また押し入れの観察を始めた彼女は、何かぶつぶつ言いながら床板をいろいろな角度から見た後、襖を閉めた。

「いざとなった時には、中がどうなっているのか見せてくださいね!」

 微笑んだ後、反対側の襖を開けた。太陽の光を十分に浴びたのだろう清潔そうな布団が、丁寧に畳まれて収納されている。布団を確認した八百音は、再びゆっくり襖を閉めた。その一連の動作を見てから、千雄は口を開いた。

「……なあ」

「はい」

 八百音はリュックサックに寄った。飲み物を飲もうと思ってのことだった。

「……あんた、何でそんなに忍者のこと、詳しいんだ?」

「言ったじゃないですか。本で読んだからですよ」

「猿楽のことや抜け穴のことも本に書いてあったのか?」

「そうですよ」

「……おかしいだろ」

「え?」

 千雄は眉をひそめる。

「忍者は公には知られていないはずだ。誰かその存在を知った人が書物に書くことはあったとしても、ただの都会人に、そんな簡単に術や忍具のことまで知られてたまるか」

「でも、確かに書かれていたんですよ?」

「普通じゃねぇな」

「……そうですね。普通の本ではないです」

「ほぅ?」

 八百音はリュックサックから水筒を出してお茶を一口飲んだ。

「確か、最初は歴史に関する本だったと思います。学校で習うようなニホンの歴史をベースに、その時その時の裏話なんかが書かれている、マニア向けの本です。そこにたった一言、『シノビ』という言葉が書かれていました。これは何だろう、そう思ったのが始まりです」

「……それで?」

「こんな風に言うと自慢みたいに聞こえちゃいますけど、都会なんで、いい図書館がそこそこあるんですよね。その中に、私のお気に入りの図書館があって、通っているうちに司書の方とも仲良くなりまして。書庫の中の貴重な本を見させてもらう機会も何度かあったんですよね。それで私、書庫の本を片っ端から調べて、『シノビ』が『忍者』のことであって、彼らは古くから特殊な道具や術を使って裏の世界で生きてきたってことを知ったんです」

「……ほぅ。そんな本がね……」

 千雄は視線を上に向けて考えた。

「タイトル不明の、埃をかぶった、ある一冊の本には、いろいろなことが書いてありましたよ。忍者の仕事、忍者が使う道具、六つ道具、特殊な忍術……たぶん、『忍者大全』なんてタイトルが合うんでしょうけれど、それじゃああからさま過ぎだから、敢えてタイトルをつけなかったんでしょうね。でも背表紙にタイトルが書かれていない本を見て私、逆にピーンと来たんですよ。私の記憶が確かなら、著者名だけは書いてあって……確か……くずりゅう、くりゅ…………」

 八百音が宙を見上げたまま静止する。

「……」

「……」

「……」

「……お、おじいさんっ!?」

「あーーーーーーーーーーーーっ」

 頭の上の電球が突然点灯した八百音の前で、千雄は頭を抱えながら天を仰いだ。

「あのクソじじい! 何普通に本なんか出版してんだよ! てめえのせいでバレバレじゃねぇかっ!」

 叫びながら、千雄は自身の幼き頃を思い出していた。

 長いこと座卓に向かい、墨と筆を使って何か文章や図を書いていた祖父の背中――


『じいちゃん、何書いてるの?』

『おお、千雄か。これは我々の宝じゃ』

『宝ぁ?』

『我々の秘密を書き留めておくんじゃ。後世の為にな』

『秘密を書いちゃっていいの?』

『何、日記のようなものじゃ。千雄も書いたことがあるじゃろう? 我々以外が読まなければ何の問題もない』

『そっかぁ』


「我々以外も読んでんじゃねぇかよぉおおおおおおおお」

 千雄は自身の回想をもみ消すように髪の毛を掻きむしった。

「クソじじい……元を辿ればあいつが悪いんじゃねぇかよ……」

 イライラが止まらない。すぐにでも離れを蹴り破りに行きたい気分だった。

「あーもぉ……」

 ふと八百音を見る。千雄が怒りわめいていたことなんて知らない様子で、彼女は頬を赤らめていた。

「多賀良さんのおじいさんが、あの本の著者だったんですね……私、何でお名前を聞いた時に気付かなかったんでしょう……握手をしておけば良かった……」

「あんたはブレないな……」

 彼女を見ていると、身内に苛立ちを露わにしているのがバカらしく思えてきた。

 背表紙にタイトルのない本。

 都会にある大きな図書館の、普通の人は入れない書庫の中に、埃をかぶったタイトルのない一冊の本がある姿を、千雄は思い浮かべた。ニホンの全人口のうち、何人がその本を手に取るだろうか。そして熟読するだろうか。魔力が使えず、本を読むことでそれを埋めようとしていた彼女にとって、その本は世紀の大発見だったことだろう。

「……」

「おじいさんの書いた本、多賀良さんは読んだことがありますか?」

「いや」

「是非、読んでみてください! 忍者のことが、無知の人間にも分かりやすいように描かれているんです。それはもうフィクションではないと分かるくらいに!」

「俺は無知の人間じゃないしなぁ」

「た、確かに! でも、読めば絶対忍者に対する愛が深まること間違いなしですよ!」

「深まるも何も、そもそも愛なんて持ってないしなぁ」

「そんな謙遜しなくてもっ」

「してねぇよっ」

 「何で、何で」と女の目が言い続けている。

千雄は床に座り、彼女に背を向けて縁側の外を眺めた。雀が一匹、庭の木から飛び立つところだった。

「……忍者なんて、そんなにいいもんじゃねぇぞ」

「そうなんですか? 今や主流となっている魔力が生まれるよりも前から存在し、魔力とは違った特別な術や技を使って仕事をこなす。……かっこいいじゃないですかぁ」

「……かっこいいことなんかしてねぇ」

「私からしたらかっこいいですっ」

「……隠密であるが故に、その仕事で、命を落とすこともある」

「えっ」

 八百音が息を飲むのが音で分かった。

「都会で何不自由無く暮らしてきたお嬢さんには分からないだろうが、あんたが思う以上に、裏の世界はドロドロしている。人は死ぬし、そこまでいかなくても、一生残る傷が残ることだってある。この世界に踏み込まないで済むなら踏み込まない方がいいんだ」

「……」

「調査で来ているか何だか知らねぇけど、何も起きていない今のうちに帰った方がいいと、俺は思う」

「……」

「……」

 少し誇張した言い方だったが、怖がらせでもしないと彼女は帰らないだろうと千雄は思った。九頭龍九竜が何故、彼女を受け入れたのか。本当の理由は未だに分からないが、忍者の世界は楽しいものじゃない、その点を伝えたいことは事実だった。

 しばらくの沈黙の後、女が動く気配があった。ゆっくり、室内から縁側へ歩いてくる。

 落ち込んでこの家を出て行くなら、当然足取りも重く――


「多賀良さんっ」


 八百音が千雄の横から顔を出した。

 その顔は、笑っていた。

「そういうことも、本には書いてありましたから、厄介払いで私を追い出そうとして言っているなら、それは無駄です」

「あんた……」

「忍者は悪いことばかりじゃありませんよ」

 そう言って彼女は千雄の隣で縁側の外を見た。

「私と多賀良さん。私たちみたいな、こんな出会いもあります」

「え……?」

「全く関係のなかった人間同士が、今日初めて出会って、こうやって廊下に並んで外を眺める。そんな一時をくれた『忍者』に、私は感謝しています」

「…………へぇ」


 そんなことを考えるのか。

 つくづく変な奴だ。

 やはり、妙な人間にクソじじいの本を読まれてしまった、と思わざるを得ないのだが。彼女が読者で良かったのかもしれない――


『じいちゃん、何書いてるの?』

『おお、千雄か。これは我々の宝じゃ』

『宝ぁ?』

『我々の秘密を書き留めておくんじゃ。後世の為にな』

『秘密を書いちゃっていいの?』

『何、日記のようなものじゃ。千雄も書いたことがあるじゃろう? 我々以外が読まなければ何の問題もない』

『そっかぁ』


『もしも我々という存在が絶滅したその時、この本を読んだ者があったならば、その者はきっと次なる忍者の先駆者となるじゃろう。きっと後世へと繋いでくれる。だからわしは、遺言書のつもりでこれを書いておる』

『どういうこと?』

『分かる時が来ると良いな。絶滅する前に』


 千雄はまた、祖父の背中を思い出した。

 幼い頃から実の親代わりだった彼の背中を。

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