森へ行こうよ

 湯船の中に枯葉が舞い落ちた

 立ち込める湯気の中に紛れ、恥ずかし気に揺れるその小さな茶色の葉っぱが言った

「森へ行こうよ」


 私は肩まで湯につかり直し、ゆっくりと十秒を数えて立ち上がった

 薄っぺらのバスタオルで全身をぬぐい、床に散らばった衣類を身に着け、赤いドライヤーをコンセントに差すと、温風の中に声が聞こえた

「森へ行こうよ」


 イチジクのジャムの瓶を開け、パンに塗って食べながら、外は寒いかと独り言を零すと、

「そうでもないよ」と、口の中から声が聞こえた


 魔法瓶にはカモミールティーを入れ、一度着けた腕時計は思い直して窓から捨てた

 今日のラッキーカラーは何だったかと呟くと、

「今日は占い見てないじゃない」と返答があったので、声の聞こえたところにあったミサンガを取って手首に巻いた


 空は広くて、見上げれば落ちてしまいそうなほど深く青かった

 アスファルトの道にところどころ椿の花が落ちていて

「森へ行こうよ」と囁いてくるので、私は一つ一つ丁寧に踏みつぶし、ふらふらと道を歩いた


 瑠璃色の瞳を瞬かせた猫は何も言わずにあくびをする

 電信柱にとまった大きな鴉が小首を傾げてこちらを見下している

 路にはみ出した民家の木の枝から、蓑虫がぶら下がって揺れていた

「どこに行くの?」


 窓ガラスに映る私の顔は能面のように白く

 ブロック塀をなぞる指先に微かな振動が伝わる

「森へ行こうよ」


 不規則な私の足踏みはいつしか緩やかなステップになり

 真っ白な太陽が落とす濃い影がちぐはぐに動き始める

 いつしかアスファルトは途切れ、湿った土の上を踊り出す


 堆積する腐葉土の匂いが肺を満たし、まばらな影が頭上を覆っていく

 大きく動かす腕を堅くしなやかな枝葉がひっかき、小さな痛みが積み重なっていく

 天鵞絨の色をした闇が目の前に広がっていく


 蔦が絡まる

 花が咲く

 声が聞こえる

 私の歩みはいつしか暗く湿った土の中にあって、その上に幾枚もの枯葉が積み重なっていく


「ようこそ」


 暖かい

 たしかに、今日はあまり寒くないようだった

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