【002話】ヒュ~ドロドロドロ


 イチルを揺り起こしたのはベノムだった。

 なぜ別れたはずのベノムがここにと考えるまもなく、慌てて辺りを見渡すと、恐ろしい数の冒険者が、次々と地上へ転送されているようだった。


 一体何が起こっていると状況を飲み込もうとするが、場の誰もがパニック状態に陥り、一人として理解できていなかった。しかしいち早く状況を読み取ったベノムは、イチルよりひと足早く、まさかの状況を予測し呟いた。



「エターナルダンジョンが……、なくなってる?」



 信じられず疑問の声を漏らしたイチルは、突風ウインドの魔法で高く飛び上がると、上空から周囲の景色を見下ろした。

 頭の片隅に残っていた微かな地上の記憶と、眼下に広がる景色とを重ねながら、一つ一つを見比べた。


 ゼピアの街は、……ある。

 イルニスの泉は、……ある。

 マルーエルモアのギルド事務局は、……ある。

 ドス=エルドラドの換金所は、……ある。


 しかし――


「エターナルダンジョンだけが、……ない」


 通称、エターナルダンジョン。正式名称 X-2248型竪穴式ダンジョン は、約8600年続く前人未到の要塞であり、何人なんぴとによる攻撃をも全てを跳ね返し、幾万、幾億もの冒険者を無慈悲に葬り去ってきた魔境である。

 その事実は一昨日も、昨日も、今日だって変わらない場所であるはず、だった。


「それがなぜなくなる。まさか……、何者かがダンジョンを攻略した?!」


 誰がダンジョンを解体したのか。そんなことは、イチル自身が一番知っているはずだった。そのがダンジョン内で最後に話した人物は、間違いなくイチル自身だったのだから――



「あ、あの。たった一人で下までやってきた、あの賢者の……」



 長く案内役アライバルを続けているうちに、イチルは冒険者の顔をまじまじ見ることをしなくなった。顔を覚えたところで、すぐにこの世から消えてなくなる儚い存在を、記憶に留める意味などなかったからだ。


「あの女が階段を降りて以降、俺はひとりの冒険者とも遭遇していない。もし誰かがダンジョンを攻略したというのなら、可能性はあの女しかいない、が……、これは夢じゃないよな?」


 漫画の中でしか覚えはなかったが、イチルは大袈裟に自分の頬をつねってみた。確かに痛みがあり、夢ではないようだった。


 元々ダンジョンがあった周辺には、どれだけの冒険者がダンジョン内にいたんだと困惑させられるほど、人や動物、テイムされたモンスターなどが転送され、所狭しとひしめき合っていた。

 イチルは少しずつ現実を飲み込みながら、ふぅぅと深呼吸した。しかしずっと忘れていた背負い込んでいた冒険者が、慌てて横槍を入れた。


「お、おいアンタ。ここは、ここは地上だよな、もしかしてアンタがやったのか?!」


 冒険者の男がベルトを外し、イチルの胸元にしがみついた。

 正直に自分の仕業ではないとイチルが首を振ると、男はハハハと狂ったように笑い始め、かと思えば玉のような涙を流しながら地面に突っ伏した。


「だったらさっきの契約は無効だよな。……やった、……やったぜ、まだツキは俺にありやがった、ヒャッハハ!」


 失禁しながらイチルに中指を立てた冒険者の男は、定まらない視線や言動もそのままに、千鳥足で何処かへ走り去った。

 男の言葉で反対に冷静さをイチルは、腰の荷物の中から父親の遺品として残していた捩れたタバコに火をつけ、口に咥えた。


「まいったねこりゃ。思わずオヤジの形見を吸っちまうほどに」




 ――――――――

 ――――――

 ――――

 ――



 こうしてエターナルダンジョンが攻略されたという事実は、瞬く間に世間に知れ渡った。しかしダンジョンをクリアした人物が世間に名乗り出ることはなく、未だ誰がダンジョンを潰したのかという憶測だけが世の中を賑わせていた。


 そんな中、イチルはダンジョンが消失して以来、何をするにも気が入らず漠然と無の時間過ごしていた。

 あれだけ張り詰めていた緊張感も、真横に漂っていた死の臭いも、隣合わせの命の駆け引きも、全て何もかも消えてしまった。残ったのは眩いほどに輝く太陽の光と、平和すぎる日常だけだった。


「心の臓まで圧迫されるような魔の巣窟で生きてきた俺も、ただ何もない広い大海原に投げ捨てられれば、しょせんは無価値なミジンコにすぎないんだよなぁ。……平和だ、平和すぎる」


 安価で購入したバカンス専用の背倒し自由の椅子に腰掛け、これまた安物の目隠し帽で顔を隠したイチルは、慌ただしく移動を始めた人々の列を横目に眺めながら、冷えた酒をグイと飲み干した。


 エターナルダンジョンが消失した影響はあまりにも大きく、ゼピアの街は主となる産業が一瞬にして壊滅。ダンジョンにまつわる仕事に従事していた者たちは軒並み廃業を余儀なくされていた。


 どれだけこの街はダンジョンに依存していたんだよとイチルは笑ったが、肝心の自分自身もそうだったのだから、笑っている場合ではなかったが――



「あ、イチルさん。またゴロゴロ人間観察ですか?」


 慌ただしく流れていく街の狭間で、悠長に横になっている怪しげな獣人に話しかける者など限られていた。顔も見ず「ベノムか」と頷いたイチルは、帽子で顔を隠したまま素っ気なく答えた。


「ダンジョンが無くなってもう十日っすよ。そろそろ準備しなくていいんすか?」

「準備? 準備ってなんだよ」

っすよ。いつまでもここでゴロゴロしてるわけにもいかんでしょう。早いところ次を見つけないと、食いっぱぐれますよ。イチルさん、ただでさえなんですから」

「おっさんで悪かったな。……俺はもう少し休暇だ。今は何もしたくねぇ」

「そっすか。それじゃ、俺はそろそろ出ますんで」

「はぁ? そんな急いで何処へ」

「シンシニティ(※ダンジョン)で欠員が出たらしくて、そこに入らないかって誘われまして。ウチよりかなりレベルは落ちますけど、アッチもそれなりに有名ダンジョンですし。てことで、イチルさんもいつまでもダラダラしてないで、早いとこ仕事探した方がいいっすよ。ではまたどこかで!」


 おいと呼び止めたイチルの言葉を聞かず、適当に手を振ったベノムは、そのままゼピアの街を去っていった。

「マジかよ」とイチルが苦笑いを浮かべるが、さっさと切り替えて次へ進めるあたり、随分と割り切った良い性格をしているよと尊敬するしかなかった。


 荒野を転がるが、風に煽られて飛んでいった。ほんの十日足らずで、ゼピアの街からは多くの人が出ていってしまった。

 主要なギルドや冒険者団体は、すぐに隣町のロベックへと移設を決定。金融絡みの役所やダンジョン用の特別出張所もさっさと移転を決め、今や準備に奔走する慌てようだ。


 残されたのはイチルのように世の流れに対応できない、またはしない者や、ゼピアの地に長らく住んでいた者、そして移動するアテすらない者に限られていた。


「と言ったところで、俺には身よりや頼るべき仲間もいないしね。ここ五年はベノム以外とほとんど口もきいてないし、部屋から出れなくなった引きこもりと立場は同じだな、ククク」


 職なし、宿なし、やる気もなし。

 一夜にして異世界での居場所を失ったイチルに、もはや目的など一つもなかった。


 半ば強制的に与えられた案内役アライバルという仕事は、いつしかイチルの全てになっていた。ともすれば、残ったのはただ息を吸い、酒を飲み、ゴロゴロしているだけのゴミ虫と変わらない。


「……酒がきれた。ちっ、しゃーねぇな、買いに行くか」



―― そうしてさらに十日が過ぎた。


 街の人口はついに1/15にまで減っていた。

 特に富裕街と呼ばれる一角は酷いものだった。

 ダンジョン攻略という最高の名誉を手に入れるためだけに、恐ろしいほどの時間と金をかけ、強靭な冒険者や超高レベルの武器防具をかき集めるのに苦心していた貴族や金持ちたちは、価値のなくなった街にさっさと見切りをつけ去っていった。


 人気ひとけのない街を横目に、イチルは辛うじて営業を続けていたパブの戸を開き、店内を見回した。

 中では人生を憂いながら泣きはらす者、全てを失い背もたれに寄りかかったまま動かない者などが入り浸り、長居する気になれなかったイチルは、カウンターで引け目がちにカップを磨く店主にさっさと声をかけた。


「おぉん、あんたもしかしてイチルか。ひっさしぶりだな、元気にしていたか」

「見てのとおりさ。酒を瓶で二本もらえるかい」

「あいよ。そういやベノムは一緒じゃないのかい。いつもアンタにべったりだったろ」

「さっさと次をみつけて出てったよ。俺みたいなおっさんは呆然とするばかりで、今もこうして酒を呷るだけの日々さ」

「アンタほどの腕がありゃあ、どこでもやっていけるんじゃないのかい」

「わかってないな……。俺はエターナルダンジョンココ専属なんだよ。酒、ありがとよ、また頼むよ」

「構わねぇさ。しっかし悪いね、ウチも今日で店じまいなんだ。一旦ロベックへ戻ってから、また一考するよ」


 金を手渡し酒瓶二本を受け取ったイチルは、指先だけで適当に手を振り、「お達者で」と伝えた。恐らく二度と会うことはないだろうが、おっさんのご多幸を心より願っているよという願いを込めて。


「皆様見切りがお早いことで。変化に対応できるも良し、できないのもまた良しだ。俺はもう少し、この平和な時間を謳歌させてもらうよ」


 両手に酒瓶を抱え、どこか景色のいい場所でもなかろうかと街を彷徨さまよったイチルは、いつしか妙にガランとした一角に入り込んでいた。


 どうやら噂の富裕街と呼ばれる地区で、威厳と風格を見せつけるような一ランク上の雰囲気を漂わす邸宅の数々は、一つ一つが妙に大きく、言うなれば威張っている風に見えた。


「こんな絢爛豪華な家すら簡単に捨ててくってんだから、貴族や金持ちってのは本当に嫌味な種族だよ。でも待てよ、誰もいないってことは、俺が住んでもいいってことだよな。ホホッ、これはラッキーじゃない」


 終の棲家を失って以来、定住する家すらなかったイチルは、適当にあつらえた簡易テントで雨風を凌いでいたが、やはり屋根くらいは欲しいと誰もいない物件を物色することに決めた。


 しかし現実は虚しいものだった。出ていきたてホヤホヤの邸宅の数々は、一見どれもきらびやかで優美に見えたが、それもまやかしにすぎなかった。いざ中に入ってみれば、外観の優雅さとは程遠く、簡素で質素な部分ばかりが目に付き、金目のものどころか二束三文にしかならないような粗悪品ばかりが散らばっているだけだった。


 空き巣にあったような邸宅の隅で酒を口に含んだイチルは、いつの時代も見栄の張り合いは変わらないなと舌打ちしながら、結局どれも気に入らず外へ出た。



 そんな時だった――



 邸宅と邸宅の合間の道にズズズと風が通り抜け、突如として不穏な空気が漂い始めた。何事だとイチルが見回している間にも、急激に周囲から明るさが減少し、薄暗くジメジメしたものへと変わっていく。


 そしておもむろに、転生前に聞き覚えのあるような、が辺りを包み込んだ。


 ヒュ~、ドロドロドロドロドロ

 ヒュ~、ドロドロドロドロドロ

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