水曜日には雨が似合う

軒下ツバメ

水曜日には雨が似合う

 傘を開きながら、雨は嫌いだと彼女は言った。

 「どうして」と、私が聞くと「嫌いなものは嫌い」と言って彼女は先に歩き出してしまった。

 雨がつたう軒先から視線をそらした彼女の心には、雨が嫌いな理由がきっと存在していたはずなのに。

 それなのに、教えてはもらえなかった。

 最後の最後まで。




 俯いた視線の先にあった水溜まりを男の足が踏んだ。

 ばしゃりと跳ねた水滴が私の足元にまで飛んできてローファーの爪先を濡らす。

 ベンチにじっと座っている間に雨にぬれたローファーは乾いていた。今飛んできた水滴だけが爪先に浮かんでいる。

「サボりかい?」

 頭の上から降ってきたのは男の声だった。高校生か大学生くらいだろう若い男の声だ。

「知らない人と会話しちゃ駄目だって小学生でも知ってることですよ」

 顔も見ずに返答する。誰だろうがどうだっていい気持ちだったから。

「なるほど。じゃあ自己紹介をすればいいのかな? 俺は……俺はね、宇宙人だよ」

 意図せず顔をあげてしまう。目が合うと男はにっこりと私に笑いかけた。

「宇宙人か、そうでなければ幽霊でもいいよ」

「足があるようですけど」

「今時の幽霊は足くらいあるだろう」

 関わってはいけない類いの人間だとその発言で即時に判断することに決めた。口を閉じ再び俯く。

「無視されるのは寂しいな」

 軽い調子で彼はそう言いながら私の隣に腰を下ろした。ほんの少しの距離を空けて。

「梅雨明けまではまだ遠そうだね。嫌になるよね、毎日雨だと気分まで滅入ってくる」

 洗濯物も乾かないしね。と、宇宙人でも幽霊でもいいと言ったわりに現実的なことを彼はぼやいた。

「洗濯物なんてしないんだから関係ないでしょう」

「どうして? ……ああ、もしかして親がやってるって思うからかな? いやいや俺だって洗濯くらいなら自分で、」

「そうじゃなくて」

 よく喋る男だ。私がはっきりと話を遮らないと自分で勝手に話を進めてしまう。

「あなた宇宙人なんでしょう」

「……宇宙人でも。ほらこの通り服を着ているんだ、洗濯だってするさ」

 見せつけるように彼は立ち上がり手を広げくるりと回ってみせた。

「それじゃあ幽霊なら?」

「幽霊なら、…………どうだろうね?」

 すとん、と。彼は流れるようにまたベンチに座る。

「聞いているのは私ですよ」

「幽霊って基本的に着替えないというか不思議とお洒落な幽霊って目撃情報がないよね? どうしてだろう。俺は日常的に真っ白なワンピースを着ている女性の方が確実に少数派だと思うんだけど、あれは幽霊の正装なんだろうか? 君はどう思う? 意見を聞かせて欲しい」

 大真面目に馬鹿馬鹿しいことを聞いてくる。この人は一体何歳で何をしている人なんだろう。

「話を勝手に変えないでください」

「変えてなんかいないよ。幽霊は洗濯をするのかを真面目に考えた結果さ」

 テストの最後にある難問を解いてるように彼は真剣に考え込んでいる。なんて暇な人なんだろう。

「幽霊なら、洗濯しなくても念じれば好きな洋服を着られるんじゃないですか?」

 彼はぱちぱちと瞬きをすると嬉しそうに笑ってこう言った。

「夢があるね。とても良い回答だ」

 子どもみたいな笑顔だった。

「……サボりですか?」

「俺が最初に聞いたことにはまだ答えてくれていないのに、同じ質問で質問を返してきたね。でもまあいいだろう答えてあげよう。俺は今日は自主休校日だよ。休みたい時に休める。これが学生の最高にモラトリアムなところだよね」

「…………………………はあ、そうですか」

 やっぱり変な人だ。でもとりあえずこの人が学生ということだけは分かった。

「それじゃあ、私も自主休校日です」

「……義務教育の間はまだ自主休校日は使えないよ」

「宇宙人のくせに、幽霊のくせに常識を説くんですか?」

 少し苛立った。学校をサボってはいけませんなんてことは小学生だって知っている。

 理解したうえでの行動なのだから、親でも教師でもないこの人にまで説教されたくない。

「ごめん。……そうだね幽霊が常識を語るなんてつまらないことをしてしまった。謝るよ」

「仕方ないので謝罪を受け入れてあげます」

「寛大な心に感謝するよ」

 私達の間に訪れた沈黙を雨音が埋める。さあさあと暴力的でもなければ優しくもない雨が止まずに降り続けている。

「……それで君はせっかくのお休みにこんなところでどうしたの? 外は雨だし、ここは肌寒い。居心地の良い場所とはいえないだろう」

「雨を、」

「雨を?」

 自分の気持ちを言葉にするというのは難しいことだ。私は私の気持ちをどう言葉にすればいいのか分からなかった。

「雨を見ていたんです」

「それは随分風情があるね」

「駄目ですか?」

「いいや。若いのに見所のある女の子だと思ったよ」

「見所」

「人が足を止めないことに敢えて足を止められる人間は、きっと大成すると思う」

 大成するというのが実際どうなることなのかは分からなかったが、とにかく褒められているのは分かった。

「君は雨が好きなの?」

 そう問いかけられると、傘を開く彼女の姿が思い浮かんだ。

「いいえ」

 好きでも嫌いでもないのだ。私は。

「じゃあ、どうして雨を眺めていたのか聞いてもいいかな?」

「聞いてどうするんですか」

「どうもしないよ。ただ聞きたいと思ったから聞いているだけだ」

 彼のその返答は不思議と不快ではなかった。だから気まぐれに話してもいいかと思ってしまった。

「雨は嫌いだと言っていた友達がいたんです」

「まあ嫌いな人は多いよね。服は濡れるし髪はうねるし。体調を崩す人だっている」

「多分……多分友達が言った嫌いはそういった理由ではなくて、もっと、なんていうのかな、……そう、もっと切実な気持ちが、そこにあったんです」

 単純な不快さからくるような嫌いだったら、彼女は簡単に理由を私に教えてくれただろう。

 「嫌いなものは嫌い」だなんて突き放すような言い方ではなくて、それこそさっき彼が言ったような理由を教えてくれただろう。

「切実な気持ち」

「そうです。……友達は私にそれを教えてくれなかった……だから……だから私は」

 知りたくて。分かりたくて。だから私はこんなところで、学校をサボって雨の傍にいたのだ。

 自分でも不可解だった自分の行動の理由を、私はやっと理解した。

 最初からサボるつもりではなかった。

 けれど家を出て、傘が雨をはじく音を聞きながら歩いていると、足が学校へ向かうのを拒否した。

 どこに向かっているのか判別がつかないままぼんやりした頭で歩き、最終的に私はこのベンチに座っていた。

 雨を眺めていれば彼女が雨を嫌いな理由が分かるだなんて、本当に思っていたわけじゃない。でも、ほんの少しでも何か、きっかけ程度のものでも、掴めるんじゃないかって。

「友達は転校したんです」

「それは寂しいね」

 彼がさらりとこぼした言葉が私の中ですとんと腑に落ちた。

 ――ああ、そうか私は寂しかったのだ。なんで、とか、どうして、とか。

 疑問や詰りたさよりも、もっともっとどうしようもなく、寂しかった。

「連絡をすると彼女は言いました。転校しても友達だと。けれど彼女が転校してから一年たった今。もう三ヶ月も彼女から通話がかかってくることもなければ、メッセージだって送られてきません」

 私は彼女と友達だった。少なくとも私はそう思っていた。

 私と彼女は友達だから例え転校してもこれまでも変わらず、ずっと友達なんだと思っていた。

 でも、違った。

 彼女には彼女の新しい日常があり。新しい友達がいて。今の日常を共有していない私とは分かち合えない話題が増えて、砂時計の砂が落ちるように連絡は途絶えた。

「手の届く範囲にいなければ人は誰かを大事に出来ないのでしょうか」

 これまでの悩みが綺麗に形になって私の中に落ちた。

 それと共に、思うのだ。

 友達であれば全てを分かち合うべきとまでは思わない。けれどもしも、私が彼女の悩みを打ち明けてもらえるほどの存在であったなら、距離すら飛び越えて私達は友達で居続けられたのではないか。

「文字じゃなくていい。アプリを起動して私宛にスタンプを一つ送る。たったそれだけでいい。彼女にとっての私は、十秒ほどの時間すら惜しむ程の、面倒とも思わないくらいの、たったそれだけの手間を惜しむ程の存在だったのかと思うと、悲しくて寂しくて彼女を信じてた自分が情けなくてどうしようもない気持ちだけが私をいっぱいにするんです」

 私、あなたと、友達でいたかった。

 私だけだった? 私だけだったの?

 教室で毎日一緒だった。

 休み時間のたびに話して、放課後だって一緒に帰った。

 毎日毎日話しているのに話し足りなくて、一番の友達なんだって信じてた。

 中学一年生の秋。彼女が私のクラスに転入してきた日のことを覚えている。

 私は一目で彼女と友達になりたいと思った。理由なんて説明出来ない。でも仲良くなりたいと思ったのだ。

 一緒にいて楽しくなかった? その場だけだった?

 また転校するってなんで教えてくれなかったの。

「彼女の親は転勤が多くて、私達の学校もたった一年半でまた転校してしまいました。……転校を繰り返すことで、私には分からない気持ちが彼女にはあったのかもしれない。でもそれでも私、もしそうなら、そうだとしても、それをそのまま話してほしかった。話してほしかったんです。これまでの彼女の話。繰り返す日々で何があって何を思ってどうしてきたのか話してほしかった」

 友達だったのに。と、どうしても思ってしまう。

 私は転校先で会ったそこそこ気の合うクラスメイトでしかなかった?

 その時だけの友達だった?

 最初からいつか別れる存在でしかなかった?

 私は彼女に、距離が離れれば友達を忘れられるような人間だと思われてた?

 友達が一人いなくなるくらい平気だと思った?

 平気じゃない。私、平気じゃない。それでもまだ友達でいたい。話がしたい。また会いたい。

「私がおかしいのでしょうか。通り過ぎる人は見送るべきなのでしょうか」

 もしそうなら、なんて虚しいんだろう。

 大人からすれば馬鹿馬鹿しいと思うだろうか。それとも諦めたようにそんなものだよと思われるのだろうか。

 たった十五年しか生きていない。それでも十五年分の心で思う。もしこれから先もずっとそうなら生きていくのは虚しすぎる。

「これまでも転校の多い子なんだよね」

 俯くようにこくりと頷く。頭を下げたまま彼の話を聞いた。

「さっき君も言っていたけど、転校を繰り返すことで彼女は諦めてしまったのかもしれないね」

 私は違う。そう叫びたい。

 どうして私ではない人を引き合いに出して私もそうだと思ってしまうの。その程度にしか思われてなかったのだということが、やはり悲しい。

「来ない手紙を待つことに疲れてしまったのかもしれない」

「手紙じゃないですよ」

「これは比喩だよ。つっこまないでくれると助かる」

「すみません」

「君にとっては初めての出来事だろうけど彼女にとっては何回も繰り返されたことだ。どうせいつか届かなくなる手紙を待つのはきっと寂しいだろう」

 私が今こんなにも強く彼女に対して思っている気持ちを、彼女も持っていたのだろうか。

「世間が声高に叫ぶほど人と人の絆は強固なものではないよ。簡単にちぎれてほどけてしまう頼りないものだ」

「それならどうして人は絆が好きなんですか。テレビドラマでも漫画でも小説でも映画でもバラエティーでも絆絆絆。そればっかり。皆本当は知っているなら馬鹿馬鹿しい話じゃないですか」

 本当のことを隠しながらフィクションでだけ夢を見るなら、そんなの虚しい。

 虚しいことばかりだ。

「そうだよ。その通りだ。けれどね、本当は脆いことを知っているから信じたいんだよ」

 まだ子供の私にそんなことを言われても困る。納得なんて出来ない。本当は強固だって思いたい。

「中学生の君には酷なことを言ってしまうけど。人は人を裏切るし、愛が負けることもある。絆は脆いし、努力が必ずしも報われるわけじゃない。世界はきっと君にも僕にも、誰にだって優しく出来ていない」

 やめてほしい。どうしてこの人はこんな酷いことを言うんだろう。

「だけどだから信じたいんだ。俺はね、そう思う気持ちの方がきっと何よりも大事なんだと思うよ」

 現実でだって人は人を裏切らないし、愛は何にも負けない。絆は強固で、努力は報われる。世界は優しく出来ていると、思いたい。

 思いたいと考えている時点で私は現実がそうではないと知っているのだとしても、そう思いたいのだ。

 私を子供だと笑えばいい。それでもそう思いたいことの何が駄目なの。

「それはきっと君のことだよ」

「え?」

 何を言われたのか分からなかった。何を指した言葉なのか分からなかった。

「ねえ、君に提案があるんだけどさ」

「なんですか?」

「その友達に手紙を書いてみたらどうかな」

「手紙?」

 話が急に変わってしまった。メッセージを送るよりも手間のかかる、手紙なんかを書いてどうしろというのだろう。

「スマホでメッセージを送ったりするのと違って、手紙だと受け取るにも返信するにもタイムラグがうまれる。今この瞬間に届かない言葉だからこそ、伝えられることもあるんじゃないかな」

「……どういうことですか?」

「これまで君が彼女に伝えていないことがあるだろう?」

 ある。聞きたいことがあった。言いたいことも沢山出来た。けれどそれをスマホを使って送ることは出来なかった。

「だからそれを書いてみたら、手紙で。いいじゃないか青春の一ページにこっ恥ずかしいことをしてみたって。それだって青春さ」

 いいのだろうか。一方的に自分の言いたいことを伝えても。一方的に友達でいたいと思っても、伝えても、いいのだろうか。

「雨は嫌いだって言っていたんです。私はその理由を知りたかった」

「…………うん」

「聞いてもいいんでしょうか。私、一度は聞いたんです。でも嫌いなものは嫌いだって、それだけで。はぐらかされてしまいました」

「いいと思うよ。だって聞きたいんだろう、君は」

 耳に飛び込み続けている雨音がふいに大きく聞こえたような気がした。呼吸が少し、しづらくなった。想像するだけで緊張してしまう。

「うっとうしい、って、思われないでしょうか」

「例え思われたとしても明日も明後日も来週も常に顔を合わせる相手じゃないんだ。構わないんじゃないかな」

「……そう、かも、しれません」

「それに彼女だって手紙なら理由を教えてくれるかもしれないよ。面と向かって自分のパーソナルな所に踏み込んだ話をするのは誰だってためらうものだ。友達なら尚更」

「でも、もし返信が、来なかったら」

「もし返信が来なかったとして。今と状況は変わらないんじゃないのかな?」

 そうかもしれない。返信が来なかったら、やっぱり私は悲しいだろう。でも今と状況は変わらない。

 可能性にかけてみたっていいかもしれない。

「誰かに手紙を出すなんて初めてです」

「わざわざ書かないよな手紙なんて。LINEで事足りるし」

 書いてみよう。けれど一つ問題がある。

「手紙ってどう書けばいいんでしょうか」

 書き方が分からない。どう書き始めればいいのか、LINEみたいに書けばいいのか、日記みたいに書けばいいのか、話しかけるように書けばいいのか、理路整然と書けばいいのか、感情的に書けばいいのか、どうすれば伝わるのか分からない。

「友達への手紙の書き方に正解なんてないよ。君が彼女に話したいことを素直に書けばそれだけでいい」

「お兄さんがもし友達に手紙を書くなら、まず最初になんて書きますか?」

「俺? ……そうだな。まずは、久しぶり。元気か? とかかな?」

 そんなことでいいのか。そっか。……そっか。それなら私にも書けるかもしれない。

 ちらりとお兄さんの顔をのぞき見る。しとしとと降りしきる雨をぼんやりと眺めている顔に、奇妙なシンパシーを感じた。

 宇宙人とか幽霊とか自分を初めにはぐらかした彼。

 誰かも知らない中学生の話をゆっくりと聞いてくれた彼。

 この人はどうして私の話を聞いてくれたんだろう。

「……アドバイス…………してくれた、お礼に。お兄さんの話を聞いてあげてもいいですよ」

 お兄さんは目をまん丸に見開いてきょとんとした。

 ああ、私、外したな、と思って急速に消えたくなる。でも沈黙を崩すように今までで一番大きな声を出してお兄さんが笑った。

「じゃあ、聞いてくれるかな?」

 笑いを噛み殺しながら言われて、ちょっとムスッとしてしまう。

「聞いてあげなくもないです」

 ごめんごめんとお兄さんが謝る。仕方ないから許してあげよう。お兄さんは一息ついてからやっと話をする態勢に変わった。

「俺には中学生の弟がいてね」

「兄なんですね。以外」

「以外なんだ」

「一人っ子っぽいなって思っていたので」

「それは褒めているのかな? 貶しているのかな?」

 とても微妙なラインだったので、曖昧に笑って話の続きを促すことにした。

「なんだろう含みがあるね。まあ、いいけど。……それで俺は兄なわけだけど、その中学生の弟に「お前になんか相談出来ない」って言われたんだ」

「それは……」

「弟は最近学校を休みがちでね。気になって聞いてみたんだ。そしたら見事に反発されてしまった」

「不登校ってことですか?」

「そうなのかな? でも毎日ってわけじゃないんだ。登校したり休んだりバラバラでさ。何かあったのか、いじめられてるのか、俺には弟が今どんな状況なのか分からないんだ」

 話を聞きながら考えてみたけれど、私には月並みなことしか思い付かなかった。

「毎日じゃないってことは問題はクラスの子以外にあるのかもしれませんね」

「もしくは弟自身に何か持てあましているものがあるんだろうね」

 持てあます。とは、何をだろう。自分をだろうか。

「うちは兄弟仲が特別良いとは言えないんだ。普段から話もあまりしないし……子供の頃は一緒に遊んだりもしてたのに、どうしてこうなったんだろうな」

 自嘲するようにお兄さんは笑う。

「普段は弟のこと気にもしないのに、こんな時だけ気にかけるなんて都合いいよな」

「……でも。それは、だって気になるじゃないですか。普通気になりますよ」

 ありがとうとお兄さんは力無くこぼす。

「でも多分俺は最低な人間になりたくなかっただけなのかもしれない。きっと自分のために言ったんだ。弟に何か悩んでるなら聞くぞって」

「そんなことは……」

 ない。と言えるほど私はお兄さんのことを知らない。

「弟もそう思ったんだよ。きっとだからお前になんか相談出来ないって言われたんだ」

「だけどでもお兄さんさっき私に言ったじゃないですか。一度聞いて駄目でももう一度聞いてみたらって。毎日顔を合わせる相手だから無理ですか? もう一度聞いたら今よりもっと弟さんに嫌われてしまいますか?」

 お兄さんは諦めたような表情を変えない。

「もしもう一度聞いたとしても……」

 同じ答えが返ってくる。と続いたのだろうお兄さんの言葉は途中で途切れた。

 雨の音が私達の間にある沈黙を埋める。

「俺はどうやら弟からすると軽薄な人間らしい」

 きっとそれはお兄さんにとってはとても傷ついた言葉なのだろう。言葉に混じった少しの震えが私にそれを伝えた。

「確かに、弟さんの言う通りお兄さんは軽い人だと思います」

 乾いた笑いをもらしながら「やっぱりそうだよね」とお兄さんが笑う。……そうすると思った。

 短い時間ほんの少し言葉を交わしただけだけどこの人ならきっとこの場面で笑うと思ったのだ。

 だから私は続けた「でも」と。

「お兄さんは人を思いやれる。相談するに値する優しい人だと思います」

 お兄さんは軽い人に見える。表面上は軽い人に見える。けれど話している内にそうじゃない面だって見えたのだ。

「君は優しい子だね」

「お世辞じゃありませんよ」

 本心だった。だってこの人は私の話を聞いてくれた。

 馬鹿にせずに誠実に私の話を受け止めてくれた。

「君の優しさを無下にしたくはないから正直に言うけど、俺は君も弟のように学校をサボっていると思ったから声をかけたんだよ? それでも優しい人だなんて言えるかな?」

「言えますよ」

「君の話を聞いていれば弟の気持ちも分かるんじゃないかってそれだけで君の話を聞いていた。初めから君のために話しかけたわけじゃないんだ。僕は君を利用したんだよ」

 俺は優しい人でもなければ、良い人でもないんだよ。とお兄さんはとても正直に言った。

「……私、きっとここでお兄さんと会わなければこれからずっともやもやしたものを解消しないまま生きていくことになっていたと思います。だから会えて良かった。お兄さんと話せて良かった。お兄さんが弟さんのために私に声をかけたのだとしても、それに変わりはありません」

「そう、かな?」

「例え本当はお兄さんが優しい人でも良い人でもなかったとしても、私にアドバイスしてくれた事実が変わるわけではないです」

 この人は多分自分のことがあまり好きではないのだろう。

 だから初めに宇宙人だの幽霊だの言ったのだろう。

 兄弟の関係性なんて当人達にしか分からない。

 私からすれば優しいとしか思えないこの人が、普段は弟さんのことを気にかけないと言った。実際に二人がどんな関係性の兄弟だったのかを私は知らない。軽率に聞いていいことだとも思えない。

「ありがとう」

「どういたしまして」

「俺も君と会えて良かった。話せて良かった。どうなるかは分からないけれど、俺も君みたいに頑張ってみるよ」

「お兄さんも手紙を書きますか?」

 私がそう言うとさっきの自嘲よりは前向きにお兄さんが苦笑した。

「手紙は……書かないかな、読む前に捨てられそうだ」

「なるほどそういう場合もありますね」

「直接、伝えてみるよ。また反発されるだろうけど」

「応援してます」

「俺も心から応援するよ。君には幸せでいてほしい」

 大袈裟なことを言われたのでつい笑ってしまう。

「冗談じゃないよ」

「分かってますよ」

「俺はきっとボケた爺さんになっても君のことを忘れないよ」

「それはさすがに無理なんじゃないですか?」

「忘れない」

 お兄さんがあんまりにも私を真っ直ぐ見つめるから、急に居心地が悪くなってしまった。心臓がうるさい。彼の目を見れない。

「……また、ここに来ますか?」

 たったこれだけの出会いなのに離れ難いなと思った。ここで別れるのは惜しいと思ったのだ。

 もしかしたらこの気持ちはいつか恋に変わるのかもしれないとすら思った。

「もうここに来ないのは君だろう」

 声が詰まる。気付かれていたんだ。

「俺はここが地元なんだよ。君の着ている制服がここら辺の中学校のものではないことくらい分かる」

「……ここの、隣町が、彼女が引っ越した町なんです。本当は学校に行こうと思ってたのに、衝動で、電車に乗って、でも、私」

「一つ手前の駅で電車を降りてしまったの?」

 もしも運よく彼女に会えたとして、何を言えばいいのだろう。

 拒絶されるかもしれない。気持ち悪いと思われるかもしれない。そう思ったら電車を降りていた。

 けれど学校に登校する気にも、自宅に帰る気にもなれなくて、降りた駅から出て、あてどもなく歩いた。

 スニーカーが雨水を吸って重く冷たく、奇妙な疲労を感じていた。そんな時、公園の片隅に東谷があるのを見つけたのだ。

 導かれるようにベンチに座り、私は一体何がしたいのだろうと雨を眺めながら自分に呆れていた。そこに彼がやって来たのだ。

「じゃあ感謝しないといけないな」

 声が喉に引っかかって上手く喋れなかったので無言で頷いた私に彼はそう言った。

 感謝? 何にだろう? そんな疑問がそのまま表情に出ていたのだろう。お兄さんは私の顔を見て晴れやかに笑っている。

「偶然に。だっておかげで君に会えた」

 あんまりにあんまりな台詞のような発言だったから、思わず呆気にとられてしまった。

「……お兄さんは実はフランス人とかですか」

「生粋の日本人だよ。どうして?」

「日本男児が口にする言葉とは思えません……!」

「俺はどうやら君いわく軽い男のようだから、歯の浮くような台詞だって口に出来るんだよ」

 もしかして根にもっていたのだろうか。大人気ない人だ。

「軽い人って言ったんです。軽い男なんて言ってません」

「そんなのほぼイコールだろう」

「軽い人って軽やかな人ってことです全然イコールじゃないです」

「そうは聞こえなかったけどな」

「大人気ないですよ」

「俺はまだ未成年だから大人気なくても許されるよ」

 それでも私からすれば十分大人だ。年の差を考えたらこの大人気なさは許されないと思う。

「ねえ、思うんだけどさ。俺と君の間には偶然会うことだけが必要なんだと思う」

「なんですかそれ」

「約束もしない。連絡先も交換しない。それでも俺達はまた会えると思う?」

「……分かりません」

「うん。俺も分からない」

 声が震えないように慎重に声を出した。動揺しているだなんて思われたくない。

「私とはもう会いたくないってことですか」

「違うよ。それは違う。会おうとして会わない方がいいってことだ」

「同じじゃないですか」

「違うよ。軽い人と軽やかな人くらいには違う」

 もう何が何だか分からなくなってきた。結局この人は何を言いたいんだ。

「君はさ、俺に少し好意をいだいただろう?」

 まだあやふやな気持ちをはっきり言葉にしてしまうなんて、デリカシーのない人だ。

 私は今、耳まで赤く染まっているだろう。

「吊り橋効果って知ってる?」

 それなら知っている。橋を渡ることで生じた緊張感を恋愛感情のどきどきと錯覚することだ。

「別に緊張もしていなければどきどきしたわけでもないですけど」

「似たようなものだよ。非日常感な点ではね」

 なんて面倒な大人だろう。さっきまでは格好良かったのに。

「俺は俺を幼気な中学生におすすめ出来る人間だとは思っていない。君と……付き合ったら普通に犯罪だしね。俺はロリコンじゃない。もしも君が年上の男を今後好きになっても、好意を向けられたからといって気軽に付き合うような大人はロクな人間じゃないから気を付けてほしい。これは最後のアドバイスだよ」

「言い訳にしか聞こえません」

「言い訳にしか聞こえないとしてもこのアドバイスは覚えていて。俺は君に本当に幸せでいてほしいんだよ」

 渋々だけど頷いた。彼が真剣に言っているのが分かったからだ。

「でもね、もしもまた偶然会えたなら、それはもう仕方ないんだと思う」

「仕方ない?」

「そうだよ。その時は絶対に君から逃げない。大人ぶったようなことも言わない」

「観念してくれるんですか」

「うん。全面降伏するよ。それにいつか君に会うかもしれないなら、俺は少しでも格好良い大人にならないといけないと思えるから頑張れるはずだ」

「なら、私も頑張ります」

 ついつい胸の前で拳を握ってしまった。

「俺はね、今は君の人生を通り過ぎるけど、君は俺にとってとても大事な存在だ。本当に会えて良かった」

 私の話をここまで誠実に受け止めてくれる人に、家族以外で初めて出会った。

 彼は自分自身で私の鬱屈を晴らそうとしてくれていたのだ。

「あなたはずるい人ですね」

「大人に近付くと人はずるくなっていくんだよ。ごめんね」

「私きっと次に会う頃にはあなたじゃない彼氏がいますよ」

「残念だけどそうだろうね。君は素敵な人だから」

「全力で後悔してもらいますよ」

「みっともなく悔し泣きしてあげよう」

 本当にずるい。こんなに優しくしておきながら、離れていくのだから。

「偶然、会えると本当に思いますか?」

「分からないよ。だけど……」

 だけど、会えたら良い。だろうか。さすがに自分に都合良く考えすぎだろうか。

「私も、…………私も、あなたに幸せでいてほしいって思います」

 幸せでいてほしい。人に初めてそんなことを思った。

 私と彼はここで別れる。

 絆とはなんだろう。テレビドラマでも漫画でも小説でも映画でもバラエティーでも謳われているそれを、本当の意味で理解している人なんてどれくらいいるのだろう。

 私と彼はここで別れる。けれど偶然を信じたい。――ああ、これか。

 「だけどだから信じたいんだ」彼の言葉が頭の中で蘇った。信じたい。信じたい。信じたいから、信じたい気持ちを込めるんだ。

 それはきっと虚しくない。

「さよなら」

「さようなら。気を付けて帰るんだよ」

 さよならという一言は驚くほど自然に口からこぼれ出た。彼が手を振って私を見送るから、私も笑顔をおまけに手を振り返した。

 この出会いは虚しくない。




 傘が雨をはじく音を聞いている。

 雨音は強く、バチバチ音をたて世界を奏でている。

 少しでも雨水に抗おうとブーツを履いたが、水を吸って爪先が冷たい。

 大学の合格通知を手にしながら歩いている今でも私は彼と出会えていない。

 人と人が偶然出会う確率はどれくらいだろう。彼と会うことは二度とないのだろうか。

 彼のアドバイスによって中学生の私が出した手紙は彼女に届き、彼女が出した手紙は私に届いた。

 今はもう手紙でやり取りすることはないけれど、私と彼女の友情はまだ続いている。

 転校した友達とそれでも友人関係が続く確率はどれくらいだろう。私はそれを結構少数派だろうなと思う。

 あの時のお兄さんと同じくらいの年齢になった今は、彼の言葉の誠実さが分かる。

 彼氏はいない。

 結局彼のことがちらついて、同級生と付き合ってみても恋は出来なかった。

 私は彼に恋しているのか、それは曖昧だ。ただあの日の思い出に執着しているだけなのかもしれない。恋ではなく、刷り込みのようなものなのかもしれない。

 それでも私はあの人に会いたい。

 会えるだろうか。あの公園に行けば。自分から引き寄せたものでも、偶然だと言ってもいいだろうか。

 だって彼が私に教えたのだ。絆なんて脆いけど、繋ぎ止めようとすることだって出来ると。

 会えるだろうか。分からない。でも私は今こんなにも偶然を自分から作り出したい。

 もしも会えなければ、きっと私はひどく落胆するだろう。けれどもし会えなかったとしても今と状況は変わらないのだ。

 例え落胆するのだとしても、私は会いに行きたい。

 会えないかもしれない。何度足を運んでも会えないかもしれない。

 私達は二度と会えないのかもしれない。

 でもそれがなんだというのだろう。

 きっとこれから先どれだけの人と出会っても、雨が降れば私はあの日を思い出すだろう。

 それは仄かな明るさと温かさを伴って私の中で灯り続けるのだ。

 さあ、全面降伏してもらおう。だって私はあなたに会いたい。

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