蛍火鶉梅・虎春姉弟の一件の後、ようやく本家の裏口に着いた千雄たちは、靴を脱いで家へ上がった。千雄は素足にサンダルだったが、八百音は段差に座ってブーツを脱がねばならなかった。泥の付いたそれを見て、八百音は溜め息をつく。いろいろな意味でこの靴を履いてこなければ良かった。

 千雄が八百音を案内したのは、床が板張りになっている八畳ほどの広さの部屋だった。押し入れがあるだけで、家具も飾りも何もない。やたら広い和室――大広間のことを千雄や九竜はそう呼んでいる――と比べてしまうと狭く感じるが、客間としては十分だ。

「いざとなった時の部屋なんだが、寝るだけならこれくらいありゃ十分だろ」

「……いざとなった時って、どんな時ですか」

「いざとなった時だよ」

「……」

 不安そうな顔で八百音は部屋へ入った。

「布団は押し入れに入ってるから、好きに出し入れしてくれ。床が固くて尻が痛いかもしれないけど、勘弁な」

「あ、ありがとうございます。たぶん大丈夫ですっ」

 言いながら、八百音はリュックサックを肩から下ろした。中には簡単な着替えと非常食が入っていた。水筒に入ったお茶が案外重く、早く下ろしたかったのが本音だった。

 リュックサックを部屋の隅へ置こうとした時だった。

「あ、そこはっ」

 引き留める千雄の声と、床板の細い一枚がリュックサックの重みによりシーソーの要領で跳ね上がるのと、その床板が八百音のおでこに当たる音が、ほぼ同時に起こった。

「いったぁっ!」

 乾いた音だった。骨へもろに当たったのか。一歩身を引いて、八百音はおでこを両手で押さえた。その顔は苦痛で歪んでいる。

「遅かったか……」

「な、な、な、何で床が外れるんですかぁ!」

「そこは……ほら」

 千雄が指差した先、床板が上がって露わになった床下に、床板一枚分の幅の空間があった。中には黒くて細長い物がしまわれている。ニホン刀だった。

「『刀隠しかたなかくし』って言って、文字通り、刀が隠してある場所だからよ」

「刀!? 刀隠し!? 何て危ない部屋に泊まらせようとするんですかっ!」

「あんただったら許されると思って……」

「私を何だと思ってるんですか……」

 そう言いながらも、女は何だか嬉しそうだった。刀隠しの真横にしゃがみ、その隙間に手を差し入れた。鞘は黒くて艶があり、柄には装飾が施されている。

「これが……刀……!」

 右手で柄、左手で鞘を優しく握り、ゆっくり持ち上げた。ずっしりとした重みがある。

「気をつけろよ」

「結構重いですね……本物ですか?」

「当たり前だろ。いざとなった時に使うんだから、本物じゃないのを置いておいてどうするんだよ」

「だ、だって、そのいざとなった時に……本当に、人を……斬るんですか……?」

 八百音は恐る恐る千雄を見上げた。

「……当たり前だろ」

「……」

 千雄の顔付きが変わる。少し前の『当たり前だろ』とは、全く違う重みのある台詞だった。手にずっと持っていたはずの刀が、重みを増したように八百音には感じられた。

(この人たちは、いったい何と戦っているんだろう……)

 頭に浮かんだ疑問を拭えぬまま、八百音は刀を刀隠しへ戻した。自分が簡単に持っていい代物ではないと思ったのだ。

 リュックサックが重しになっているままでは刀隠しが開いたままになってしまう。八百音はリュックサックを部屋の中央に置き直した。

「ここなら大丈夫ですよね」

「たぶんな」

「えっ、他にも何か仕掛けがあるんですか……?」

「さあ、どうでしょう」

「……あるんですね」

「……嬉しそうだな」

 「変な奴」、と言いかけたが、千雄は口をつぐんだ。彼女はまた怒り出すだろう。

 その『変な奴』はニヤニヤしながら、押し入れの襖に耳を当てたり手の平を付けたり何かやっている。刀隠しの床板がぶつかった額はもう大丈夫なのだろうか。思い返してみれば先ほどから災難続きな女である。

「……」

 八百音のポニーテールを後ろから見ながら、千雄は唾を飲み込んだ。

 これほど忍者について興味を持っている人間が、今までに現れてくれたことがあっただろうか。忍者に憧れる女の面倒を見る――厄介なことになってしまったことには変わりない。だが、当初抱いていたものとは違う感情が胸の内に生まれていることに、千雄は気付いていた。

「!」

 その時、人の視線のような気を感じて千雄は振り返った。廊下は縁側にもなっていて、庭に面してガラス戸がある。ガラス越しに、千雄は庭に生えた木々を睨んだ。

「どうしたんですか、多賀良さん?」

 押し入れの襖に手をかけ、今まさに開けようとした格好で、八百音は首だけ家主に向けて問うた。開けていいですか、と確認するつもりで振り返ったら千雄もまた外を見ていたのだった。

「……いや、何も」

「……何もないのにそんなにずっと外見ます?」

(蛍火姉弟か……?)

 何者かの視線を感じたあの一瞬以外に、庭に異常は無いようだった。千雄は八百音に向き直った。

「で、そこを開けたいのか?」

「はいっ!」

 パッと切り替わって、八百音は瞳をキラキラさせた。

「好きにしていいって言っただろ。どうせ後で布団を出さないといけないしな」

「ありがとうございますっ!」

 にこにこ顔で襖を開ける。建物自体は古く感じるが、開けにくいなどという抵抗も何もなく、襖はすんなり開いた。

「わーっ! 何もない!」

 想定内のことだったのか、八百音の声は弾んでいる。寝具が入っているはずのその空間は、床板がはまっているだけで何も置かれていなかった。膝を抱えてしゃがみ込み、彼女は押し入れの中の床板を一点に見詰めた。

「……多賀良さん、これはもしかして」

「もしかして、と言いますと」

「『抜け穴』というやつですか!?」

「……ほぉ? あんた、そんなことも知ってるんだな」

「当然です! 床下を入っていくと、この部屋から抜け出せるだけでなく、おじいさんの家とも繋がっていると、そんな感じですね!?」

 八百音は早口で声高に言い切った。

「…………まぁ、とりあえず企業秘密ということで」

「とても忍者っぽくて素敵ですね、それは!」

 楽しそうに振り返った八百音は、千雄に向けて親指を立てた。ウインクを添えて。

「……そうっすか」

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