう声をかけると綾瀬さんは大きく首を横に振った。
「嫌です・・・私は・・弾けるように・・・ならなきゃ・・いけないんです・・・」
やっぱりか。綾瀬さんの言葉を聞いた俺はそう思った。
「弾かなきゃ。って義務感を持っている間は弾けないと思うよ。まずはその義務感を捨てるところからしてみて?」
俺の考えを離すと御神も少し納得したみたいで少し離れたところで綾瀬さんを見守った。今の綾瀬さんに必要なのはきっとピアノという楽器に慣れることだろう。弾こうと焦ることじゃない。綾瀬さんは弾かなければいけないという考えがそう簡単には変えられそうにないらしい。鍵盤に震えた指をおいたまま俺の言葉に首を傾げていた。
「綾瀬さん、一旦手をおろして?」
俺がもう一度言うと少ししてから綾瀬さんは手を鍵盤からおろした。
「そう。それで一度俺らを見て貰える?」
綾瀬さんは小さく頷いてから俺と御神と目を合わせた。
「ありがと。そしたら最後に鍵盤を見て。弾こうと思わないでね。ただ見るだけ。」
綾瀬さんは手を膝の上に置いたまま鍵盤を見つめる。綾瀬さんは今何を考えているんだろう。こんな事をさせる俺に苛つきを感じているのだろうか。ただ何故こんな事をさせられているのか疑問に思っているのだろうか。ピアノの前に居るのにピアノを弾こうと考えるなと言われて不思議な気持ちだろうか。俺らには分からないが、きっと綾瀬さんはいつかピアノを弾きたいと思い、大勢の前で彼女の音を響かせるだろう。彼女だけのガラスの音を。
「水澄、弾きたいって思ったとき弾けばいいからね。弾くべきだからと言う理由で弾くピアノは綺麗な音は出ないわ。」
時間が来たのだろうか。帰りの支度を進める御神は俺の言葉を代弁するかの様に言った。恐らく綾瀬さんがピアノを弾ける日はそう遠くないと思う。
「私・・・頑張りますっ!」
そう言って綾瀬さんは深呼吸をしてから鍵盤を見つめた。前とは違い、無理に弾こうとせずにただ、見つめている。その姿をみた御神は「大丈夫そうね。」と言って教室を出た。この日、綾瀬さんが鍵盤に手を乗せることはもうなかった。彼女の足が止まったからではない。前に進んで居るからだ。俺はこの歩みをいつまでも見守っていたい。
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