多賀良千雄の家は、典型的なニッポン家屋である。白壁と杉の木に囲まれている馬鹿でかい平屋で、真っ黒な瓦が二重屋根を作っている。古々河八百音がもともと歩いていた杉並木を、寄り道――手裏剣を投げる千雄の元へそれたこと――せずに真っ直ぐ二キロも歩き続けていれば、この家の門の正面に行き着いたのだという。

 白壁の敷地内には、もう一軒建物が建っている。多賀良家と同じ壁と屋根瓦が使われているが、大きさは半分にも満たない。上から見たら正方形の建物だ。多賀良家を本家とするならば、離れ。そこは九竜が住まいとしていた。部屋から見える庭の梨の木たちが、九竜の自慢だった。

 昼寝をするという九竜を離れに送った後、千雄と八百音は離れと本家を繋ぐ飛び石を歩いていた。

「本当に大きい家ですね……」

 何度もこう言ってしまう、と八百音は思った。都会生まれ、都会育ちの彼女は、実家だった家も今住んでいるアパートも標準的で、決して広くはない。

「さっきの広い部屋で畳の匂いをかいで、いいなぁって思いました。縁側もあったし、きっと風通しもいいのでしょうねぇ」

「田舎の家だって、バカにしてんだろ」

「してないですよ、褒めてるんです! どうして多賀良さんは、そうやってすぐ悪口みたいなことばかり言うんですか!」

「これが素なんでどうも」

 八百音は大袈裟に鼻から息を出した。

「……その前に、多賀良さん、いったいいくつなんですか?」

「とし? 十七」

「……」

「……ん?」

 八百音より数歩先を歩いていた千雄は、質問しておいてその返答に何の反応もない女のことを不審に思い振り返った。彼女は庭の敷石をぼんやり見つめながら、ピクリとも動かない。

「おーい、どうしたんだよ」

「……」

「おーい」

「…………年下」

「は?」

 八百音がバッと千雄を見る。

「多賀良さん、私より年下じゃないですかぁっ」

 その顔は何故か半べそである。

「お、おぅ。そうなのか」

「そうなのか、じゃないですよぉ! 何で私の方が敬語で喋ってるんですかぁ!」

 八百音は両方の拳を握って訴えた。

「え、うーん……弟子だから?」

適当なことを答えておく。

「弟子……」

 だが、この答えが彼女には功を奏したようである。急に空を見上げたかと思うと、

「そうですよね! 私は弟子なんだから、師匠を敬うべきですよね! そうだ、うん、そうだ!」

と言って、例の如く目を輝かせた。忍者をネタに使えばどんなことでもやりそうだ、と千雄は思うのだった。

「師匠!」

「呼ぶなっ」

「うぅぅぅ……」

(本当に年上なんだろうか……)

 これは今後も悩みそうだ、と千雄が目を伏せた時だった。

 敷地を囲う白壁の塀から音がした。

 千雄からほんのわずか遅れて音のした方を見た八百音は、塀の上から顔を出している人物と目が合い、小さく悲鳴を上げた。

 顔全体の上半分しか見えていないが、あの目鼻立ちは女の子だろう。二メートルはあろう壁から、覗くようにして金髪の子が八百音たち二人を睨みつけている。いや、二人を、ではなさそうだ。彼女の鋭い眼光は、八百音ただ一人に向けられているように思われた。

 ただ見つめ合うだけの一時。

 そのうちに「わっ」と少女が声を上げたかと思えば、顔が引っ込み、叫び声と共に壁の向こうで倒れるような音が轟いた。

「えっ……落ちた!?」

 口元を覆う八百音。何かの理由であの高い塀をよじ登っていた少女が、地面に落ちたとなれば一大事である。ただ疑問なのは、塀の向こうの叫び声が一人分では無かったということであった。

「気にすんなよ」

「多賀良さん、何言ってるんですか? 人が落ちたんですよ!?」

「そんなんでどうにかなる奴じゃねぇよ」

「またそうやって、おじいさんの時と同じようなこと言って……」

 彼はやはり、実に非道な人間である。安否を確認しようと、八百音は塀の下へ駆け寄った。

「あ、あの! 大丈夫ですかー?」

 塀の上を見て呼び掛ける。

 返答は無い。

 もう一度、声を掛ける。

「あのー! 聞こえてま――」

 聞こえてますか、そう訊ねる途中で、八百音は頭頂部に衝撃を受けることになった。

「いたぁっ」

 八百音は頭を押さえ、思わずしゃがみ込んだ。

地面の上に赤いレースアップシューズが一足転がっているのが目に入った。この靴が頭に降ってきたらしい。これは痛い。うっすら涙まで出てきた。

 脳天を指先で揉んでいると、八百音の隣にワンピース姿の人物が降り立った。

靴を片方履いていないのもお構いなしに、塀の上から見ていた少女が仁王立ちしていた。八百音の見立てでは、十歳ぐらいの年頃ではないかと思われた。金髪ショートヘアーの下で、猫のような両目で八百音を見下ろしている。穏やかな表情ではない。

「あんた誰よっ」

 少女は腰に手を当て、覗き込むように八百音へ首を突き出した。

「……へ?」

「あたしの千雄様とどんな関係よっ」

「あ、あたしの、千雄様ぁ?」

 八百音は痛みを忘れて、つい素っ頓狂な声になる。

「とぼけないで! あたし見てたんだから。あんたと千雄様が仲良く一緒に家に入っていくとこ!」

「仲良く、一緒に?」

「一緒に入っていってたじゃない! 今だって、二人並んで庭を、楽しそうにっ」

「た、楽しそうだったかなぁ……?」

「二人並んでたことは否定しない! まるで当然のことのように……。あたしでさえ、最近は門を通してもくれないのに……」

 少女はポケットからレース製のハンカチを取り出し、目元に当てた。おいおいと声を出している。

「あたしの千雄様がぁ……。こんな女なんかにぃ……」

「え……えっと……」

 突如として泣き出した金髪少女を見上げながら、八百音は考えた。

 この子は何者だろう。多賀良さんが『そんなんでどうにかなる奴じゃねぇ』と言っていたし、この子は多賀良さんのことを『千雄様』と呼んでいるのだから、二人が顔見知りであることは間違いないだろう。ただ、彼女は何か勘違いをしているような気がする。多賀良さんと私の関係を。靴が落ちて来たのも故意によるものなのだろう。私に対しての発言からも容易に想像できる。それはまるで――


「お嬢ちゃん……多賀良さんのこと、好きなの?」


「ひっ――」

 少女の身体は硬直。更にその顔はみるみる紅潮していく。

「あ、やっぱり!」

八百音は立ち上がった。今度は少女を見下ろす形となる。

「……」

「なーんだ、なら最初から言ってくれたらいいのに。私はただの客。お嬢ちゃんが想像しているような関係じゃないから気にしないで?」

「……こ……い、……で」

「……え?」

「こ、子ども扱いしないでっ!」

 少女は歯をむき出しにしてハンカチを振り回した。

「わ、ごめん、ごめん」

「まだしてるっ!」

「そんなつもりは……。でも貴方、十歳くらいよねぇ?」

「十一歳よ! バカにしないで!」

「う、うーん……」

 同じようなものではないか、とはとても口にできなかった。八百音は察した、この話は御法度なのだと。多賀良千雄への好意も間違いでないと分かった。

「あっ」

 多賀良千雄。さて彼は、一連をどのような気持ちで見ていたのだろう。八百音は本家と離れを繋ぐ飛び石を見た。

 いなかった。

(多賀良さーん、この子、いや、この方は誰なんですかーっ)

 どうしたら良いか分からず、八百音は心の中で叫ぶのだった。

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