「話は全て聞いたぞっ!」

 しゃがれ声が響き渡った。

 声の主を確かめようと八百音が振り返った時には、その主は彼女の真横を疾風の如く駆け抜け、多賀良千雄の脳天に足蹴をくらわせていた。

「いってぇ!」

 千雄は顔を歪め、畳にあぐらのまま倒れ込んだ。

 「えっ?」と、八百音が千雄たちを向く。

 千雄が倒れ込んだのと反対側の畳の上へ着地したのは、身体の小さな老人だった。鼻の下の厚い白髭が特徴的だ。頭に木綿の手拭いを帽子のようにつけているが、そこからはみ出る白髪は薄いと見える。

「ど、どなたでしょう……」

 老人は八百音をしわしわの指で差した。

「否っ!」

「ひぃっ」

「客人のお主の方が、この家では素性の分からぬ者じゃ」

「た、確かにっ」

 八百音は背筋を伸ばし、正座し直した。足がビリビリした。

「突然お邪魔してしまってすみませんっ。古々河八百音、と言います。古い古い大きな河の、八百の音、と書きます」

「ふむ、古々河とな。聞かん名じゃ。この辺の者ではないな?」

「は、はい……。『トウキョウ』から来ました」

「『トウキョウ』からか。それはご苦労じゃのう。……して、『トウキョウ』の人間が何故『天隠』に?」

「っ……」

 八百音の予想していた問いではあったが、彼女は口をつぐむことになった。この部屋まで来る間に、上手い言い訳を思いつかなかった。会社からは、極秘プロジェクトの一貫なので素性などを秘密にするように言われていたのだ。

「それは……」

「それは?」

「……ちょ、調査です!」

 八百音は人差し指を立てて笑顔を作った。こういう時は全てに嘘をつかない方がいい。適度に本当のことを混ぜると現実味が増すのだということが、浮気に関する本に書かれていたな、と思った。

「調査、とな? 何の調査じゃ?」

「……こ、この辺りの、か、環境です」

「この辺りの、と言うと、天隠山の、ということじゃな」

「は、はい! そうなんです! 役所で命じられまして……」

「なんと、お主は役所の人間であったか。そうか……じゃが、事前にそんな連絡があったかのう?」

 老人は顎に手を当て、八百音の顔をまじまじと見た。

「きゅ、急遽決まったんですよ……!」

 八百音は胸の前で両手を振りながら、精一杯取り繕った。

「ふーむ……」

「はははは……」

 乾いた笑いを出しながら、八百音は老人から視線を反らした。


「何、俺抜きで話進めてんだよ、クソじじいっ!」


 今度は千雄が老人の頭に右足をクリーンヒットさせる。「ひゃあっ」と悲鳴を上げるのは八百音だ。彼女の前で、ご老体は吹っ飛んで部屋の隅に転がった。

 すかさず八百音は立ち上が……れなかった。痺れの走った足は座布団に接したまま、上半身をひれ伏した。

「つーーーーっ」

「……大丈夫か?」

 しゃがんだ千雄が八百音の頭頂部に問いかけた。

 痛みに負けまいと、八百音は顔だけ上げてキッと忍者の男を見た。

「ご、ご老人に貴方、何をやってるんですか!」

「俺のじいさんだ。何しても自由だろ」

「自分のおじいさんだからって、やっていいことと悪いことがあるでしょう?」

「ただ仕返ししただけだ。俺もやられてるんだからな」

 ムッとしたのか、千雄は立ち上がって腕組みした。

「だからって、怪我したらどうするんですかっ」

「あんなんで怪我なんかするかよ、あのじじいが」

「頭を蹴っていたじゃないですか!」

「大丈夫だって」

「絶対怪我して――」

 八百音が発言している途中で、視界の隅に倒れていた老人の動く気配があった。

 見ると、何処から出したのか、微笑んだような顔をした長い顎髭の翁の面をかぶり、老人が舞いを踊っていた。八百音は呆けた顔になった。

「さ、猿楽師さるがくし……?」

「ほう、この姿まで知っておるとは、古々河殿、相当な博識と見える」

「そんなことは……」

 身体を起こしてもじもじし始めた八百音を見ながら千雄は、

「ドジっぽいけどな」

と呟いた。

「何か言いました?」

「いえ何も」

 しかし、と千雄は思った。確かにじじいの言う通りかもしれない。


 彼女は、忍者の存在だけでなく、その術のことまで知っている?


「古々河殿」

 千雄の心を読んだかのように、千雄が口を開こうとするより先に老人が言葉を発した。面をかぶったままであるが、翁のニヤけた表情が逆に八百音を緊張させた。

「はいっ」

「改めて確認するが、先ほどお主らがしておった話から察するに、お主は我々の正体を知った上でここまで見えたと、そういうことじゃな?」

「やっぱり! おじいさんも忍者さんなのですね!? じゃあやっぱり、その頭に着けているのも、忍者の七つ道具と言われる『忍び六具』の一つ、『三尺手拭さんじゃくてぬぐい』ですね!?」

 八百音は祈るように胸の前で手の指を組み、目を輝かせた。

 「千雄よ……」と老人は我が孫の姿を見た。千雄には実の祖父が何を言いたいのかを容易に察することができた。あの面の下では、皺だらけの眉間に更に皺を刻んで睨んでいるに違いないのだ。修行している姿を一般人に、しかも忍者を知っている人間に見られるなんて失態を、よくぞやってくれたものだ、と。千雄は口笛を吹きながら視線を天井に向けた。

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