さいはての城 〜夢魔LMの書より〜

愛野ニナ

第1話



 今夜も私を慰めるための音色がこの部屋を満たす。

 月明かりだけが照らす冷たい石の部屋で。

 その美しい楽曲はどこからきたのだろう。

 よく知っているはずのその曲の名を、どうしても思い出せなかった。




 忘れ去られたような辺境の地、昼なお薄暗い鬱蒼とした黒い森に囲まれた古城。

 ここは領主の館であったが、領主は都へ出仕して久しく留守であった。

 私はこの城に住まうものであり、領主の妻か娘か妾かそのいずれかに違いない。

 私のほかには幾人かの召抱えがいるだけであった。

 召抱えの中にはかつて領主が領民の中から選りすぐり、騎士として雇われたものもいた。

 騎士とはいえこの城を守るわずかな騎士の全ては由緒も何もない家柄で、この地の領民の大半と等しく家に戻れば農民か猟師であった。

 そしてここでの私の生もまた、この地と等しく、忘れ去られたような存在であった。

 私の部屋は北の棟の中にあり、高い天井にはひとつだけ天窓があった。その窓から見える景色だけが、私の知る外の世界の全てであった。

 わずかな騎士達は皆、私の護衛という名目の見張り役ではあったが、私はけっして幽閉されていたわけではない。

 望めばこの部屋から、この城から出ることも叶ったし、ときには気紛れに森を散歩することもあった。

 それでも私は自ら囚人のごとく、その大半を占める時間を、この部屋の中で静かに過ごしている。

 外へ出たところで心を動かすようなものは何もなかった。

 見渡す限りの深い黒い森と、さらに遠くに高く、取り囲むような山脈が幽玄めいて見えると、ただ絶望が深まるだけであったから。




 若い騎士が鍵盤を奏でている。

 今夜も私を慰めるための、この曲を。

 月明かりだけが照らす冷たい石の部屋で。

 この曲はどこからきたのだろうか。

 この騎士とて領民のひとりにすぎず、出自も農民である。騎士には楽器の嗜みさえないはずなのに、音色は淀みなくどこまでも美しい。

 ああ、

 きっと楽曲は独立した魂を持って、異なる世界からやってきたに違いない。

 そして、騎士の身体を媒体として、私にその音色を聴かせてくれているのだ。

 遠い過去か、あるいは未来か、いずれにしても遥かな遠い世界の音楽であった。

 そして、いつか生まれ変わった世界で私はまた出会うだろう。

 異国の音楽家が月光に捧げた名曲として。





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