94回目の誕生日

个叉(かさ)

第1話



その人は無口な人でした。









山の谷間に鳥のさえずりが渡る。木々の青さがやけに目に映え、眩しさに目を細めながら、弛い勾配を歩く。段々になった田んぼは黄金色を帯び始めていて、畦道には真っ赤な曼珠沙華の群像。天高く背を伸ばす茎が、にょきにょきと頭角を表し、まだ暑さを残した太陽と青空に、その赤い存在を知らしめている。その中央にある家。辿り着くと目の前に大きな納屋のトタン、広く開いた高い屋根の車庫に入る。

そこに高く積み上げられた薪は、生活必需品でよく見慣れたものだが、人の身長の三倍からあろうかという高さは圧巻だ。父が毎日拾って、又は割って乾燥させているものだ。積み上げたそれは天井まで到達していた。車庫のそこいらには割られたまだ生木の薪が置かれていた。


「帰りました」


車庫の扉を開くと茅葺きの家に繋がっていて、風呂場と土間がある。あと厠か。厠は車庫側の田んぼに近いところにある。板を張り合わせ、小屋のような個室というには広い空間に、ポツンと真ん中が長方形にきりとられている。その下は肥を溜めるように出来ていた。

風呂場と土間は簡単に火がたけるように繋がっている。その向こうに家に繋がる扉が一つ、右手には玄関口と納屋。

玄関口を出ると庭が広がる。庭には隙間なく一本の太い線のように敷き詰められた御座ある。小さな赤い豆が御座を埋めるように干されている。苦い記憶がある。小さい頃、全体を混ぜる作業を怠ったと父に叱られた記憶だ。勿論混ぜたのだ、一番効率のいい方法で。しかし、父は御座の四隅に一粒ずつ豆を置いていて、それが動いていないと宣われた。正式には御座の端と端をつまんで、きっちり混ぜるそのやり方は、とても労力がいるのだ。それを画期的に省略したのだが、父には理解されなかった。

庭の端に溜めた小さな池には鯉がいた。水のなかでエサを探しているのか潜っていたが、こちらの姿を確認して水面により、パクパクと口をつき出す。それを眺めていると、家の縁側の窓がカラカラと涼しげな音を立てた。


「帰っとったんか」


母だ。着物を捲し上げて漬け物を浸けていたのか、色粉で手が汚れていた。


「ただいま」

「映画は。どうじゃった?」

「楽しかったわ」


正確には間に合いそうにないので、お巡りさんをつかまえて送ってもらった。それが一番楽しかったことを、彼女は告げなかった。映画の券は無駄にならずにすんだことが僥倖である。


「明日は迎えに来てくれるから、早くに行くわね」

「それなんじゃが、話がある」


母は、そう言ってカラカラと縁側を閉めた。





母に促された先には、父がいた。父と母、姉との話は、驚くものだった。家父長制の世の中、そこで話されることの決定権は父にある。だが、姉の意思は母と共に貫かれ、父が折れた。


彼女は、嫁ぐことになったのだ。

姉に来た縁談は、彼女が引き継いだ。


大正時代、高等教育は女子の生き方を変えた。殆ど卒業後は嫁に行くなど、当たり前だった時代。しかし、そんな選択肢のない時代は終わっていった。よい企業に働くか、教師という職業が人気になった。モダンガールは流行の先端で、美しく気高い存在になっていく。

大戦後、米国が教育にテコ入れしたことで、女子教育はさらに進んでいく。だが、まだ高等師範学校などには行くのは一握りで、姉はそれを望んだ。教師を志すのは、憧れだ。姉の影響か、家では父母以外、標準語を話すようになっていた。


彼女は嫁ぐに当たって先ず、別れを余儀なくされた。淡い恋心は消さねばならなかった。汽車の音が鳴るなか別れを告げた。彼は彼女の弁当を手に、車両に飛び乗った。濁った窓でお互いの顔が判別が出来なくなるのには、時間がかからなかった。



それから、彼女は彼にであった。


その人は、無口な人でした。

無骨な人だった。農家の仕事は人一倍出来て、体力に自信があり、何でも道具を作ってしまう。しかし言葉は少ない。何を考えているか分からなかったが、大切にしてくれた。

力がない、肌が弱いと、そういった仕事は黙って彼がしていた。電気や灯油の扱いは彼が率先していたから触ったこともなく、買い物かごは彼が全ての荷物を持った。子供のために出来ることは何でもして、彼もそれに反対はしなかった。

そのうちにぶっきらぼうながらに優しく、器用貧乏で、人のことばかりして損なたちだと分かってきていた。少しお茶目でかっこつけで、何かに打ち込むと天才肌。それをひけらかすことなく、皆に分け与える人。

小豆が好きだ。魚貝が好きだ。肉が好きだ。彼の好きな食べ物ばかり作った。食べないときは特に、そればかりだ。

病気も怪我も多かった。

動けなくなる病気でも、彼が動かなくなることはなかった。むしろ率先してリハビリし、文字を書き、ものを作り、止まることはなかった。



彼は、好きな人ではなかった。

でも、彼じゃなければ、生きてこれなかった。

彼じゃなければ、家族にはなれなかった。







「夢に出てきてん。丁度一ヶ月たった時に。忙しいっていうから、ああそうかって」


彼女は話す。

少しお茶目で働き者の彼のことを。彼と何処か似た面差しで。彼女を卵のように抱えた彼は、記憶に新しいが、もう随分とたってしまった。


「泣きそうになると、何かゴキブリとかやっつけなあかんものが出てくるねん。油断できへん。泣く暇ないし。多分泣くなってことやわ」


よく分からない言葉に耳を傾けて、マッチを擦る。回り線香が煙をあげた。


「勝手なことばぁ言うて」


もう標準語ではなくなってしまった言葉は、彼といて染み付いてしまったものだと、今さら思いながら。彼女はお鈴を鳴らした。


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94回目の誕生日 个叉(かさ) @stellamiira

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